第29話 覚悟
館内が静けさに包まれた深夜、俊太郎は両親と居間に腰を落ち着けていた。
湯呑から立ちのぼる湯気が、白く細い筋となって天井へ消えていく。
父は腕を組んで黙ったまま、母は視線を落とし、やや沈んだ空気が流れていた。
俊太郎は湯呑を両手で包み、意を決して口を開く。
「…実は、会社を辞めて戻ろうかと考えてる」
その一言に、母は息を呑み、父は眉をひそめた。
「どうしてまた、そんなことを?」
母の声は驚きよりも不安を帯びている。
「外に出て分かったことがあるんだ。…この旅館で手伝ってみて、少しは自分の役割を感じられた気がして」
言葉を選びながら話すものの、それ以上が続かない。
喉の奥に、本当の理由がつかえているのを自分でも分かっていた。
「外に出て、まだ三年だろう」
父が低い声で口を開いた。
「そんなに簡単に戻るなんて、いい加減な気持ちじゃ困る」
「…分かってる」
「俊太郎。あんたが本当にそうしたいと思うなら止めはしない。でも、ただ“居場所が欲しい”とか、“気持ちが揺れているから”って理由なら、ここは務まらないわよ」
母も静かに釘を刺す。
両親の真剣さを前に、俊太郎は反論できず、ただ「大丈夫だ」と曖昧に答えるしかなかった。
結局、会話は平行線のまま終わり、心の奥深くにある「結衣の存在」を言葉にすることはできなかった。
翌日。
宿泊客のチェックアウトと、館内の清掃が落ち着いた昼下がりの談話室は、柔らかな光に包まれていた。
祖母がいつもの椅子に腰かけ、湯呑を手にしている。
静かに茶葉の香りが漂う中、俊太郎はその隣に腰を下ろした。
しばらくは言葉もなく、ただ同じ景色を眺めていた。
祖母は急かさず、微笑みを浮かべたままお茶をすすっている。
やがて、俊太郎は小さく息をつき、ぽつりとこぼした。
「…実は、好きな人がいるんだ。東京から、こっちに異動になって」
「ふうん」
祖母は驚いた様子もなく
「どうしても、傍にいたいと思った」
「その人は、俊太郎がそうすることを望んでいるのかい?」
問われて、俊太郎は視線を落とした。
「…いや。きっと喜ばない。僕のことを守ろうとして、覚悟を決めて異動を受け入れたはずだから」
「優しい人なんだね」
祖母は静かに言葉を続けた。
「でも、そうやって守られている俊太郎は、幸せかい?」
「…え?」
思いがけない問いに、俊太郎は息を呑む。
「いや…僕のせいだ、って思ってる。責任を感じてる」
「じゃあきっと、その人のためにここへ戻って来ても、同じことだよ」
俊太郎は言葉を失った。
頭の奥で繰り返していた理屈が、すっと崩れていくのを感じる。
祖母は湯呑を傾け、口に含んでからゆっくり置いた。
「俊太郎がやりたいことが、ここにあると思うなら――やってみればいいんじゃないかい」
その声には押し付けも説得もなく、ただ受け入れる静けさがあった。
俊太郎はすぐには返事をせず、胸の奥に残る違和感と共に、祖母の言葉を反芻した。
自分が本当に望んでいるものは何か。
結衣のために、だけではなく――。
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