デジタル自治録
共創民主の会
第1話 電子インクの重み
――2025年8月15日・市長日誌――
記者会見で「災害時の行政継続性」と口にした瞬間、喉の奥に二十年前の泥の味が蘇った。
市長室のエアコンは古すぎて、冷えた空気より先に自分の吐息が白く淀む。カメラのフラッシュが絨毯のグレーを灼き、私は議会承認のマイク越しに、ようやく声を絞った。
「──本市は、来月施行の『災害時電子署名条例』により、紙と判こに頼らない行政運営を実現します。台風、地震、浸水。いかなる被災時でも、市長職は途絶えません。」
最前列で地元紙の編集長・川村が腕組みした。記者記者会見の度に交わす我慢比べだ。彼の口が動いた。
「山城さん、『電子』が通じない被災者もいる。手書きの温もりを否定するのは、行政の傲慢じゃないですか。」
私は答えを用意していた。いや、二十年前の夜にすでに練り上げていた。
「川村さん、温もりも大切です。だが──」
私はスクリーンに写真を映した。茶色に染まった紙束。判こ印が滲んで、文字が溶けている。
「平成の台風第18号。市役所が浸水し、手書きの避難指示書は泥に飲まれました。あの夜、署名が読めなくなったために避難勧告が半日遅れた。温もりより、ライフラインが先です。」
カメラの連写音が雷のように響く。私は微笑み、心の奥で自分を殴った。
──嘘だ。遅れたのは署名じゃない、私の躊躇だった。
トイレに駆け込み、鏡に映る自分を見た。六十二歳の額に汗が伝い、視線が泳ぐ。あの夜、泥水をかぶって這いずった青年と重なる。
私は水道の水をすすぎ、鏡に向かって呟いた。
「公人は、個人を殺す仕事だ」
午後の打ち合わせ室は、防災訓練の備蓄品で溢れていた。副市長・石黒がタブレットを置いた。
「高梨課長から連絡。クラウドシステムの改修が一週間遅れるそうです。予算1・2億円のうち、三割が追加で必要です。」
私は舌打ちを飲み込んだ。
「台風シーズンまで後一か月だ。遅れを取り戻せるか。」
「ベンダーは『署名代用措置』の省令解釈が変わったと。総務省の通達が昨夜出たそうです。」
私は書類をめくる。地方自治法第十六条の四。災害時、市長が物理的に署名できなければ、電子署名と同等の効力を持つ──。だが「同等」の線引きが、まだ紙に依存している。
その時、封筒が届いた。島田元自治会長からだ。
開封すると、便箋一枚。達筆の縦書きだった。
『市長さん、スマホの電池より、隣の声が頼りです。災害時は縁側で一杯のお茶をすすりながら、「大丈夫か」と肩を叩くことから始まります。機械に頼る前に、人の目を見てください。』
私は便箋を胸ポケットにしまった。石黒が小さく咳払いした。
「島田さんは、先月の防災協議会で『IT よりも井戸端会議』と発言していました。ご高齢の方ほど、デジタルが通じにくい。」
私は窓の外を見る。蝉がしゃくり上げるように鳴き、遠くで水戸黄門祭りの囃子が風に乗る。祭りは明日開催だが、台風第7号が蛇行しながら接近していた。
「石黒、紙の備えはあるか。」
「避難所ごとに耐水バッグを二百枚。だが、条例の原本を紙で残すと、電子署名の意味が……」
私は手を上げて制した。
「意味は後で考える。人命が先だ。」
夕方の防災訓練は、市役所の地下倉庫で行われた。サーバーラックの前に、私と職員十名。村井係長が白い手袋をはめて説明する。
「クラウドが使えない場合、こちらの『オフライン署名器』に市長の電子証明書を挿します。これだけで条例公布が完了します。」
私は首を振った。
「回線が死んでいるのに、クラウドが使えるわけがない。」
「その際は──」村井は段ボールを開けた。防水の A4 ケース。中には紙のテンプレートと、油性ペンが十本。
「署名欄を空白にして印刷し、市長が直接署名。泥水に浸っても判読できるインクです。署名が済めば、災害直後にデータ化して電子署名を付与。紙と電子、両方の『時系列』を残せば、法律上の瑕疵はありません。」
私はふと、二十年前の自分を思い出した。あの夜、私は課長補佐で、手書きの避難指示書に判こを押した。泥に飲まれ、誰も動けなかった。
村井の案なら、紙が無力でも、データが残る。
私は初めて頷いた。
「両方用意せよ。紙も電子も、市民を守れる方を選ぶ。」
訓練は夜七時に終わった。自宅マンションのベランダに出ると、潮風が顔を打つ。スマホを開き、電子署名アプリを立ち上げる。画面に映る自分の顔が、蛍光灯のせいで青白く歪む。
二十年前、泥だらけの条例書を抱えて立ち上がった時、周囲は真っ暗だった。懐中電灯の輪の中、私は「誰を守るのか」と自問した。答えは出なかった。ただ、泥水を滴らせながら、避難所へと走った。
ベランダの手すりに凭れ、私は呟いた。
「この条例が、本当に誰かの命を守るのか」
風が答えない。スマホの画面が自動消灯し、闇に呑まれる。
その闇の奥で、泥だらけの紙と、今の自分の顔が重なった。
幻覚だった。だが、確かに感じた。紙も電子も、結局は“誰を守るか”の覚悟だ。
私は息を吸い、スマホを再び点灯させた。
電子インクの冷たさが、掌に重く沈んだ。
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