余韻【壱】 ー白百合の幻香(嗅覚)ー
枯枝 葉
第一節 記憶の幻影
白い花弁が、朝の陽光をやわらかく受け止めて、ほんのりと輝きを帯びている。
病院の庭の片隅、背の高い樹々に囲まれた小径の脇に、白百合が群れをなして咲いている。風がそよぐたびに、花々の清らかな香りが空気に溶け込み、
悠翔は小さく息を吐き、手をそっと胸に当てた。目の前の光景は穏やかで、何気ない一瞬にすら、時が止まったかのように思えた。
――
夏の午後、公園の小径を手をつないで歩いた記憶が、香りとともに鮮やかに蘇る。頬を染めて笑う横顔、髪に絡む風の感触、肩が触れ合った瞬間の温もり。すべてが幻のように脳裏に浮かび、胸の奥で静かに疼く。
「……」
悠翔は言葉にならない息を吐き出し、目を伏せた。
二度と触れることのない温もり。
それでも、白百合の香りは今もなお確かに沙耶の気配をまとい、時間の隔たりを超えて悠翔に寄り添っている。
香りに導かれるように、悠翔の意識は夏のあの日の午後に戻った。公園の小径の木漏れ日の中、砂利を踏む音や風に揺れる葉のざわめきまでが、目の前に広がる。
沙耶がふと立ち止まり、楽しそうに笑った。
「ねぇ、見て、あそこ!」
彼女の指先が、小さな花壇の向こうにある青いベンチを指す。陽光を受けて輝く白百合が、その指の先で揺れていた。
悠翔は微笑みを返す。
手を差し出すと、沙耶は少しはにかんだように指を絡めてきた。掌の温もりが、今も胸に焼き付いている。
「今日って、なんだか特別ね」
沙耶の声は風に溶けるように柔らかく、香りの中にふわりと漂った。
「うん、……こうして一緒に歩けるだけで、十分だ」
悠翔は言葉を返しながら、肩が触れ合う感触を意識した。汗ばんだ手のひら、少し跳ねる心臓の鼓動、そして花の香りが混ざり合って、世界は一瞬、二人だけのものになった。
香りが、再び悠翔を現実に引き戻す。
庭の白百合の間を吹き抜ける風に、沙耶の声も笑顔も、ほんのひとときだけ蘇った幻のように漂う。胸の奥に疼く痛みと同時に、確かに生きていた日々の温もりがよみがえり、香りはそのすべてを抱きしめるように悠翔を包んだ。
――まだ、ここにいる。香りが記憶を呼び覚まし、沙耶の面影は今も胸の奥に生き続けている。
そのときだった。
ふと視線を上げると、白百合の群れの向こうに、同じ花を見つめる女性が立っていた。薄いワンピースの裾は風にそよぎ、淡い陽光に透ける髪が揺れている。瞳はどこか遠い場所を見つめているようで、微かな憂いを帯びていた。
悠翔の胸の奥に、思わず息を呑む感覚が広がる。花の香りが、彼女の周りでいっそう濃く漂い、まるでその場の空気が彼女を中心に静止しているかのようだった。
白百合の清らかな光に溶け込むその姿は、記憶の中の沙耶とも、そして現実とも違う、儚く美しい幻影の一部のように見えた。白百合の花弁を揺らす爽やかな風の流れ……彼女の吐息さえ、混じり込んで届いてくる気がした。
悠翔は、思わず一歩を踏み出す。
胸に去来する懐かしさと、運命に導かれるような不思議な力。その出会いの瞬間が、ただの偶然では片づけられない気配が、そこには漂っていた。
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