北海道ミステリー・誰がアメマスを殺したか・死体を釣ったの何回目!?・探偵釣師 栗尾根天士の事件簿

沼崎ヌマヲ

第1話 アメマスはどこに消えた?

 夏の終わりに暴れ狂った台風は、日本列島から二十余名の魂を吸い上げ、裁判にかけられることもなく、留置場にも入れられず、名残惜しげに網走港の小型漁船を数隻沈めてオホーツク海へ高飛びした。

 道東の道路と鉄道は、ズタズタに断ち切られ、復旧のめどの立たない区間がいくつも残されていた。

 十勝では橋が落ち、走行中の車が流された。

 二名の行方不明者は、十月に入ってもまだ見つかっていない。


 秋は死の季節シーズン


 栗尾根天士くりおねたかしの足元にも死体が転がっていた。

 赤茶けた肌の、鼻先の曲がったオスのサケが、事切れて腐臭を漂わせているのだ。

 河原へ目を移すと、ところどころに赤茶色の影が落ちていた。

 落葉の吹き溜まり以外は、サケの死骸だ。

 産卵を終えた魚からどんどん死んでいく。

 舞い降りたカラスがそれをついばんでいる。


 まだ生きているサケもいる。

 時折、川底を黒い影がよぎったり、浅瀬でバシャバシャと跳ねていた。


 栗尾根は、いつの間にか川下へ流されてしまった釣糸を手元へたぐり寄せ、再び竿を振り込んだ。

 緩やかな流れに打ち込まれた餌は、サケの卵。

 イクラ。

 その、イミテーション。

 釣鉤つりばりに、ピンクの毛糸を巻いてハサミで丸く刈り込んだ手製の毛鉤けばりだ。


 水を吸ったニセモノのイクラが流れに飲み込まれ、沈んで消えた。

 沈んだイクラに引きずられるようにして、蛍光オレンジのナツメ型の小さなウキが川面を滑り始める。

 このスチロール樹脂のウキを「インジケーター」とか「マーカー」と呼ぶ奴がいたら、そいつはまぎれもなく毛鉤釣師フライフィッシャーだ。


 インジケーターは、地層がむき出しになった崖の下の青黒いよどみに沿ってゆっくりと流れていった。

 川幅は7、8メートル。

 広くても、10メートル。

 早瀬もなければ落ち込みもない、のっぺりとした流れだった。

 本州ならハヤかオイカワが釣れそうな雰囲気だが、道東の川はどこもこんな感じだ。


 栗尾根は竿を上げ、川から釣糸を引き抜いた。

 同じ場所を二回流したが、インジケーターに変化がなかった。

 もっと下流へ行こう。

 渓流釣りは上流へ釣り上るのが基本だが、道東の緩い流れは下るほうが釣りやすい。

 小石の河原をザッツ、ザッツと踏みつけるたびにキリリーン、カリリーンとベストに吊るした熊除けの鈴も鳴った。


 栗尾根の行く手に小さく見えている赤い橋梁は、廃線となったローカル線のものだった。

かつて沿線には炭鉱町が栄え、黒いダイヤと呼ばれた石炭を積んだ貨物列車が川をまたいで走っていた。

 1970年代に閉山。

 最盛期には人口2万人を越えた集落も散り散りとなったが、鉄道のほうは赤字を積み上げながら1980年代初頭まで走り続けた。


 山の灯が消え、鉄路も断たれ、すっかり寂しくなった土地に新たな価値を見出したのは釣人たち。

 ここは、春に川を下り、秋に海からさかのぼってくる大型アメマスの釣場として、全国の毛鉤釣師から熱い視線を注がれている超有名河川のはずなのだ。


 鈴の音が止んだ。

 栗尾根の足が、止まっていた。

 偏光グラスの目を細めて川の中を見つめていた。

 対岸に少しよどみができて川底が見えなくなっている。

 魚がひそんでいるなら、そこだ。


 栗尾根はリールから、淡いグリーンの釣糸を引き出しながらしなやかに竿を振り始めた。

 空を舞う釣糸は、栗尾根の前と後ろでU字の弧ループを描きながら距離を伸ばしていく。

 PVC(ポリ塩化ビニール樹脂)でコーティングされた毛鉤釣り専用の糸は、それ自体の重さで軽い毛鉤を狙ったポイントまで運ぶのだ。


 釣糸は対岸の深みを目指してするすると伸びて、川に薄緑色の線が引かれた。

 イクラの毛鉤が、流れに巻かれて沈んでいった。

 インジケーターが川を滑っていく。


 水面に浮かぶオレンジの点を、じっと目で追っていた。

 点が、何かにつまずいたように止まり、水にもぐった。

 すかさず、竿をあおった。


 毛糸のイクラに落葉の塊がついて返ってきた。

 栗尾根は溜息をつき、毛鉤から落葉を振り落とした。


 一昨年あたりから、だろうか。

 目に見えて魚が減ってしまった。

 以前ならちょっとした深みには必ず数匹、泳いでいた。

 中には80センチを超える巨大な魚影も揺らめいていた。

 それがサケではなく、アメマスなのだから驚いてしまう。

 釣人たちが夢中になって通い詰めるのも無理はない。


 ところが、アメマスは消えてしまった。

 これは、事件だ。


 釣人たちの間では、誰がアメマスを消したのか、犯人探しが始まっていた。

 今のところ有力な容疑者は「地球温暖化」――地球規模の巨大な犯人だ。


 近年、北海道の漁場では異変が続いている。

 全道的なサケの不漁。

 道南のホッケが不漁。

 日高ではシシャモの漁獲量が激減。

 根室のサンマも不漁。

 かと思えば、何十年も姿を見せなかったニシンが急に復活。

 暖流系のブリが豊漁……。


 温室効果ガスの増加が海水温の上昇を招き、魚類の回遊や繁殖に影響を与えているという説には信憑性がある。

 海と川を行き来するアメマスの生態にも何らかの変化が及んでいる可能性は高い。


 第二の容疑者は「漁業関係者」――これについては非常にデリケートな話になる。


 また鈴の音が止んだ。


 目の前に、巨人の足!?


 栗尾根がギョッとして見上げると何のことはない、鉄橋の柱だった。


 古びたコンクリートの橋脚の上に、錆びた鉄骨の橋桁が載っている。

 先ほど遠くに見えていた赤い鉄橋だ。


 橋桁には、栗尾根の背丈よりも高い位置に泥のあとがついていた。

 流木も折り重なるようにして引っかかっている。

 川の水位は元に戻ったが、台風の爪あとはまだ生々しく残されていた。


 橋脚の根元はえぐれて、黒い淵になっている。

 変化に乏しいこの川では珍しく、ポイントらしいポイントだ。


 栗尾根は水ゴケで滑りやすくなった流れに静かに足を踏み入れていった。

 胸まである胴長靴ウェーダーが、次第に流れに埋まっていく。

 足首から、ふくらはぎにかけてが、水圧でキューっと引き締められる。

 膝から腰へ、秋の川の冷たさがジンジンはい上がってきた。


 淵の手前で横倒れになった柳が、まだ青々とした枝を揺らして釣りの邪魔をしている。

 栗尾根は柳に引っかけないよう、慎重に竿を振った。

 オレンジのインジケーターは、橋脚に寄り添うようにして黒い淵の上を流れていった。

 栗尾根は瞬きもせず、じっとそれを目で追った。

 何度か流したが、インジケーターに変化はない。


 ここにもいない。

 この川はもうダメなのだろうか。

 地球温暖化が犯人だとしたら、冷水を好む魚はいずれ北の大地から消える運命だ。


 栗尾根は、鉄橋を見上げた。

 風化が激しく、もう赤い塗装と赤錆の区別もつかなかった。

 上を走っていたローカル線は、日本国有鉄道の民営化に先駆けて廃止されたという。

 民営化後、道内の赤字路線は堰を切ったように切り捨てられ、今や北海道の路線図は背骨だけ残ったサケの死骸だった。


 ふと気がつくと、水面からオレンジ色が消えている。

 瞬間、栗尾根の手首が勝手に返って、竿を立てていた。

 右腕に小気味いい引きが伝わってきた。


 と、思う間もなく魚が、水面を滑ってこちらへ飛んでくる。


 栗尾根の手元で、25センチほどの魚体が身をくねらせていた。


 このちっちゃいのが、アメマス。

 川で生まれ、海で育つイワナの仲間。

 銀色の鱗は見る角度によって、アメジストのような紫の光を帯びた。

 そこにちりばめられた、白い水玉模様。

 水玉で有名なアーティスト・草間彌生くさまやよいがデザインしたような、ポップな魚。


 サイズはともかく、やっと一匹、釣れた。

 在来種で、北海道を代表する釣りの対象魚だが、残念なことに味があまりよくないので、釣人以外には見向きもされない。

 放流したサケの稚魚を食い荒らすので、漁業関係者にとっては憎むべき害魚でもある。


 釣人の間で、漁民によるアメマスの大量駆除、アメマス大虐殺という都市伝説ならぬ辺境伝説が囁かれる背景がこれだ。

 栗尾根は小さなアメマスの口から鉤を外してやった。

 アメマスは、川に浸したてのひらの上でしばし、きょとんとして動かなかったが、釈放された事実に突然気づいたように尾びれを震わせて水中へ飛び出していった。


 再び淵へ毛鉤を送り込むと、またもインジケーターが沈み、小さなアメマスが水面に躍り上がった。


 同じ場所で続けて三匹。

 これまでの不調が嘘のように釣れ出した。

 この黒い淵の中にはアメマスが群がっているようだ。

 台風で流された土砂で川が浅くなり、魚が隠れる場所も減っている。


 もっと底のほうに、大物が隠れているかもしれない。

 栗尾根はベストのポケットから、粘土状のオモリを引っ張り出すと、指先で丸めて毛鉤の少し上に取りつけた。

 オモリには、タングステンの粉末が練り込まれていてよく沈むのだ。


 期待を込めて竿を振った。

 栗尾根のイメージの中で、イクラの毛鉤が川底にへばりついた大アメマスの鼻先までスーッと下りていった。


* * *


 キリリーン、カリリーンと鈴を鳴らしながら、枯れたススキをかき分けて、栗尾根が土手を上がってきた。


 ヒグマ出没注意の立て看板のある駐車スペースには、愛車のスズキ・ジムニーのほかにもう一台、釧路ナンバーのレンタカーが停まっていた。


 その横で、胴長靴をはいた男性が竿に釣糸を通している。


「どうでした?」

 見たところ五十五、六歳の男性は、釣り支度を進めながら朗らかに尋ねてきた。


「いや、どうもこうもないですね」

 栗尾根が答えた。


「ダメでしたか……」

 男性は釣糸を引っ張って竿先をぴんぴん曲げながら言った。


 栗尾根は男性の装備を見て、一瞬で理解した。

 アメリカ老舗メーカーの竿とリール。

 フェルトの中折れハット。

 ポケットがたくさんついた機能的なベストではなく、古風な釣り専用のショルダーバッグを下げていた。

 このスタイルを選ぶ毛鉤釣師は、高い確率であの映画の影響を受けている。


『リバー・ランズ・スルー・イット』

 日本公開は1993年。

 監督ロバート・レッドフォード。

 主演ブラッド・ピット。


 アメリカ西部モンタナ州のとある毛鉤釣り一家の家族愛、兄弟愛を描いた佳作。

 栗尾根が調べた範囲では、映画のせいで日本の毛鉤人口は十倍に膨らんだ。

 まさに毛鉤バブルだった。


「え、まったく? まったくダメ?」と男性。

「これくらいのが、三つです」

 栗尾根は左右の人差し指でサイズを示した。

「そうか、小物ばかりなんだ……」

 男性は竿の調子を確かめるように軽く振りながら独り言のように続けた。

「デカいのはどこへ行っちゃったんだろう……」


 釣場でよく見かける毛鉤釣師の年齢層は、五十代から六十代。そこに明らかなボリュームゾーンがあった。

 つまり三十代から四十代であの映画の直撃を受け、経済的に余裕もあるので毛鉤釣りを始めた人々だと考えると合点がいく。

 栗尾根は勝手に「フラピ(ブラピ)世代」と呼んでいた。


 自慢じゃないが、三十歳の栗尾根は、釣場で自分より年少の毛鉤釣師に出会ったためしがなかった。

 毛鉤人口の減少。

 釣師の高齢化。

 毛鉤専門店の相次ぐ閉店……

 日本が抱える問題の縮図がここにもあった。


「困ったもんだ。どうにかならないのかなあ……」

 男性の独り言が続いている。

 男性が振っている釣竿は、栗尾根が予算オーバーで手が届かなかった竿だ。

 為替で多少、値段は上下するものの税別で一本、10万円以上はするハイエンドモデル。


 だいたい毛鉤釣りは、若者が気軽に始めるには道具類が高すぎる。

 毛鉤業界がかろうじて命脈を保っているのは、釣師一人あたりの購入額が他の釣りより桁が一つ多いためだ。


「あれ、あなたもご存知ですよね?」

 揺れる竿先を見つめていた男性が、不意に栗尾根のほうを見て言った。

「はい? ええまあ」

 男性の釣具に気を取られていた栗尾根は曖昧に返した。

「ここのアメマスが、魚粉に加工されて、肥料やニワトリの餌になっているらしいじゃないですか」

 男性は呆れたように言った。

「ひどい話だよなあ……」


 それは初耳だ。


「アメマスなんて、漁師にとっちゃ、その程度の価値しかないんだろうけど。70センチ、80センチのアメなんてほかの場所じゃ、滅多に釣れないからなあ……もったいないですよ」

 男性は笑いながら同意を求めてきた。

「ねえ?」

 栗尾根は無言のまま曖昧な笑みだけ返した。


 この男性の中では、大型アメマス消失事件の犯人は漁業関係者に確定しているようだ。


 実は、真犯人は別にいる、という説もある。

 こんな田舎の小さな川が全国的に有名になり、年間延べ何千何万の釣人が殺到していたのだ。

 いくらC&R(キャッチ・アンド・リリース)だからといって、同じ魚が繰り返し釣られたら、やがて弱って死んでしまう。


 第三の容疑者――それは、アメマスの減少を嘆いている「釣人たち」。


 無自覚な犯罪ほどタチの悪いものはない。

 犯行現場(川)で被害者(魚)の一番近くにいたのに、事件と無関係ですむわけがないだろう。 


 そもそもアメマスは、産卵のために川をさかのぼってくる。

 魚が群れて釣りやすい時期だからといって、それを喜んで釣っていいのか。

 秋のアメマス釣りは、釣人としての倫理的問題もはらんでいるのだ。


 さらに言えばだ。

 魚釣りなんて、魚を鉤で引っかけて遊ぶ、野蛮で残酷な行為だという意見すらある。


 釣りとは高尚な趣味であり「魚と人間との技能の戦いちゅうこったなあ」と言ったのは、マンガ『釣りキチ三平』の主人公だったが、それも遠い昔の話になった。

 動物愛護の声が日に日に勢いを増している今日。

 愛護派の人々からすれば、生きものを使ったゲームなど言語道断。

 釣りは、憎むべき動物虐待の一種でしかないのだろう。


 これに対して、釣人の立場からの反論は難しい。

「正義」は向こうにある。

 世界中でアンチフィッシングの嵐が吹き荒れる、釣人受難の時代は、もうすぐそこまで来ている。


 そんな気がしてならないのだった。


「それじゃ、また」

 釣り支度を終えた男性が栗尾根の横を通りすぎていった。


「あ。ここはやめたほうがいいですよ」

 栗尾根が、我に返った。

 土手を降りていこうとする男性を、慌てて呼び止めた。


「死体があるんです」


「死体? 死体って……」

 振り向いた男性の表情が強張っていた。

「ああ、何だ。サケの」


「サケも、ですが」

「鹿ですか? もしかして、熊?」

「人です」


「ああ、人……ええっ? 人間!?」

 男性の声が裏返った。


「はい、人間です。ほら、あそこの鉄橋の下で水死体を釣ってしまいまして。そろそろ警察が来るはずなんですけど」


 男性が持っていた釣糸の先がぴょんと跳ねて、しゅるるるるっと竿のリングを逆戻りしていった。


「これからちょっと面倒くさいことになりそうです。場所を変えたほうがいいのではないかと」


「……マジで? それ、先に言ってよ!」


 栗尾根は頭をいて謝った。


 男性がそそくさと道具を片づけレンタカーで走り去ると、入れ替わるようにしてサイレンが響いてきた。


(つづく)

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