第21話 乗れなかった列車

山あいを縫うように走る登山鉄道の小さな車両は、紅葉に包まれた斜面の間をゆっくりと進んでいく。

窓の外に広がる赤や橙の彩りが、まるで絵画のように視界を染めるたび、結衣は指を差して声を上げる。


「あ、あそこきれい」


俊太郎も思わず身を乗り出し、二人は子どものように声をあげては顔を見合わせ、笑い合う。

観光客のざわめきに満ちた車内で、ふたりの世界だけが柔らかく浮かび上がっていた。


山腹に建つ近代的な美術館に着くと、館内の静謐せいひつな空気が二人を包んだ。

高い天井から差し込む柔らかな光に照らされた絵画や彫刻を並んで眺めながら歩く。

人目を気にしつつも、結衣の指先がそっと俊太郎の手を探す。

彼が握り返すと、自然に歩調が重なり合い、まるで以前からそうしてきたかのように展示を巡った。


広い芝生に点在する現代アートの野外展示では、互いのスマホで写真を撮り合い、少しふざけ合う。

結衣が俊太郎にレンズを向けたあと、「はい、次は私ね」と笑顔でポーズを取る。

その無邪気な表情を画面越しに見た瞬間、俊太郎は胸の奥に温かいものが灯るのを感じた。

今この瞬間が、きっと二人だけの宝物になる。


「何か、今日の記念になるものを買おうよ」


夕暮れが迫る頃、ミュージアムショップに立ち寄ると、結衣がそう提案した。


棚に並んでいた革製のブックマーカーを二つ手に取り、色違いで購入する。

ひとつを差し出して「これは俊太郎くんに」と微笑む結衣に、俊太郎は照れくさく笑い返す。

二人だけが知る小さな印が、静かに心に刻まれた。


再び登山鉄道に揺られ温泉街の駅へ戻る頃、空は薄紫に染まり、山影が長く落ちていた。


「じゃあ、僕はここで…」


改札口の外、すでに入線している新宿行きの特急列車を前に、俊太郎は一歩引き、結衣を見送るふりをする。

互いに人目を気にし、別々の列車を手配していたからだ。


結衣は停車中の列車の影へと歩き去り、その姿は俊太郎の場所から見えなくなる。

発車ベルが鳴り、列車がゆっくりと動き出した瞬間、俊太郎の胸には重苦しいものが広がった。


が、列車が走り去ったと思った次の瞬間、ホームに取り残された結衣の姿が視界に飛び込んできた。

視線を落とし、立ち尽くす結衣。


「えっ…結衣さん?」


衝動に突き動かされるように、俊太郎は改札を抜け、ホームへ駆け寄った。

驚いたように顔を上げた結衣の瞳には、涙が浮かんでいた。


「こんなに幸せなのに…急にひとりになるのが、怖くて…どうしても、乗れなかったの」


その声は震えていたが、確かな思いが宿っていた。

俊太郎は言葉を探すより先に、彼女を抱きしめた。

人目を忍ぶため短い抱擁ほうようだったが、その熱は確かに互いに伝わった。


俊太郎が一人で乗るはずだった列車の座席、二人は並んで腰を下ろす。

窓の外はすでに闇に沈み、車内灯に照らされた結衣の横顔が淡く浮かぶ。

あの夏の出張帰りと同じように手を重ね、指を絡ませる。

隣の座席から微かに届く結衣の新しい香水の香りだけが、あの頃とは違う関係を告げていた。


やがて結衣は、疲れと安堵に俊太郎の肩へと身を預け、静かな寝息を立て始めた。

結衣の体温を腕に感じながら、俊太郎は暗くなった車窓を見つめる。


――もし、同じ列車に乗る姿を誰かに見られたら。


そんな考えが一瞬よぎる。

だがすぐに首を振り、その不安を奥へ仕舞い込む。

隣で眠る重みに意識を戻しながら、彼はただ前方へ走る列車のリズムに身をゆだねていた。

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