開花
大木が花を咲かせた。小さな小さな花。夕日に照らされ、オレンジに染まる。コーラルピンクになった花弁を見つめる。今年もまた、この花とともに過ごす。街でもよく見かける美しい花。風に乗ってその香りを運ぶ。それに誘われて行き着くのはこの場所。この街で一番の大木があるこの場所で
ジャリジャリと何かが来る音がする。毎年この時期に来る猫ではない。このリズムはきっと人だろうと、私は音のする方へ向く。そこにはスクールバッグを肩にかけて俯いて歩く少女の姿があった。こんな遅くに何をしているのだろうと、私は見つめる。ふと、その少女は立ち止まり、辺りをゆっくりと見回す。すると、この大木が目に入ったのだろう。こちらへと歩き始めた。私はこっそりと大木の裏へと回り込んだ。
少女は大木の下で止まる。その手を見ると細いロープが握られている。このとき私はこのままではいけないと思い、少女の目に入るだろう位置に座り、小さく小さく懐かしい歌を口ずさんだ。
「そこに誰かいるの。」
少女は不安げに問う。私に薄暗い中、スマホのライトが向けられる。「ひっ」と小さな悲鳴を少女は漏らしたが、恐る恐るこちらへと近づいてくる。私と目が合い、少し後ずさりをしたが、意を決したように、
「こんな時間に、こんな場所にいたらいけないよ。まだ4歳くらいでしょ? お家に帰ろう。お母さんが心配しているよ。」
と震えた声で最大限の優しさを持って言う。私はこんなところにいる訳も分からない子供によく声をかけられたなと思いながら、
「大丈夫だよ。お母さんはいないけど、お父さんは迎えに来てくれるって言ってたの。」
と子供らしく答えた。少女が戸惑うのが分かった。きっと、交番に連れて行くか悩んでいるのだろう。しばしの沈黙の後、
「じゃあ、お姉ちゃんもここで一緒に待とうかな。」
と少女は言って、私の横に座る。まずは起こりそうだった悲劇を今だけでも防ぐことができ、私は胸を撫で下ろした。
スマホの明かりが眩しくなり、月が顔を出す。
「お姉ちゃんはお家に帰らないの。」
と私は無邪気さを添えて問う。少女は言葉を発さず、眉を下げて、口角を上げる。察する能力のない
「帰れない…いや、帰りたく…ないんだ……。」
少女の瞳は揺れ、唇は震えている。あのような行為を実行しようと思うほどには心が疲弊してしまっているのだろう。可哀想だと思い、頭を撫でようと触れた瞬間、少女は大きく肩を上下させ始めた。私は咄嗟に背中に手を回し、さする。間違えてしまった。罪悪感が心を支配する。
「ごめんね。ごめんね。お姉ちゃん、大丈夫…。」
とオロオロしながら問う。しばらく経ち、落ち着いた頃には少女は心底疲れた顔をしていた。
「ごめんね。こんなになると思わなかったんだけど。」
とその顔で笑う。できるだけ私に不安にさせないような配慮が感じられた。私としてはそんなことなど気にせず青春を謳歌してもらいたいところなのだが、環境がそうもいかせなかったようだ。
「お姉ちゃん、あたしお話聞くよ。お姉ちゃん、大丈夫になって欲しいから。」
と私は考える間もなく言っていた。余計なお世話、こんな子供に言う事などないだろう。少女は目を丸くしている。当たり前だ。訂正をしなければと私が声を発する前に少女が「じゃあ、聞いてもらおうかな。少し難しいお話かもしれないけど。」と言った。私は姿勢をピンッとして、続きの言葉を待った。
少女は一度固く目を閉じるが、それをゆっくり開き、真っ直ぐに私を見た。
「私ね、いつも家にいるときはお勉強をしないといけないの。」
と諦めを含んだ笑いをしながら少女は言う。
「必ず。毎日、ね。遊ぶ時間なんてどこにもないの。周りの子はお休みの日とかにお友達と一緒にカフェに行ったり、カラオケ行ったりしているのに。私はそういうこと一度もやったことがないの。」
少女は膝を抱え込み段ボールに入れるほど小さくなる。
「一度もう嫌になって、家を飛び出したんだ。けど、何も持って行かなくて、お腹が空いてコンビニで食べ物を盗んじゃって…。それがすぐにばれてお母さんを呼ばれて…。」
言葉が詰まる少女の体は震えている。そっと背中をさすると、「ありがとう…。」と言い、息を吐いてまた話し始める。
「その後は地獄だった。私の部屋は牢獄状態。部屋の内側から外に簡単には出られない。好きなものは部屋の外。部屋の中では勉強以外に寝ることしかできない。私は人間以下の生き物になったと思った。」
過酷で最悪な環境、そこで生きていたのは奇跡だと私はそう思った。ぱっと少女は笑う。
「だから逃げてきたんだ、私。お母さんがいないうちに窓ガラスを割って、2階だったけどいっつも想定したから怪我なくサッと降りられたの。後はなんとなく歩いてたらここに着いたんだ。」
「おまわりさん、のところへは行かなかったの。」
と私は問う。すると、少女は表情を曇らせて、
「もう、終わりにしたかったから、助けてもらおうと思わなかったから行くつもりはなかったよ。それに万引きしたときに来た警察は私の傷に気づかなかったから、もういいの。」
と少女は左腕を少しまくり、手首をスマホのライトで照らす。そこには少女が抱えている思いを象徴する傷跡が生々しく残っていた。
「最近、カッターとかハサミとか取り上げられてて、もう血が出ることはないから平気なんだけどね。」
と、少女は笑う。困った、何を言えばいいのかわからない。何か言ってあげることができたならと私が考えていると、
「あ、ごめんね。こんなにお話するつもりはなかったんだけど。怖がらせちゃったよね。」
と少女は言う。私は大げさに「大丈夫だよ。」と大きな返事をした。少女はホッと表情を緩めて、大木の花を見る。
「綺麗だなぁ。」
少女は声を漏らす。その頬には一筋の涙がつたっている。
「ありがとう。聞いてくれて。お姉ちゃん少し大丈夫になったよ。」
と少女は微笑む。空を見上げ「もう少し頑張ってみようかな。」と呟く。その後の私たちは互いに言葉を交わさなかった。
瞼の向こうが眩しくて目を開くと、日が昇り始めていた。気がついたら眠っていたらしい。隣を見ると少女の姿はもうそこになく、一本のロープだけがそこに落ちていた。あの少女は自らが救われる道を選べたのだろうか。私に少女の未来はわからず、知るすべもない。あの少女のような来訪者は珍しくない。だが一度決めた道を変えられるものは少ない。私はただこの場所で少女の幸せを願うばかりだ。
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