第2話 二重の署名
――2025年8月16日・副市長日誌――
午前八時三十分、市長室のドアを開けると、冷房が効りすぎていて吐息が白かった。
「石黒、今朝の報告は?」
山城市長は窓際に立ち、ネクタイを締め直しながら振り返る。六十二歳とは思えない鋭い視線だ。
私は高梨課長が昨夜メールした「システム遅延報告書」を差し出した。
「隣接部局の試算です。クラウド基盤の改修にあと一週間。八月二十日の条例施行は、ぎりぎりになります。」
市長は黙って書類に走査線を引いた。
「二十年前、手書き条例が泥に飲まれた夜を忘れたか?」
「忘れておりません。」
「今度こそ、同じ轍は踏まない。二十日までに必ず稼働させろ。」
私は頷いたが、シャツの裾が背中に張り付くのを感じた。猛暑だ。エアコンが古すぎて、風が均一に行き渡らない。市長の背後にある「水戸黄門祭り」のポスターが、空調の風にはためき、祭囃子が聞こえるような幻聴を誘う。
トイレで一度顔を洗う。鏡に映る五十八歳の男は、汗で前髪がへばりつき、官僚的な笑みを欠いていた。
「本当にこれで市民を守れるのか」
声は風呂場に反響し、すぐに排水口に吸い込まれた。
午後一時、情報システム課。村井係長がサーバーラックの前で腕組みしている。
「副市長、クラウドの脆弱性は指摘した通りです。ベンダーのパッチが遅れてる間にサイバー攻撃でも受けたら、紙のバックアップなしじゃ条例が公布できません。」
「君はまだ『紙があれば電子署名など不要』と言いたいのか。」
「そうです。紙の原本を残しておけば、災害直後にデジタル化すれば済む。村井案は、市長も了解しています。」
私は頭痛を覚えた。官僚の論理と現場の感覚の溝が、背骨にぴくぴくと電流を走らせる。
「予算は1・2億円だ。使わずに片づけろと言うのか。」
「予算より市民の安心です。高齢者にスマホは通じません。」
窓の外、蝉がしゃくりあげるように鳴いた。エレベーターホールから流れる「水戶黄門節」が、機械室の冷却ファンと不協和音を奏でる。
午後二時三十分、会議室で高梨課長と対峙。
「総務省の信頼を失います。遅延の責任はベンダーに求償できますが、契約違反で執行猶予は八月二十日きりです。」
高梨はネクタイを緩め、パウンドケーキの入ったお盆を差し出した。
「副市長、こちら、妻が焼いたものです。甘いものは頭を冷ます。」
私は一口齧ったが、喉を通る寸前で鉄錆の味がした。
「君はセキュリティリスクを主張する。だが、システムが止まれば行政が止まる。」
「市民の不安も現実です。QRコード一つで署名完了、なんて聞いたら、年寄りは目を回します。」
「QRコードではない、電子証明──」
言いかけて私は噤んだ。昼の住民説明会で、私は間違えて「QRコードで署名」と発言していた。誰かがスマホで撮影し、もう市場に拡散しているかもしれない。
夕方六時、公民館。扇風機三台が回るだけの説明会場に、七十人が詰めかけた。
本田自治会長が手を上げた。
「副市長、スマホの充電が切れたら、条例は止まるんですか?」
会場が笑いに包まれる。私はマイクを握りしめた。
「止まりません。紙のバックアップを用意──」
「紙があれば、最初から電子なんか要らんでしょうが!」
どっと沸く。私は視線を落とした。首に巻いたネクタイが、蒸し暑さでヌメリ、結び目が喉を圧迫する。
「おっしゃるとおりです。両方用意します。柔軟に使い分けます。」
言葉が出た後、自分でも驚いた。官僚的な正論ではなく、現場の声を受け入れた。本田さんがにっこりと頷いた。
夜九時、自宅リビング。台風情報がスマホに届く。
第10号、本州南岸をゆっくり北進。二十日の最接近が濃厚だ。
私は二十年前のアルバムを開いた。スキャンした写真。泥にまみれた私──当時は課長補佐──が、手書きの条例書をかき集めている。判こ印が欠け、文字が溶け、私の顔は泣き笑いだ。
スマホの画面に、電子署名アプリを重ねる。
泥まみれの紙と、無機質なアイコン。
突然、画面が反射し、私の顔が二重に映った。
幻覚か、二重の署名が浮かぶ。紙も電子も、結局は“誰を守るか”の想像力。
私は呟いた。
「行政の継続性は、システムでも慣習でもない。現場と市民をつなぐ、柔軟な想像力だ」
外で初雷が轟き、雨が窓を叩き始めた。台風の先駆けだ。
私はスマホを閉じ、もう一度だけ画面を見た。
そこには、泥だらけの過去と、電子インクの未来が、重なり合っていた。
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