第二節 秘められた事情

 白百合の群れの前で、二人は立ち止まった。

 風に揺れる花弁が、淡い香りを空気に散らす。


「……きれいですね」

 陽菜はるなが口を開いた。声には温もりよりも、どこか翳りが宿っている。


「ええ……」

 悠翔は短く応じた。沙耶と同じ花を見ているはずなのに、隣には別の人の気配がある。その矛盾が胸をざわつかせる。


「昔、誰かに教えてもらったんです。この花は『純潔』とか『再生』の象徴だって」

 陽菜は小さく笑った。けれどその笑みは、花弁よりも儚く見えた。


「……大切な人ですか」

 悠翔の口から、自然と問いが零れる。


 陽菜は一瞬だけ視線を逸らし、風になびくワンピースの裾を握りしめた。

「……ええ。もう、会えない人なんです」


 それ以上の説明はなかった。その一言に含まれた深い沈黙が、悠翔の胸を強く打った。


 僕と同じだ――。

 

 沙耶を失った痛みは、時間が経っても消えてはいない。けれど、いま目の前にいる女性もまた、同じ喪失を抱えて生きている。


 花の香りが、二人の距離を埋めるように漂う。

 悠翔の心には迷いが広がった。これは新しい出会いなのか。それとも、亡き人の幻に導かれた錯覚なのか。


 ――香りに惑わされているだけなのでは。


 そう自分に言い聞かせながらも、陽菜の横顔から視線を逸らすことができなかった。


 陽菜は微笑みを保ちながら、視線を足元へ落とした。

 その手には、小さな薬袋が握られている。白い紙越しに見える錠剤の影が、どこか頼りなく揺れていた。


「ここに来ると……少し、楽になるんです」

 そう言いながら、陽菜は肩で浅く息をした。わずかながら苦しげな仕草。けれどすぐに取り繕うように笑みを重ねる。


「薬のおかげで、以前よりはずっと……」

 言葉の端がふと途切れた。


 悠翔は問い返そうとしたが、彼女が顔を上げるより先に、その眼差しの奥に別の翳りを見てしまった。

「――あの人も、最後の頃はよく、ここに来たんです」


 短くそう告げると、陽菜は自らの言葉を後悔したように口を噤む。

 空気を切り裂くように、白百合の香りがふたたび強く漂った。


 悠翔の胸に、痛みが走る。

 悠翔は花の香りに揺さぶられながら、言葉を探すことすらできなかった。

 

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