l∞p
井田いづ
∞
「やりなおしの魔法は簡単さ」
魔女の笑い声は自転車のブレーキ音に通ずるものがある――五月晴れの空に宙ぶらりんのまま、私はひどく他人事のようにそんなことを思った。私の少し下にはボロボロの自転車が浮いている。くたびれた地方の繁華街にほど近い、『チカミチ』と呼ばれる急な坂道をノンストップで滑り降り、その終点に潜む段差に躓いた弾みに私は派手に宙に放り投げられたのである。
あわや頭から地面に叩きつけられる――その刹那に時間は、なんの前触れもなく、突然に止まった。
歩き出した人は踏み出した足をわずかに持ち上げたまま、ある人はこちらを見て口を開けたまま、私は宙に浮いた形のまま。その中で悠々と動く人物が一人だけいた。
時間を止めたのは自分だと、「魔女」を名乗った人物は偉そうに言う。彼女が――その声と、魔女を自称するところからそう仮定するが――いくら荒唐無稽なことを話したとしても、嘘をついているとは言い難い。
なにせ、私は時間が止まっているこの瞬間を見ている。
彼女が「待て!」と叫んだ声を聞き、その瞬間に時間が止まったことを体感している。
そして何より、私がこの身一つで宙に逆さ吊りのまま重力に逆らい続けていることこそ、非科学的な力の証明になるだろう。
魔女はちょうど私の真下に入っているものだから、影に真黒く塗りつぶされて、顔はおろかその服装すらよく判別できない。それなのに、手の甲に墨か何かで描かれた円環だけはくっきりと私の目に飛び込んできた。
「や、やり、やり直せる魔法は、いらない」
魔女が提案したのは、やりなおしの魔法だった。魔女は長いこと声を発していなかったのか。厭に粘ついた、しわがれた声を出す。
「まき、巻き戻したい時間をな、こう、手に書いてさ、たた叩くんだよ。それだけでやりなおせるの。ふふ、分換算だからね、そ、そこは気を付けな」
訝しむ私に向けて、「こ、このままじゃあ、君、頭ン中身、ぶ、ぶぶちまけることに、なる、なるから」と意地悪く迫ってくる。
例え頭を守れても、この身を地面に強く打ち付けることになる未来は避けられようもない。そもそもこんな事態に陥る前に戻れれば――それこそ、時間を巻き戻す魔法さえ使えれば、話は変わってくる。しかし、騙されやすいと近所で評判の私でも、これが美味しいだけの話じゃないことは言われずともわかった。
「と、当然リスクは、ある、よ。あああ、当たり前だろ。ま、魔法を使うたびに、ゲージが溜まるんだよ。あの、あれだ、ゲームとかの進行度表示、みたいな、わかる? それが満タンになったら、お終い、君は、無限に――ひひ、わかる? 無限さ、出口のない迷路の中に、落ちていく。無限の時間の繰り返し、変えられない時間の袋小路に、だ。回避する方法は、ひとつ」
魔女はくるりと指先を回して私に突き付けた。
「人に、魔法を渡してしまえばいい。そうすりゃ、魔法を失う代わりにゲージも消える。き、気をつけなよ、無限の中に一度落ちたら、最後、地獄だよ。な、なにせ、他の誰も、過去に起きたことは何も、何ひとつ変わらない、変えられない。すり減って消えてくだけ、ね。だから、ゲージが溜まりきる前に早いこと、誰かに渡すことをお勧めするよ……ひひ、おた、お互い悪い話じゃ、ないだろ。君は、やりなおしが出来なきゃ困る、私も、無限は嫌だからね、り、利害の一致だよ」
魔女は強引に言い切った。実に怪しいのだが、そうは言っても選ぶ余裕がないこともまた事実だった。一体いつ時間が動き出すかもわからない。この力が欲しいか――そんな声に、私は何度も頷くほかなかった。魔女は満足そうに笑い声をあげた。実に耳障りな音であった。
「じ、条件が三つ揃えばいい。一に魔法を手放す、意思があること、二に魔法のことをデメリットを、伝えること、三に相手が、魔法を欲していること。な、簡単」
なるほど、確かに簡単だろう。現に私はその「無限に落ちる可能性がある」デメリットを聞いた状態でなお魔法が欲しいと思っているのだから。要は使いすぎなければいいのだ。やりなおせる機会など、いくらあっても欲しいに決まっている!
魔女は私の答えを聞くと、飛びつくようにして私の手を握りしめた。カッと熱を帯びて、ちくりと刺すような痛みがある。
瞬きの後に、私の手の甲にほくろにも見える黒点がぽつんと現れていた。
「やった! やった! うつせた! 出られるんだ! ああ君も精々、限りある人生を過ごせばいいさ!」
今にも踊りだしそうに魔女はくるくると私から離れていく。
やはりその顔は見えないままだったが、ぎらぎらとした双眸の輝きだけを残像のように残して、次第に薄れて、やがて、風に吹かれるようにして跡形もなく消えていた。
はたしてあれは白昼夢だったか――そうだとすれば、私はまだ夢の中にいることになる。
ぐらりと身体に重みが蘇る瞬間に、手のひらに指で「5」を描いて叩くと、景色がぐるりと回ったのだ。
ハッと我に返れば、怒号。急ブレーキ。景色は例のチカミチの手前にあった交差点に切り替わっていた。そろりと首を動かせば、こちらに曲がってくる車がある。私は自転車にまたがったまま往来のど真ん中で立ち尽くしている。
記憶を辿るまでもなく、確かに五分ほど前に通った道だ。信号機は点滅ののちに赤に切り替わる。家を出たところから大いに慌てていたから、信号もギリギリのところを猛スピードで飛ばしてきたんだっけ、とそこまで考えたところで、衆目がこちらに向いていることに気がついた。クラクションと人の怒鳴り声が鼓膜を揺らす。急に恥ずかしくなって、私は手に乱暴に「1」と書いて、再び打ち付けていた。
ぐるん――また世界が回る。
瞬きのうちにまた景色が切り替わっていた。見慣れたパン屋、バス停、小さな公園――先ほどの交差点の手前で確かに通り過ぎた場所だった。先ほどと違って安全で、衆目もない。
つい口元が緩む。
時計を見ても時間が巻き戻ったことは明らかだった。ついさっき、不注意の事故で大変な目に遭いかけていた自分が、まったくの無傷でここにいる。高揚感が全身をびりびりと痺らせる。
これは、ものすごい力を手に入れたのかもしれない。
∞∞∞
手の甲に現れた黒点こそが、あの魔女の言っていたゲージ、要するに魔法の使用量を示すバロメータらしい。
数分巻き戻す程度ではほとんど動きを見せなかったが、巻き戻しの時間が増えて重なるごとにじわりじわりと動き出すことが、数回の試行のうちにわかったことだ。じわじわと円を描いているようだ、とさらに数回の試行を重ねて理解する。これが閉じきるまでに、この便利すぎる力を人に押し付ければいい。この魔法を欲しくない人なんているはずがないのだから、なんとも簡単な話だ。
使ってみれば、やりなおしの魔法はひどく便利なものだった。
だってそうだろう、「こうしておけばよかった」をまるきりなくせるのだから。大体のやりなおしは一分二分で事足りたし、三度四度のやりなおしではゲージは大きく動かない。一度見て、結果を確認して、やり方を決めれば、結果的に私は判断を間違えない。
私は途端に気の利く優秀な人間になったのだ。失敗知らずでいつだって先回り。すると人からの評判も鰻登り、貯金額も右肩上がり、恋人までできて、欲しいものも手に入る。
ああ、なんて素晴らしい人生!
ただ一つ、不満があるとすれば例の時を止める魔法が使えないことだ。私にも使えると思ったのに、使い方がわからない。あの魔女ときたら、あれ以来一切姿を見せないのだから問い詰めようにもできない。まあ、時間をわざわざ止めずとも、巻き戻せばいいだけの話だ。
初めこそ恐る恐る使っていた魔法も、慣れるにつれ些細な事にも使うようになっていた。ゲージのたまりが遅いとわかるや否や、私は魔法がある前提で動くように変わった。
失言をした。巻き戻す。
忘れ物をした。巻き戻す。
選択を間違えた。巻き戻す。
ぐるりぐるんと世界が回る。
そうこうするうちに、手の甲には閉じかけた円環が刻まれていた。乱視で視るランドルト環のような、薄っすらと隙間があるかないかの形を描いている。
しまった――こうなると流石の私も慌てた。最近はゲージの確認も疎かになっていて、ついつい確認を忘れていたことを今更に思い出す。溜まる速度もゆっくりで、変化に乏しいそれを視界の隅から追いやっていた。
急いで魔法を誰かに渡さなくてはならない。
しかし、現実問題、どうやって? 魔法があることなんて、実際に目撃してもらわなくては信じてもらえないだろう。時間を巻き戻してしまえば、それを認識できるのは私一人だし、それこそ、あの日のように時間を止めて見せられれば手っ取り早いのだが、やり方がわからないときた。
魔法を封じられた私の評判は、急勾配で上がったのと同じようにガックリと落ち込んだ。運気も下がったような気がする。先への不安で体調も崩し始めた。仕方がない、だって私はすべてをやりなおす前提で生きてきたのだから……
しとしとと、朝から雨が降り止まないある日。
寝不足からか、私は駅の長い階段を踏み外していた。いつかのように身体が宙に投げ出される。響く悲鳴に、私はほとんど無意識で手のひらに指を走らせると、乱暴に叩いていた。
ぐるりと世界が反転する。
しかし時間だけはいつまでたっても巻き戻らずに、世界だけが目まぐるしく回転を始めた。手の甲に刻まれた黒線がじわりと伸びて円となる。
ア、と気がつけば、無限の落とし穴が口を開けていた。抗いようもなく、私はそこへ真っ逆さまに落ちていく。
∞∞∞
無限の中は、想像していたものとは少し違った。
魔法を初めて使った時を起点にして、階段から落ちたあの日までの日々をフィルムにして、闇雲に鋏で切り分けて、適当に繋げたような支離滅裂な空間だった。
物事の終わりまで見られたならばまだいいものを、この空間ではめちゃくちゃに物事が繋がって、どこに続いているかもわからない。不意に踏み出した足元に奈落が広がって、また新たな繰り返しに投げ出される。終わりはなく、延々と過去の記憶を繰り返す。
過去はどうあっても変えられなかった。
「テレビの中」と「その視聴者」のように、「私」と「過去の人物」は誰であっても会話が成立しない。たとえ私が暴れようが、喚こうが、人も物も決められた通りに動くだけ。たとえ私が泣こうが怒ろうが、彼らはころころと笑って喜んで、記憶の通りに動くだけ。薄気味悪い人形劇の中にいるようだった。
暴れて物を壊しても、瞬きのうちに元通り。
叫んだ言葉を無視して会話は進む。
ある時、思い切ってその場を離れてみても何も変わらなかった。しばらく走った後に元の場所に戻っていて、しかも私の形をした影法師が嘲笑うかのようにゆらりゆらりと揺れていた――
ああ、チクショウ、騙された。
途中から、私は泣いていた。
泣くのも飽きると今度は怒った。
それも飽きると、私は虚空を眺めるばかりになった。
あの魔女に文句を言おうにも、あの日には一向に戻らなかった。戻れたとて、声が届く保証もない。誰にも届かないのに、どうしてあの魔女にだけ届くものか。
ぐるんぐるん、世界が回る。
幾度も同じ時が刻まれる。
私だけが取り残される。
気の遠くなる時間を繰り返して、私は安物の靴底のように擦り減っていた。誰も私に気がつかない。最後に人と言葉を交わしたのはいつのことだろう。正しい時間の流れがないから、私は歳をとらなかった。眠ることもなかった。
遠くで得意げになっている自分の影法師を見る。あの時に誰かに魔法を譲っていればよかった。あの時は魔法を使うまでもなかった。
誰でもよかったはずなのに、今となっては誰もいない。思考は泥のようにぬかるんで、とろけて、鈍くなる。ああ、ここから抜け出したい……
どれだけの時間が経ったかも忘れた頃に、変化は突然訪れた。
何の前触れもなく、見慣れない景色が目の前に現れたのである。
私はそろりと視線を動かした。これまで幾千幾万と見てきた景色とは違う景色だった。役割放棄したら必ず生えてきていた、あのうざったくて気味の悪い影法師も、視界のどこにもいやしない。
まさか、抜け出せた?
心臓が早鐘を打つ。この際、夢でも幻覚でも構わなかった。ああ、いつもと違うことが、こんなにも嬉しいとは! さりげない風景のひとつひとつが、こうも美しいとは!
心が震えて、掠れた吐息が零れる。やっと見えた希望に、私は晴れやかな気持ちで歩き出した。
そんな私の真横を、ものすごい勢いで自転車が通り抜けた。
吹き抜けた風が私を翻弄する。擦り減った身体では容易に目を回す。いくら急いでいるにせよ、なんて危険な運転だ。久しぶりの怒りが湧く。しかしながら、坂道をそう急いでは危ないではないか。久しぶりの焦りが募る。
その先の光景を見た瞬間、ハッとして、私は声を上げていた。
「と、止ま、待て!」
刹那に時間が止まる。
人は歩きだした形のまま、叫んだ形のまま、自転車の持ち主は宙に放り投げられた形のまま。
なんだ、チクショウ、こんなにも簡単な魔法だったのかよ、と内心毒づいた。目の前で大事故を起こされるよりはマシだが、今更時を止める魔法なんて何の役に立つってんだ――
「な、え、ちょっと、だれか! 助けて!」
自転車の主がぎゃんぎゃん喚き出して、私は驚いた。
逆光で顔はよく見えないが、声やシルエットから年若い女性だと言うことは分かった。彼女の方も私を見つけたらしい。「あの、誰でもいいんで、手を貸してください!」と叫んでいた。止まった時間の中で、私たちだけが動いている。
この少女は私を認識している――笑みがじわりと広がった。ゆっくりと歩み寄って、彼女の影の中に立つと、偉大な魔法使いに見えるように、尊大に「た、助けて、あげようか」と聞けば、もちろん答えはイエス。これならば、いけそうだとほくそ笑む。
「わ、私が時間をとめ、止めたんだ。き君を助けるためにね、ま、魔女、だからさ」
チクショウ、声を出すこと自体が久しぶりすぎて上手く話せない。しかしこの方がうんと魔女らしいかもと考えて、胸を張った。ねっとりと話した方が、ミステリアスだ。
どうやって、と頭上から困惑したような声が降ってくる。しかし止まった周囲の時間に、宙吊りの己の身体、流石に魔法と聞いて一笑に付すことはしない。
「巻き戻して、なかったことにすればいい」
私は囁いた。彼女なら、きっとこの魔法を欲しがってくれる。事実、彼女はごくりと唾を飲み込んだ。
魔女はニヤリと笑んだ。
「やりなおしの魔法は簡単さ」
l∞p 井田いづ @Idacksoy
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます