最終話 二人の未来
数年後。
村乃屋は少しずつ新しい工夫を取り入れながらも、昔ながらの温もりを守り続けていた。
館内にはどこか懐かしい木の香りが漂い、訪れる人々の足を自然と緩める。
地域の人々からも「また来たい」と言われる宿として、確かな歩みを重ねている。
玄関に立つ結衣は、季節に合わせた淡い藤色の小紋に、きりりと黒帯を締めていた。
柔らかな笑みを浮かべ、一礼する姿には、初々しさよりも確かな落ち着きがあった。
しなやかな所作に宿の空気が和らぎ、到着した客の顔にも安心の色が広がる。
すっかり「若女将」の佇まいである。
一方の俊太郎は、客室や厨房を回り、従業員や客の小さな変化に気づき、自然に声をかけていた。
厨房で黙々と包丁を握る、しかめっ面の板前の肩を軽く叩いて「板さん、鯖の干物みたいな顔で怖いよ」と冗談を投げる。
途端に厨房に笑いが広がり、板前も思わず口元をほころばせた。
常連の客にはさりげなく好みの酒を勧める。
誰に教わるでもなく、宿を支える「番頭」としての風格が身についていた。
母は「若い二人がしっかりしてきた」と穏やかに微笑み、父は口数少なくともどこか頼もしげに息子を見つめていた。
祖母は談話室で湯呑みを手に、「あんたたち、いい宿にしたねぇ」と、しみじみとした声を漏らしている。
家族にとっても、村乃屋の変化は確かな誇りになっていた。
夜。
仕事を終えた二人は、灯りの残る廊下を並んで歩いていた。
磨き上げられた木の床が、橙色の光を淡く映す。
ひときわ静かなその時間だけが、二人のために用意されたご褒美のようだった。
「気づいたら、結衣もすっかり“若女将”だね」
俊太郎が、少し照れたように
「あなたもね、“宿の番頭”って顔してる」
結衣も笑みを返す。
その声は、張り詰めた一日の疲れを解きほぐすようにやわらかい。
少し間を置き、結衣は視線を前に向けたまま打ち明けるように言った。
「実はね…昔、二人で旅行に行ったとき。あなたの実家が旅館をやってるって聞いて、ほんの少しだけ、こんな未来を想像したんだ」
俊太郎は足を止め、結衣を見つめる。
「で、やってみてどうだった?」
問いに、結衣も歩みを止めて顔を向ける。
灯りに照らされた瞳が重なり、自然に微笑み合う。
言葉はなくとも、答えは互いに分かっていた。
その後、二人は静かな庭に出て、夜風にあたりながら空を仰いだ。
庭石の脇で虫の声が響き、星明かりと宿の灯が淡く重なる。
寄り添って立つ二人の背中には、支え合いながら続いていくこれからの人生の始まりが、確かに映し出されていた。
香りの余韻、心の行方 千夜かおる @chiya_kaoru
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