第5話 Boundless Leap
「んん〜、最っ高の景色!」
塔のてっぺん。
吹きつける風の中に身を立たせ、心地よさを感じていた。
両手を広げて、胸いっぱいに空気を吸い込んだそのときだった。
「……だれか」
忍陽はびくりと身を震わせた。
空耳かと思った。けれど次の瞬間また、呼ぶ声が聞こえた。
「そこに誰か、いるの?」
今度ははっきりと、こちらに対して呼びかけをしている。
「お願い。ここから…… 出して」
三度目にしてようやく、声の出どころを特定することができた。
足元からだ。
忍陽は恐る恐る床にうつ伏せになると、上半身を乗り出すようにして足元を覗き込んだ。見えるのは、鉄製の格子に障子紙を貼り付けたようなもの。中には光源があるようで、わずかに障子紙が光を帯びて見える。
「誰かいるの?」
誰か。とは言ったものの、そこはおよそ一平方メートル程度の広さしかない。何か。と言った方が正解なのか。そんなことを考えていると。
「私は長い間ここに閉じ込められているの…… どうか、助けて」
澄んでいるのに、どこか切ない痛みを感じさせる女性の声だった。
その「長い間」という言葉に、忍陽の胸が痛んだ。
――あの頃の私がそうだった。
仲間たちは演技を磨き、前へ進んでいったのに。
自分だけが身体の変化に追いつけず、同じ目標に向かって進むことができなくなった。自分だけが取り残されたように感じてしまった―― あの孤独を思い出す。
「わかった! 私は何をすれば良いの?」
なんの迷いもなく言いきった。
そんな忍陽の声に反応したのか、ふいに、障子に映るかすかな光が揺れた。
だが、その正体を目で確かめることはできなかった。
「ありがとう……」
たったそれだけの安堵の声に、忍陽の胸が熱くなった。
姿は見えない。幻かもしれない。
けれど、その声の必死さだけは嘘ではないと感じていた。
(ほんとうに、誰かが閉じ込められてるんだ……)
気づけば心臓が早鐘を打っていた。
長い間と言っていた。どれほどの時間のことを言っているのかはわからないが、こんな、普段滅多に人の来ないような場所ならば、きっとそれなりの時間だったに違いない。
私には、孤独な寂しさに震える辛さが、痛いほどわかる。
「どうすれば…… あなたを助けられるの?」
「……街にある十本の塔がわかる?」
言われて顔を上げる。視界前方には、三本の塔が確認できた。頭を左右に振って視線を巡らせると、二本ずつ、四本の塔を確認することができた。身体を捻り足元の方を見ると、三本。計十本の塔を全て確認することができた。
どれもこれも、今いる塔よりは少し低い。
「うん、十本の塔。確認できたよ」
「その塔の頂にお札が隠されているの。それを剥がして、ここに持ち帰ってほしい。四方の格子に貼り付ければ、私は自由になる」
なるほど。閉じ込められている、封印のようなものを解くために、四枚のお札が必要になる。
四箇所の塔に登って、お札を剥がして持ち帰る。これならば決して難しいことではない。簡単な要件だ、と思った矢先。
「お札は全ての塔にあるわけじゃないから、お札を貼られた塔を探さなくてはならないの」
新たな条件が提示された。十本中、六本の塔はハズレであると。
それでも別に、しらみ潰しに全部の塔をあたれば、集めることはできる。
「……わかった。必ず助ける」
そう答えた瞬間、空気がぴんと張りつめる。
天から澄んだ声が降ってきた。
【これより、籠の声は深淵より。が開始されます】
意味は理解できない。けれど、世界そのものが物語を紡ぎ始めたように響いた。
忍陽の胸が、高揚する期待で震えた。
塔のてっぺん。塔の縁に立ち、最も近い塔を目標に据える。
次の瞬間、一歩踏み出して宙に身を委ね自由落下する。落下の衝撃をひしゃげたゴムボールのように反発させ、中ほどのひさしを蹴って跳ね上がる。
塔の下に集まりつつあったプレイヤーたち数人が、それを目撃し唖然としていた。
「なに…… 今の?」
「あの忍者の娘、落ちたと思ったら…… 急に跳ねたぞ?」
「いや、残像しか見えなかった……」
忍陽はその視線を置き去りにし、屋根へストンと着地。瓦がカランと鳴り、風が頬を打つ。
真っ直ぐに続く長屋の屋根を駆けていくうちに、ふと全身に懐かしい感覚が蘇った。跳馬の助走―― 踏み切りに向かって一直線に走るあの感覚だ。
屋根の切れ目が近づいた瞬間、身体が自然に判断した。
両足で踏み込む。ロイター板の反発を思わせる反動を足裏で感じ、跳ぶ。そして前宙一回転。着地と同時に前転で勢いを逃がす。
(……そうだ、まだ跳べる!)
息を弾ませながらも、その感覚に胸が震える。
顔を上げれば、最初に目標とした塔が目前に迫っていた。だがその下には、すでに数人のプレイヤーが集まっている。
忍陽に気づいたのか、彼らは一斉に何かを叫んできた。
「――巻き込まれるぞ!」
頭上を指し示して必死に手を振る彼らの声を、忍陽はうまく理解できなかった。
(……巻き込まれるって、どういう意味?)
けれど、ここで立ち止まっている余裕はない。
駆け抜けざま、軽く笑顔で頭を下げ、忍陽は次の塔を目指して進路を変えた。
その直後――。
背後から轟音。
スルーした塔の上から、一人のプレイヤーが弾き飛ばされるように落下してきた。
ドンッと屋根を揺らす衝撃。直後、空を裂く羽ばたき。
黒い影。
漆黒の翼を広げた巨大な鴉が、獲物を狩る猛禽のごとく落下者へと急降下していた。
(……襲われてる? なのに、誰も助けないの?)
胸に疑問が芽生える。だが、忍陽は振り返らなかった。
――助けるべきは、あの声。
足はすでに、次の塔へと駆けていた。
屋根の上を弾むように疾駆すると、すぐさま次の塔にやって来た忍陽。見る限り、今度は誰の姿もない。
「よし、ここなら……」
塔へ駆け寄ると、勢いのまま跳び上がり、ひさしの端に指をかける。足で蹴り上がり、さらに上へ。
掌に伝わる木のざらつき――その感触が、白い粉をはたいた手を思い出させた。
(……マグネシア。部活で擦り込んだあの感覚!)
体は不思議なほど軽く、足裏で幅を測れば、次の一歩は自然に決まっていた。
忍陽のすぐ後に現れたプレイヤーが、それを見て驚きの声をあげる。
「速っ……!」
塔の半ばを越えたところで、大きな影が落ちた。見上げると、そこには巨大な鴉が、悠々とした動きを見せていた。
「さっきの鴉?」
鴉の動きに注意を払いつつ、スルスルと塔のてっぺんに上がった忍陽。見ると、爛々と輝く赤い双眸が忍陽を射抜く。
塔の頂にたどり着いた忍陽を待っていたのは。両翼を広げれば五メートルに届くほどの巨体を誇る鴉だった。
黒曜石のように鈍く光る羽根が陽光を遮り、爛々と輝く赤い双眸が忍陽を射抜く。
嘴をわずかに開けば、金属を軋ませるような低い唸りが空気を震わせる。
――ゴオォッ!
翼がひと振りされただけで、狭い足場は激しく軋み、塔がわずかに揺れた。
髪が乱れ、息を吸うだけで胸が押しつぶされるような圧が忍陽を襲う。
(……これが、この塔を守るもの……!)
しかし、怖気づいてなどいられない。
「悪いけど、あなたの隠しているお札は、私が貰っていくよ?」
腰の忍者刀を抜いた忍陽は、それを向けると宣戦布告をした。言葉が通じたわけではあるまいが、刹那、旋回を終えた鴉が向かってくる。
翼を広げた鴉は、両翼含めて五メートルはある。
鋭い鉤爪が忍陽めがけて迫り来る。
腰を屈めタイミングを図り、上空へ跳んでかわすと、空中で身体をひねり。
忍陽は、足の裏のわずかな違和感に気づいた。
鉤爪が塔の端を抉ると、砕けた破片が降ってゆく。
鴉は旋回をし、続けざまのに向かってくる。
「まさか、着地のタイミングを狙ってる?」
鴉は旋回を終えるや、再び向かってくる。
(……狙ってる、着地の瞬間を!)
身を縮めて抵抗を減らし、ほんのわずかに先に着地する。
そのとき足裏が沈む感覚があった。
(私はこの感覚を…… 知ってる!)
それは、床競技のタンブリングバーンの反発だった。
「跳べる!」
塔は木や石でできていても、脳と身体には“弾む床”の長年の感覚が染み付いている。
忍陽はそのまま蹴ると、再び跳んだ。
迫る鉤爪を、宙返り一回ひねりで紙一重にかわす。
だが爪先が袖を裂き、風圧で身体が揺らいだ。
バランスを崩しかけ――それでも塔の頂に踏み止まる。
しなりざまの
だが決して、交わすだけで精一杯になっていたわけではない。交わしながらも、刀が翼を掠め、黒い羽を散らしていた
「私も、やられっぱなしじゃいられないんだよ?」
逆手に持った刀を構えて言い放つ。
上空でこちらを見据えた鴉は翼を大きくはためかせた。
今度は塔全体が軋むほどの風圧が忍陽を襲う。
息を吸う間もなく、赤い双眸が閃いた。
咆哮。
その瞬間、鴉が三度目の突進を仕掛けてきた。
塔の頂は一平方メートル。避け場はない。忍陽は逆に足を踏み込み、前へ跳んだ。
「――こっちから行く!」
迫り来る鉤爪をすり抜けるようにしながら、鴉の足首を片腕で抱き込む。
さすがの巨体も慣性には逆らえず、ぐらりと重心を崩して空中で上下がひっくり返った。
逆上がりの要領で、忍陽は怪鳥よりも上に位置取った。
だが、掴んだ足首は決して離さない。
「ようし、捕まえた。さあ、次は今度はこっちの番ね」
目の前の鴉の腹部目掛けて、逆手に構えた刀を突き立てた。ズブリと肉を裂く感触。
鴉が悲鳴の咆哮をあげ、赤い双眸が苦痛に濁る。
吹き出した血が、キラキラと輝きながら霧散してゆく。
ここが正念場と悟った忍陽は、抱えていた足首を放すと、もう一刀を抜いた。
二刀を交差させるように振るい、翼や胸を容赦なく斬り裂いてゆく。
「このまま一気に決着をつける!」
飛び散る黒い羽根が、溶けるように消えてゆく。
最後に鴉の胴を蹴り放つ。
慣性で巨体が弾かれ、塔のてっぺんに叩きつけられた。
忍陽は空中で一回転し、落下する鴉を追うように姿勢を整える。
両刀を構えたその影が、真上から迫る。
「――これで……終わり!」
重力と全身の力を込めた一撃が、鴉の胸を深々と断ち割った。
断末魔の叫びと共に、巨体は霧散し、黒羽が雪のように舞い落ちて消える。
忍陽は刀を下ろし、息をつく。
張りつめていた全身の筋肉が、ゆっくりとほどけていく。
戦いを終えた――
けれどどこか違う。胸の奥に残る感覚は、恐怖とも満足とも違う、床演技を終えたあとのような安堵と充実感だった。
着地を決めた瞬間の、あの一瞬の静寂。観客の拍手が起こるまでのわずかな間。
忍陽はそれを感じていた。
視線を下ろすと、塔の表面に何かが落ちていた。
淡く光を放つ紙札が、黒い羽の名残の中に埋もれている。
「……これ、あの子が持ってたんだ」
忍陽はしゃがみこみ、札を拾い上げた。
指先で触れた瞬間、札面の文様が一瞬だけ光りを帯びた。それを懐にしまう。
「思ってたよりも、全然身体動いたな。ふふ、楽しくなってきた」
独りごちりながらも、つい頬が緩んでしまう。
刀を鞘に納め、息を整えると、遠くに見える塔へと視線を定めた。
「よし、次は―― あっちだ」
その一言だけで、さっきまでの緊張が切り替わる。
女子高生・陽凪の素の笑顔が、再び戦う者の顔へと戻っていった。
塔の下で戦闘の一部始終を、見上げていたプレイヤーたちは、ただただ言葉を失っていた。
帯刀している侍の青年が口を開いた。
「お、おい…… 今の見たか?」
「見てた…… 信じられないわよ。あの忍者の娘、塔の上で落ちずに勝っちゃったわ」
符を差し込んだ扇を手にしながら、声を震わせる女性。
そこには、驚嘆と、少しの羨望が混じっていた。
「しかもスキルを、一度も使ってなかったわ。術も、気の流れも感じなかった」
「俺、同じ忍者職だけど、あんな動きできる気がしないって」
小柄で細身の忍者の青年にも、感嘆の声が漏れている。
「……誰か、今の撮ってないか? 二人は配信者じゃないのか?」
忍者の青年は肩を竦める。
「俺は非公開モードだよ。録画もしてない」
「私も。まさか、こんな瞬間に立ち会うなんて思わなかったし……」
沈黙が落ちる。
悔しさを滲ませつつ、三人は、弾むように去ってゆく忍者の娘を見守ることしかできなかった。
「マジで令和のくノ一が、ここにいたわ」
風に混じるようなその一言が、三人の胸に焼きついた。
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