第4話 甘いノック

居酒屋を出てタクシーに乗り込むと、結衣は少し肩を落とし、窓側の席に体を預けるように座った。

俊太郎は隣に腰を下ろし、横顔を盗み見る。

街灯が窓を流れるたび、結衣の頬にかすかな陰影が差す。

その頬はうっすら赤みを帯びていて、酔いの色が隠し切れていない。

軽く肩に触れて声をかける。


「新藤さん、体調は大丈夫ですか?」


結衣は小さく笑みを浮かべ、「大丈夫よ」と答える。

その声は柔らかかったが、息がわずかに弾んでいるのが分かる。

俊太郎の胸はさらにざわついた。

普段なら決して見せない無防備さが、今はすぐ隣にある。


やがてタクシーがホテルに到着した。

精算を済ませて車を降りた瞬間、ふわりと夜風がふたりを包む。

東京の街にまとわりつく熱気とは違い、東北の夏の夜風はどこか澄んでいるように感じた。

昼の名残をほんのり残しながらも、肌をすり抜ける風は柔らかく、長旅の疲れをそっと癒やすようだった。


フロントでチェックインを済ませると、結衣はまっすぐ自分の部屋に向かい、俊太郎はその背中を目で追った。

廊下に響くヒールの音が遠ざかっていく。

扉に手をかける姿を見届け、俊太郎はようやく自分の部屋に入った。


鍵をかけて、深呼吸をひとつ。

外の喧騒けんそうから切り離された静けさが、緊張の中にほっとした余白を作る。

街の明かりがカーテン越しにかすかに差し込み、昼間の張りつめた空気とは違うやわらかさを部屋にもたらしていた。


だが、頭の中から結衣の姿は離れない。

飲みすぎていないだろうか。

ひとりで部屋に戻って、倒れたりしていないだろうか。

自然と心配の気持ちが膨らみ、胸の鼓動が落ち着かない。


ふと――軽やかなノックの音が響いた。

俊太郎は息を止める。

誰だ、といぶかしみながらもドアに近づき、恐る恐る開けた。


そこには、赤らんだ頬で微笑む結衣が立っていた。

瞳はわずかに潤み、細やかな光を宿している。

ふわりと漂う香水の香りが、俊太郎の鼻をくすぐった。昼間の会議室で感じた冷静な空気とはまるで違う、柔らかくて甘い匂いだった。


「…もう少し付き合いなさいよ」


結衣はそう言った。

その調子には、酔いの軽やかさと、相手を信じ切っている安心感が漂っていた。


俊太郎は一瞬、言葉を失う。

すぐに浮かんだのは、期待やときめきではなく、体調を気遣う思いだった。


「無理はしないでください…本当に、大丈夫ですか?」


自分でも驚くほどの真剣な声音に、結衣は小さく目を見張り、やわらかく微笑んだ。

その表情には、普段の鋭さや厳しさはなく、ふと弱さを覗かせる人間らしさがあった。


俊太郎は息を呑む。

心を掴まれると同時に、守らなければという思いが胸を満たす。


ドアの向こうに立つ結衣の姿を前に、理性を働かせながらも心臓は早鐘を打ち、何度も深呼吸を試みる。

緊張と戸惑い、そして純粋な心配。


静かな室内に漂う空気は、昼間の仕事の緊張とは全く違う。

親密さと心配が入り混じり、二人の間に不思議な間合いを生んでいた。


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