画竜点睛

相良平一

画竜点睛

 空は、見事な夕焼けと見紛う程の朱だった。焼けているのが、真に空であったなら、きっと心を奪われて立ち尽くしていただろう、と鵜戸幸房うどゆきふさは心の中で一人ごちた。

 だが、焼けているのは神々の在わす天上ではなく、目の前に広がる森である。無駄な想像をして集中を切らしてしまっては、自分が空の住人になりかねない、と気を引き締めた。

 現場はひどく奥まった場所にあった。一番近い集落からでさえ、行こうとすれば悪路を三十分ドライブする必要があった。お陰で、鵜戸は山道を五十分も消防車で揺られる羽目にあった。どれ程延焼しているかは未知数である。早く到着しなければという気持ちに精神が耐え難くなっていた頃だった。

 到着すると、山は炎と黒煙を噴きだしていた。そうでもなければ、唯のどこにでもある小山だろう。それほどに特徴の無い、それは山であった。

 消火栓が無いことは分かりきっていたが、近くに川があるので問題は無い、というのが上の見解であった。だから車を降りた鵜戸が最初にやる仕事は、ホースを持って川まで走る事だった。既に火は山の中腹まで広がっている。唯の人間である自分に出来る事は、精々が速く走る事ぐらいだ、と鵜戸は心得ていた。後ろを走る同僚も、きっと同じ顔をしているだろうと、振り返る事はしなかったが彼は信じていた。

 しかし、河原に着いた途端に、屈強な消防士である彼等は、一様に唯の木偶の棒と化してしまった。

 人が倒れていた。浅い川の中から、背中のみを見せて、右手は何か四角いものを掴んでいた。

 彼が死んでいる事は、赤く染まってピクリとも動かない頭が雄弁に語っていた。


 鮮やかな朱色の車輌群が去り、代わりに白と黒の車輌が列を成して隘路をやってきた。

 鈴木と、ついでに私を乗せたパトカーもそのうちの一つだった。

「驚いたなぁ、真逆こんな所に家を構えている御仁がいるとは。」

 車窓から建物が見えなくなってから十五分程、沈黙に耐えかねたのか、後部座席の隣に座っていた鈴木が大きめな声を上げた。

「家ではなく、別荘です。」

 運転席で慎重にハンドルを切りながら、すっかり顔見知りになった目黒警部補が律儀に訂正した。精悍な顔つきで、あまり似合っていない紺色のスーツに身を包んでいる。

 向かう先は殺人現場である。というのも、私の隣にいる鈴木遼すずきりょうという男、犯人を見つけるという、刑事か推理作家以外にはまず必要ない奇妙な才能を持っているのだ。そしてそのどちらでも無い彼は、同じく一般人の私、香取祐一かとりゆういちを連れ回し、その才能で得た伝手で事件を嗅ぎつけては、解決するのが生き甲斐らしい。

「別荘でも変わらない。えらく辺鄙な上に周りに何も無い、こんな所に屋敷を建てますかねぇ、普通。」

 全くもって普通では無い友人は、自分の事を棚に上げて不平を漏らした。

「すいませんね、でもその別荘を建てた人、羽屋大志はねやたいしって言う実業家らしいのですが、釣りが趣味らしくてですね。この近くには川や池が沢山あって、彼のお気に入りの釣り場らしいんですね。それがここに別荘がある理由らしいです。」

「詳しいですね。」

 口にしてしまった後で私は僅かに後悔した。茶々を入れる形になってしまったからだ。捜査をおいてまで、我々を迎えに来てくれたのに。

「ええ、その羽屋大志が被害者なので、ここに来る前に調べたんですよ。」

事件の話は、それと前後して発生した山火事と一緒に報道されていたが、被害者の名前は初耳だった。

「どういう字です?」

「羽田空港の羽に屋上の屋、少年よ大志を抱けの大志です。」

 クラーク博士の銅像が脳裏に浮かんだ。


 車窓を飛び去っていく木々をぼんやりと眺めていると、突然車が停まった。驚いて辺りを見回す。

 通れるならよし、という意思を感じる様な、一応コンクリート製の橋の上だった。車の転落防止が何も為されていないので、夜道に通るには危ない。下を小川が流れている。無骨な捜査員達がいなければ、心を洗われる様な静謐な空間だっただろう。もう一度橋の下を、今度は下流側を覗く。川の中で何やら作業をする、鑑識の姿が見えた。

「ここが現場です。」

 後手に運転席のドアを閉めながら目黒が言った。

 その時、紺色の人垣が割れ、その間からちらりと影が見えた。

 小さい橋の端、寝相が悪ければ真っ逆さまに落ちそうな場所で、趣味の悪い近代アートか何かの様に、女性が倒れていた。ひとりでに落下する恐れが無いのは明確だ。既に小皺が見え始めている顔を苦悶の表情で固めて、彫像と化している。

 その凄絶な光景から、出来るだけ眼を逸らさない様努力しながら、私は吐気を催さないよう、何故彼女の名が大志なのか考える事に努めた。

「こちらは、羽屋大志の妻の由(ゆ)美恵(みえ)、四十九歳。死因は後頭部打撲、ほぼ即死です。凶器は、傷口から太い棒状の物体と推測されます。死亡推定時刻は昨夜の十八時から二十二時の間。死体に死後手を加えられた痕跡はありませんが、死後少しの距離を移動させられた形跡があります。恐らく橋の中央から、あそこに移された物と思われます。」

 そう言って、目黒は死体を指し示した。私の疑問はあえなく氷解した。被害者は二人いたのだ。

 鈴木は、その話を聞いているのかいないのか、死体の周りをうろうろとしている。私は、取り敢えず見ないふりをする事にした。

「犯行現場は、本当にここであっているのですか?」

「そうですね、橋の大体中央部に、見えづらいですが血痕が付着していました。飛び散り方から、殺された時の物と見て間違いないと。」

「すみません」

 後ろからの声に、目黒は言葉を切って振り返った。帽子とマスクで顔を隠した鑑識が、透明な袋の中に木製バットを持っていた。

 彼は顔を寄せて、目黒に何事かを報告している様だったが、数十秒もすると手の中の物を目黒に渡して、素早く去っていった。

「凶器が発見された様です。」

 目黒は、律儀にもまた振り返った。見れば分かる、とは言わないでおいた。

「これで頭を一撃した様ですね。ここから二十メートル程上流で、岩に引っかかっていたそうです。」

 確かに、それは正しく目黒が言った凶器の形状だった。

「凶器、見つかったんですか?」

 鈴木が顔色を変えて迫ってきた。

「あ、ああ。そうだよ。」

 咄嗟に答えるが、目黒が口を開くのに被せる形となってしまった。

「そうかそうか、で、何処にあったって?」

 目黒は同じ説明を二度繰り返す羽目にあった。

 話を聞き終わると、鈴木はしたり顔で頷いた。

「凶器が出たのは大きな前進ですね。」

「そうですね、そう思います。」

「所持品は?」

 目黒は、忘れていたのか大袈裟に手を叩いた。

「側に鞄が転がっていました。釣竿や餌入りの箱、替えの糸が二束、リールと錘、懐中電灯一つ、それと財布だけですね。金目の物は持ち去られていませんでした。」

「結婚指輪は?」

 間髪を入れずに鈴木が訊いた。

「ありません。」

 目黒は左の顳顬を掻いた。

「そうですか。では切り上げて、次に行きましょう。」

 そう言って、鈴木は私達を振り返ることもなくさっさと歩いて行ってしまった。


 積もった灰の上を踏み締め、橋の脇の斜面を降りると小さな河原に出た。私は、足を何度も滑らせそうになり、その度に肝を冷やしたので、安定した地面に辿り着いた事を、胸の内で神に感謝した。

 橋の上よりも、岸が洗われる音が大きく感じられた。車を降りた時から付き纏う炭の匂いも、川に出た事で弱くなった様な気がする。山火事の後に来なければ、これまた素晴らしい体験が出来ただろうと思うと、残念な気がした。

 死体は、直ぐにそれと分かった。見たところ、初老の男性らしい。防水着の背中を、甲羅干しする亀の様に水から出していた。微かに水面から覗く頭髪に、白いものが混じっている。

 死体が担ぎ上げられ、運ばれるのを横目に、目黒は話し始めた。

「先程話に出ましたが、彼は羽屋大志さん五十三歳。死因は前頭部打撲です。凶器は、由美恵さんに使われたものと同一ですね。橋の上に彼の指紋がついた懐中電灯があった事、両腕に防御創がある事などから、恐らく橋の上で犯人に襲われ、転落した物と思われます。ただ、傷の深さから、即死では無かったという検視結果が出ています。両肘と膝に擦過傷がありました。転落地点から、あそこまで這って行った様です。」

 目黒が指差した方を見ると、ズボンを膝下まで捲り上げて川に入っていく鈴木の姿が見えた。周囲の眼が痛い。私は、また見なかった事にした。

「死亡推定時刻は由美恵さんと同じです。しかし死体発見時刻が十九時五十分なので、正確には、十八時から十九時五十分ですね。死後、損壊が与えられた痕跡が無いのも同様です。」

 目黒は何も言わず、ただ鈴木に聞こえる様に少し声を張り上げた。

「これだけの事件であれば、恐らく鈴木さんに声を掛ける事は無かったと思います。問題は彼が持っていた物です。ちょっと、持ってきて下さい。」

 目黒よりも、よっぽどスーツの似合う男が、証拠品の袋を持ってきた。

「これを見て下さい。」

 渡された物は、一枚の白い紙だった。一点、注意しないと見逃す位の大きさだが、ほぼ真円のインクの染みがある。その他に、言うべき事は何もなかった。

「ただの紙に見えますね。インクの染みがあるだけです。」

 後ろから声が聞こえた。驚いて後ろを見ると、鈴木が覗き込んでいた。全く気づかなかった。心臓に悪い。

「その通りです。何も書いていない、唯の白い紙。しかし、羽屋大志はこの紙を持って亡くなりました。意識が朦朧とする中、最後の力を振り絞って、彼はこの白紙を掴んで力尽きたのです。」

 何を言わんとしているのか、何となく分かった。

「つまり、この紙には何か、含まれた意図がある筈です。しかし、我々にはそれが何か分からない。何故、羽屋大志はこんな物を持って死んだのか、それを詳らかにして欲しいというのが、今回の依頼です。」


 一瞬の後、目黒が鈴木を見ると、彼は興味なさそうに上流の方を見ていた。

「鈴木さん?」

 目黒が声を掛けるが、鈴木は振り向かない。

「死体が発見された時の、持ち物の状態が知りたいのですがね。」

鈴木が声を発したのは、それから大体十秒程後の事だった。

「はあ。ちょっと待って下さい。」

 私達に断りを入れて、目黒は、通りがかった同業者と思しき人を呼び止めた。この物腰の低さは、鈴木にも見習って欲しい所ではある。

 少し待っていると、目黒が何か持って戻って来た。

「ああ、お待たせしました。」

 何故この人は、こんなにも丁寧な応対をしてくれるのだろう。こちらが申し訳なくなる。

「それは?」

 鈴木はそんな事を思う人間ではなかった。

「捜査が始まった時、ドローンで撮影された現場の映像があるんです。取り敢えず、見て貰います。」

 そう言って目黒はそれを差し出した。

 川の真ん中に死体が伏せっている。その上流側、橋のすぐ下に、鞄とクーラーボックスが転がっている。鞄はしっかりとした作りで、普段持ち歩く様なショルダーバッグとは、比べ物にならない程大きい。沢山あるポケットの内、一番大きく開いたファスナーから、白い紙が覗いている。数枚は溢れ出て、岩に引っかかっていたりする。よく見ると、何かが書いてある物もある気がする。傍らには釣竿。かなりしっかりとした作りだ。

「鞄に入っていたのは、魚拓が四枚。これがどれぐらいの釣果なのか、私には分かりませんが、取り敢えずそれだけです。あと、まだインクの付いていない紙も数枚ありました。此処には写っていませんが、彼の鞄の中には、インクと刷毛とインク皿、替えの糸とルアー、スナップが入っていました。クーラーボックスの方には、魚が五匹……どうかしました?」

 目黒が尋ねると、鈴木は深刻そうな顔で、首を横に振った。

「そうですか。ああ、それでは、被害者宅に案内します。」

 目黒はそういうと、有無を言わさぬ勢いでさっき来た道を戻り始めた。

 鈴木が見上げるのにつられて、上を向く。橋の上は、気味が悪い位の晴天だった。


 羽屋大志の別荘は、現場から更に、曲がりくねった山道を車で十五分進んだ、山の頂上にあった。目黒の言うには、千葉県最高峰の約二倍程の標高らしい。そう言われると高そうに聞こえるが、愛宕山の標高は、確か四百メートル程だったと思う。それでも、その山の麓にある現場に比べて、少し涼しくなっている様な気がした。

 因みにこの裏は、川の水源の向こうまで行くと急斜面になっているという。事件当時、此処は外部の人間が出入り出来ない環境だったそうだ。

 若くして大成した実業家の別荘、という紹介だったので、私はもっと豪勢な建物を想像していた。いや、これも個人の邸宅としては破格なのだろう。少なくとも、私の住んでいる部屋の、優に十倍以上の大きさである事は見て取れた。

 しかし、私は、どうしても古ぼけたペンションの様な印象を抱いてしまう。

「事件当時、ここには、被害者夫婦を除いて五人が泊まっていました。如何やら、釣り仲間を招待して、わいわいやっていた様ですね。まあ、その内容は兎も角、彼らには応接室で待っていて貰っています。彼らは容疑者なので、本当なら、事件が解決するまでここに留めておきたいのですが、流石に、明日は月曜日なので、そろそろ帰宅を許可せざるを得ないでしょう。それまでに事件が解決するといいのですが……」

 経緯を説明しながら、目黒は、何処からともなく出したスリッパで、板張りの床をスタスタと進んでいく。速い。鈴木も後を追う。凄く速い。元競歩選手だろうか。

 みるみる小さくなっていく二人の背中に、私は呆れて声も出なかった。


 長い廊下を抜けるとそこは応接室であった。置いて行かれたおかげで迷いかけたが、何とか到着した。どうやら、この屋敷は側から見るよりも大きいらしい。ご丁寧にも、扉の上に『応接室』と書いてある。

 重厚感のある、そして物理的にも重い扉を引くと、十四の瞳がこちらに向けられた。当然ながら、温かくない視線である。常人並の精神を持つ私には、辛いものがあった。

「……こちらは?」

 如何にも紳士然とした男が、少しこちらに顔を向けながら、恐る恐るといった感じで話しかけてきた。顔の向きが変わって、銀縁眼鏡が微かに光る。

「鈴木さんの友人の、香取さんです。」

 目黒の簡単な説明に、彼は「成程。」とだけ返し、再び椅子に深く腰掛けた。律儀にもつけている紙マスクが、近寄りがたい雰囲気を発散している。

「香取さん、こちらの方々をご紹介します。一番左から、七瀬義則ななせよしのりさん、高倉飛虎たかくらひこさん、才田肇さいたはじめさん、蒲江泰治かまえたいじさん、圷真言あくつまことさんです。」

困惑している私を見かねたのか、目黒は私に彼らを紹介してくれた。それによると、銀縁眼鏡は七瀬という男らしい。七瀬以外は、顔の下半分も見る事ができた。

全員、見たところ四十代。髪に白いものが混じっている、といった具合に観察していると、何故か既視感を抱き始めた。

「ところで、我々はいつ帰れるのですかね。」

「明日になる前には、お帰り頂ける様に努力しています。」

「それは良かった。」

 目黒と圷の会話を聞いていると、ふと気がついた。彼、恵比寿様に似ている。

 発見は自らの胸の裡に留めておこう、と決意した、丁度その時に、ずっと壁を眺めていた鈴木が口を開いた。

「それでは、事件当日の、各々の動きを教えて下さい。既に、警察の方には何度も聞かれている事だろうと思いますが、やはり又聞きよりも、本人の言葉を聞いた方が有意義だと思うので。それでは、七瀬さんから、よろしくお願いします。」

 七瀬はゆっくりと立ち上がり、スーツの襟を正した。

「分かりました。私としても、早いこと戻らなければならないのでね。協力は惜しみません。」

 私がいない間、何かしらの話があったらしい。しかし私は、その件について知らないので、取り敢えず鈴木の横で静かにする事にした。

「昨日の朝は、早めに起きて朝ごはんを作りました。由美恵さんに任せっきりで、申し訳なかったので。その後は、屋敷の裏の小径を降りた先にある沢でずっと釣りでしたね。昼食は、朝食の残りのサンドイッチで済ませました。午後五時ぐらいに屋敷に戻り、魚を冷やしていると、才田が戻って来ました。暫く雑談して、五時半を過ぎたあたりで才田さんがお風呂に入りました。二十分程であがって来たので、今度は私が入りました。早風呂なので、十分少々で上がり、その後は彼と夕飯を作っていました。他の人は、夜釣りをするから夕食はいい、という事だったので、二人分だけ作りました。」

 七瀬の説明に澱みが無い。きっと、何度か聞かれているのだろう。よく見ると、彼らの目元には、一様に隈ができている。

「蕎麦を啜っていると、高倉から電話がかかってきました。凄く鬼気迫った声で、『火事だぁっ』と叫ぶものですから、すっかり仰天してしまって。取り敢えず避難しよう、となりました。他の人達にも電話をかけて、取り敢えず才田と一緒に、皆さんが通ってきたあの道を通って下山しようとしましたが、途中で炎が迫って来ていて、已む無く引き返しました。その時、丁度蒲江が戻って来ていました。彼と、その後直ぐに帰って来た圷にも、道が通れなくなっている事を伝えて、一人で避難した高倉、連絡のつかなかった羽屋夫妻を除いた四人で、この屋敷の地下室に籠っていました。」

 七瀬は、これだけの事を立板に水で捲し立てた。凄まじい情報量である。しかし鈴木は、それをメモする事もなく、今度は高倉に話を促した。

「では、高倉さん。お願いします。」

「はい。」

 少し右頬を掻きながら、高倉が口を開いた。

「俺は、昼過ぎまで此処にいました。昼飯を貰って、夕飯の弁当を詰めて、意気揚々と南の池にバス釣りに。羽屋夫妻と例の橋の反対側で別れ、西の方に十分も行くと、元々は養殖池だったらしい場所に着きます。そこで釣り糸を垂れていましたが、警戒されていると見えて中々釣れない。暫く、のんびりとしたり弁当をつまんだりしていましたが、その内に、木の焦げる臭いがして来ました。多分、バーベキューか何かしに来た人だろう、とあたりを付けて、どんな輩が、こんな辺鄙な場所で火を焚いているのか見てやろう、と東の方に行ってみました。何か、橋にどんどん近づいて行くなぁって、そこで違和感を覚えたんです。橋の手前、もう物凄い炎で。延焼は余り無かったですけど、これはもう自分に如何にか出来るものでもないなって。慌てて逃げ出しました。勿論、消防と他の仲間達にも電話で知らせました。その時は、羽屋さんとはもう連絡がつきませんでした。もしかしたら、もうその時には……」

 早口だった口調が、最後になって急にゆっくりになった。勢いが削がれるにつれて、高倉の目も落ちる。

「もう釣りどころじゃないので、直ぐに来た道を引き返して、荷物引っ掴んで下山しました。アリバイはありません。」

「では次、才田さん。」

 見るからに萎んでしまった大男を置いて、鈴木はその隣に声をかけた。

「はい。とはいえ、私の話す事はあまりありませんが……」

 線の細い男が、椅子の上で姿勢を正した。着ている白いシャツとの、境目が分からなくなる程の色白である。アルビノかと思ったが、髪が黒いので如何やら違いそうだ。

「でしょうね。」

 鈴木は首肯した。そして、身振りで続きを促す。彼は一瞬困惑したが、直ぐに話し始めた。

「その日は、昼ごはんを此処で食べた後、この裏手にある川の水源で釣りをしていました。岩魚を二、三尾釣り上げて、それ以上は見込めなさそうだな、と思ったので、切り上げて屋敷に戻りました。その後は、テットウ……ああいや七瀬さんの言っていた通りです。」

「テットウ?」

 鈴木が言葉尻を捕まえる。

「気にしないで下さい。仲間内の、渾名みたいなものですから。」

 答えたのは、才田ではなくテットウ本人だった。

「そうですか。因みに、どの様な経緯があって、あなたは『テットウ』なのですか?」

「羽屋さんの発案です。彼には、少し子供っぽいところがあったので。」

 七瀬は少し遠い目をした。

「大学を卒業した頃なので、もう三十年も前ですね。それぞれに、我々の内でのみ通じる様な渾名でもあれば、面白いのではないか、と酒の席で言っていましたね。私は、用心深い性格なので、『鉄桶』だそうです。」

 確かに、私も彼を計りかねている。その精神の鉄壁さは、確かに、鉄桶と言っても過言ではない。

「高倉は、見かけによらず人見知りで、人を寄せ付けなかったので『鮎』、才田は、肌が白いので『鷺』、蒲江は、実家が林業を営んでいたので『山部』、圷は、顔から『恵比寿』です。」

 こうして並べると、かなりの範囲から渾名を取ってきているのが分かる。そして、圷が恵比寿様に似ているのは、如何やら私の気のせいではないらしい。

「因みに、羽屋さん本人は、『目高』です。何でも目を通さずにはいられないから、と言っていました。」

 それはそうだろうな、と私は納得した。

 鈴木は、それを聞いて何故かニヤニヤしていた。薄気味悪い。

「まあ、私に言える事は、これだけです。」

 才田は、ペコリと頭を下げた。私も、釣られてお辞儀をする。

「有難うございました。次は蒲江さん、お願いします。」

「なんか、面接みたいですね。」

 話を向けられて、蒲江はそう冗談を言った。

「あ、すみません。昨日は釣りの道具の手入れをして、高倉さんと同じ位の時間にここを出ました。その後は、屋敷の東側にある沢で釣りをしていました。そこそこの数が釣れて、さてどうするか、と思案していると、高倉さんから電話がかかって来ました。火事だと言うので、車で屋敷に戻りました。」

 鈴木が首を傾げた。

「車が通れる道があるじゃないですか。それを通って下山出来なかったんですか?」

「その道を通っていっても、例の橋の、百メートル程屋敷側に出るだけですから。」

「成程。」

 つまり、この屋敷は当時、やはり外界との行き来が出来ない状態だったらしい。

「屋敷に何とか辿り着くと、もう他の面々は揃っていました。その後は、屋敷の食料の量を調べたり、水を確保したりしていました。」

「彼の言う事は本当です。」

 才田が、すぐさま中学生の英文和訳みたいな保証を入れる。

「そうですか。それでは、最後は圷さんの話を聞きましょうかね。」

 ソファーと融合している目黒を一瞥し、鈴木が恵比寿様と向き合った。

「僕は、午前中は七瀬君の絵を鑑定させて頂いていました。昨日出来上がった風景画の出来が良かったのでね、かなり高く売れそうですよ。」

相好を崩すと、益々御利益がありそうだ。

「七瀬さん、画家なんですか?」

「そうなんです、そして僕は画商。七瀬君、結構有名なんですよ?」

 圷はそう言って、自分の事ではないのに何故か胸を張った。

「そうなんですか。寡聞にして知りませんでした。」

「そうなんですよ。あ、続きですね。午前中で値段がついたので、昼ご飯を食べて、屋敷の東の方で釣りをしました。川の、蒲江さんがいたところの少しにある、滝壺です。凄く水が綺麗で、特に今の時期は、新緑が水面に映えて……、あ、関係ないですね。すみません。」

 圷は、ひょこりと頭を下げた。何ともユーモラスな仕草である。

「まあ、あんまり魚は居ないんですよね。釣りというより、どちらかと言うと、ぼんやりと景色を眺めている様な感じでしたね。釣果ですか? お察しの通りです。その内に日が暮れて、星が見えてきました。いつもなら、切り上げて屋敷に戻るんですけど、昨日は新月でしたからね。この辺りだと、周りに灯りがほぼ無いものですから、星が良く見えるんです。滝の音を聞きながら、寝転んで星を眺めていました。自分という存在が希釈されていくような感じで、とても良いですよ。刑事さんも、やってみたらどうですか?」

 目黒は、急に話を振られて泡を食った。「そ、それは良さそうですね。」などと言っている。しかしこの男、仮にも警察に質問を受けているのに、随分と饒舌だ。ずっとこうなのだろうか。

「まあ、二十分もたたずに電話がかかってきたので、やめましたけどね。山火事が迫って来ているというのに、現実逃避に耽る訳にもいかないですしね。いやあ、あんなに怖いツーリングは免許取得の時以来でしたね。その後は、七瀬君達の証言通りです。」

「ツーリング? 表のバイクは貴方のでしたか。」

 鈴木に、ああだかううだか、何とも不明瞭な返答を返しながら、圷はちらと腕時計を覗き込んだ。私も、釣られて時刻を確認する。正午だった。

 そう言えば、朝ごはんを食べていなかった。それを自覚した瞬間、腹の中に空虚を感じる。

 空腹感は取り敢えず無視して、状況を整理してみる。我々の通った道の他に、屋敷からその道を少し進んだ所で分岐し、川沿いを進んで橋の手前で合流する道、橋の向こう側で分岐する道、屋敷の裏の小径と川の水源に繋がる道がある様だ。七瀬は小径の先、才田は水源、蒲江と圷は川沿いの道の途中、高倉は橋の向こう側にいた様だ。圷は蒲江よりも屋敷の遠くにいて、双方に視認は無い。山火事の通報の前に七瀬、次いで才田が屋敷に戻り、通報の後に蒲江、圷の順で屋敷に戻った。高倉は屋敷に戻らず、単独で避難。事件の時間によっては、全員に犯行が可能だろう。

「質問は、他にありますか? 鈴木さん。」

「では、あと一つ。」

 鈴木は、右手の人差し指を伸ばした。

「被害者の羽屋夫妻ですが、不仲だったのですか?」

 突拍子も無い質問である。全員の顔に困惑の色が浮かんだ。横のこの男が何を考えているのか、さっぱり分からない。

「不仲ではなかったですが。あんまり一緒にはいませんでしたね。二人とも、自分の趣味に突っ走る性質でしたし、結婚指輪も、普段は箱から出さなかったですし……。それでもやっぱり、絆みたいなのはありましたね。」

 答えたのは高倉だった。

「成程。」

 自分で聞いた事なのに、鈴木の返事は随分と素っ気無かった。

「由美恵さんは、あいつの子供っぽい所にも、寧ろ喜んで一緒に付き合っていました。やっぱり気が合ったんでしょうね。合コンで出会ったらしいですけど、目高も由美恵さんも、家族がいませんでしたから。幸せそうで良かったなんて、結婚した時は、七瀬と言いに行ったりして。蒲江も、スピーチで柄にもなく泣いてて……どうしてこんな事に……。」

 高倉は更に小さくなった。

「そうなんだよな。葬式の算段ぐらいはつけたいな。二人とも身寄りが無いし、俺達しか葬式は出せないと思うし。でも……。やっぱりまだ動けないですよね。容疑者ですもんね。」

 才田に、目黒は「そうですね。」とだけ答えた。

「聞きたい事は聞けたので、これで失礼します。ありがとうございました。」

 鈴木は、御座なりに一礼し、部屋を出ていった。また迷子になりかけたくはないので、私は急いで追いかけた。


 駐車場では、四台の車と一台のバイクが、パトカーに囲まれて肩身狭そうにしていた。

「なあ鈴木。」

 声をかけると、目黒の車のドアに手をかけた鈴木が、そこで一瞬固まった。

「何だ?」

 こちらに頭を向ける事もなく、鈴木は車に乗り込みながらそれだけ返した。

「渾名を聞いていた時、なんかニヤニヤしてたよな。何考えてたんだ?」

「いや、羽屋という男、中々良いセンスしてるなって思っただけだ。」

 はぐらかしている。それが分かるぐらいには、彼と私は腐れ縁だった。

「で、本当のところは?」

「本当だって。なんだ、気付かなかったのか?」

「何に。」

 反射的に聞き返すと、鈴木は悪戯に成功した悪ガキの様な顔をした。

「あの渾名は、全部魚に関係している。」

 そう言われても、ちっともピンと来なかった。

「全部解説するぞ。『鮎』や『目高』はそのまんまだな。そこは分かると思う。」

 それはそうだろう。

「次、『鉄桶』。テットウとは虹鱒の別名だ。こちらは、鉄の頭と書いて『鉄頭』。同訓異字だな。『山部』も、同じ同訓異字ネタだ。東北の方では、山女の事をヤマベと言う。『鷺』は直球だな。若鷺の別名だ。氷の上で釣る、あの若鷺。」

「じゃあ、『恵比寿』は? エビスなんて呼ばれる魚がいるのか?」

 鈴木は、ちらと考え込む素振りを見せた。

「恵比寿鯛という魚がいる。だがそれは考えなかったな。淡水魚が並んでいる中に、いきなり海水魚が出てきても、少し違和感がある。ここは素直に、恵比寿様の事だと考えれば良い。漁業の神様だからな。」

「そうなのか?」

 初耳である。恵比寿様といえば、商売繫盛の神だと思っていた。

「ほら、釣竿と鯛を抱えているだろう? まあ、正確に言えば、漁業の神というのは色々ある属性の一つだが。」

 その時、運転席に目黒が滑り込んできた。

「何の話をしていたんです?」

「他愛のない雑談です。事件の真相などでは無いので、ご安心を。そう言えば、被害者の車は最初からここに?」

「あれがそうですね。被害者夫婦は、釣りの時に車を使わなかった様ですね。」

 鈴木にからかわれて、目黒の顔に少し不快感が見えた。

「それで、あのダイイングメッセージの意味は分かりましたか?」

 車が出る。サイドミラーの中で、屋敷が森に隠れた。

「それなんですが。何でダイイングメッセージの解読なんて依頼したのですか?」

「え?」

 この質問は完全に想定外だったらしい。目黒の声は素っ頓狂だった。目線もこちらに向く。危ないから前を見ていて欲しい。

「事件の早期解決が目的なら、犯人を推理してくれと言えばいいじゃないですか。どうしてダイイングメッセージなんかに拘るんです?」

 そう。ミステリではよく扱われこそすれど、ダイイングメッセージ程事件解決に不要な物は無い。第一、人間が何を考えていたのか等、完璧に分かる筈がないのだ。ダイイングメッセージの解読が合っているか、そもそもそれは犯人の偽造ではないのかすら、判別する手段を、霊能力者でもない我々は持ち合わせていないのだ。

「まあ、そう大した理由は無いんですけどね。」

 橋の上に着くと、死体は既に運び去られていた。無骨なアスファルトの上に引かれた、死体をかたどる白線だけが、ここで惨劇が起こった事を知らしめている。

「羽屋さんは、死ぬ間際に、何かを伝えたくてあの紙を掴んだんです。最後の力を振り絞って、残される人達の為に。それを丸っきり無視したら、たとえ事件が解決しても、何か悲しくないですか?」

 それだけの為に呼んでしまってすみません、と言いながら、目黒は白線を避けて、ゆっくりと橋を渡った。そういう考え方があるのか、と少し反省した。

「構いませんよ。……よし、香取。何かアイデア出してみろ。」

「え、俺?」

 私は、さぞかし間抜けな顔をしていたことだろう。

「そうだなぁ……。あれが意味するところは……七瀬さん、かな。」

「その心は?」

 一応聞いてみよう、という感じで鈴木が聞く。

「彼は画家。紙は彼の商売道具だ。」

「二十五点。」

 食い気味の鈴木の言葉は、随分と手厳しかった。

「何点満点で?」

「千点。」

 訂正。物凄く手厳しかった。

「何故だ。筋は通っているだろう。」

「通ってないな。君の解釈では、被害者にとって重要な要素は、それが『紙』だと言う事だ。逆に言えば、紙でさえあれば意味は通じる。そして、被害者が落ちた近くには紙が沢山あったじゃないか。」

「あっ」

「そう、死力を振り絞ってまで、被害者があの紙を掴んだ理由を、君は全く説明出来ていない。その上、君ぐらいの平凡な解釈だったら、他の人もそういったこじつけが出来る。真っ白い紙から、肌の白い才田とか、紙と林業を結び付けて、『山部』である蒲江とか。」

 平凡とまで言われるとは思わなかった。癪なので言い返す。

「それなら、君の意見も聞かせて貰おうじゃないか。」

「いい加減な事は言いたくない。」

 返って来たのは、にべもない拒絶だけだった。

「そう言えば目黒さん、殺害の動機がある人物って、もう出てます?」

 私がそう聞くと、目黒は少し思い出す素振りを見せた。

「捜査したところによると、被害者夫婦はかなり人柄が良かった様ですね。唯、羽屋大志の方は実業家ですからね。割と荒っぽい手段も取っていたみたいですし、恨みを買っているとも分かりません。現に一人、馘首された事で逆恨みして、つきまとっていた男がいるくらいですから。」

「最重要容疑者じゃないですか。」

 鈴木が口を挟む。だが、私も言いたい事は同じだったので、文句は無かった。

「本来ならそうなんですがね。その真崎充まさきみつるという男、事件の十日前に、交通事故に巻き込まれて死んでいるんですよ。」

 タングステンよりも、少し重い沈黙が流れた。

「すみません。」

 赤信号の前で車を停めた目黒が、恐る恐るといった感じで声をかけてきた。

「昼食、どうします?」

 そう言えばそうだった。

「まあ、その辺で軽く食べましょう。」

 無愛想な返事だけ返して、鈴木は窓枠に肘を掛け、頬杖を突いた。


 昼食を『その辺で軽く食べ』た私達は、再び車に乗り込んだ。

「次はどうします?」

「ここは、死体の第一発見者に話を聞きに行きたいですね。」

 欠伸を嚙み殺しながら、常識的な返答をする鈴木。いや、ここで『常識的』と言うのは間違いだろうか。一般人が警察を顎で使うというこの状況が、既に非常識的なのだから。

「第一発見者、ですか。大丈夫ですかね。消防士ですけど。」

 成程。仕事中かも知れない、という訳か。しかし。

「アポは取っていないのですか?」

「無いですね。こうなるとは予測出来ていませんでしたから。」

 私の質問は、気まずそうに頬を搔く目黒に打ち砕かれた。


 だが、結果で言えば、我々の抱いていた懸念は杞憂だった。

「へえ、ミステリーに出てくる様な探偵さんって、本当にいるんですね。」

 見た者を圧倒する、鍛え上げられた肢体を爽やかなシャツに包んだ男、鵜戸幸房は、酷く不釣り合いな童顔を輝かせた。

「鈴木さん、でしたっけ。質問は何ですか? 答えられる事は何でも答えます。」

 この人、多分幼少期は明智小五郎にでも憧れていたのだろう。

「では、死体発見後の状況を教えて下さい。」

「後でいいんですか? あっ、見つけた時の話は刑事さんに聞いたんですか。成程。その日は……確か十九時丁度に通報が入りました。日没を十分ぐらい過ぎていたので、ヘリは出せませんでしたが、出場しない訳にもいかないので、急いで行きました。まさか、他殺体に出くわすとは思っていなかったんですけどね。で、警察に通報した後、要救助者を優先するって事になって、水源を確保して、ホースによる消火活動を開始しました。幸い、死体の辺りはもう炭と灰だけでしたので、放っておいても焼ける心配は無いと判断しました。その後は、消火活動に合流し、逃げ遅れた要救助者を捜索していました。あ、そう言えば、現着した時、取水地点の南で、家族が保護されていますよ。何でも、火事の原因は彼らの花火の不始末だとか。」

 鵜戸は始終ニコニコしていた。

「他にはいなかったのですね。潜んでいただけで、実は人がいたという可能性は?」

「我々はプロですよ? 要救助者を発見出来ないなんて事は無いです。」

「ですよね。」

 鈴木は、何か満足そうに数回頷いた。

「香取、昨日の日没時間は?」

 いきなり聞かれても、気象学者でもないので即答出来ない。手元のスマホで検索してみる。

「ええと……十八時四十三分。」

「ナイス。」

 鈴木は、更に満足そうな顔をした。

「目黒さん、車を出して下さい。」

「いいですけど、何処に行くつもりです?」

 困惑する目黒を見て、鈴木は破顔した。

「警察署に行って、その後に例の屋敷へ。彼らのお望み通り、今日で事件を解決しましょう。」

 被害者の持っていた紙を貸して下さい、と言って鈴木は右手を出した。


 目黒の車は、地元の警察署に向かった。鈴木の予想通り、あのダイイングメッセージは捜査本部にある様だ。

 それにしても、鈴木は何を考えているのだろう。私には見当もつかなかった。

 そう言えば、鈴木は私の推理に文句を言っていた。あれは確か、「幾らでもある紙から、被害者は何故あの紙を選んだのか」という事だった。

 あれは、まさかヒントなのでは。鈴木がそんな事をするとは到底思えないが、そこを突き詰めれば、私も鈴木の考えている事が分かるかも知れない。

 他の紙と、あれの相違点は何だっただろうか。頭を捻るまでもない。インクの染みだ。恐らく、魚に刷毛でインクを塗る時、インクが飛んだのだろう。しかし、幾ら小さい染みとは言え、うっかり飛ばして気付かない事があるだろうか。となると、染みの事は羽屋大志も知っていたと考えていい。つまり、『白紙』というだけでは駄目で、『インクの染みがある白紙』という属性に意味があるのだろう。しかし、それが犯人の名前とどう関わってくるのだろうか。

 魚拓とあの紙との差異を考える。インクの量だろうか。否、その形が含む意味だろうか。真円の染みに、意味も何も無いだろうが。それとも。

 車が停まるのと同時に、私の頭の中に一人の名前が浮かんだ。

 扉に手をかけると、目黒が待ったをかけた。彼が紙を持って来てくれるらしい。少し待っていてくれ、と言い残して、目黒は姿を消した。

 最も落ち着かない時間は、人を待っている時間だと思う。が、幸いにして私には話す事があった。

「鈴木。ちょっと考えた事があるんだが。」

「何だ?」

 真面目に聞く気は、如何やらなさそうだ。そういう態度でいられるのも今のうちだ、と私は心の中でほくそ笑んだ。

「お前が言っていた通り、羽屋大志が、態々あの紙を選んだ理由を考えたんだ。」

 鈴木は、「ほう」と言いながら、何故か首を傾げた。それを無視して、取り敢えず、車の中で考えた事を説明する。

「いいんじゃないか?」

 鈴木の声に混じる感心の色に、私は益々気を良くする。

「さて。ずばり、魚拓とあの紙の違いは、インクの付き方。魚拓のインクは捺されたものだが、あのインクは垂れたものだ。多分、刷毛から垂れて付いたんだろうな。それで試しに、『刷毛』を、一文字ずつ落としてみたんだ。そうしたら、『ヒコ』になるだろう?これは高倉の下の名前だ。」

「だから、高倉が犯人だと?」

「そうだ。」

「千点中六百点。惜しいな。」

 それは惜しいと言えるのか。

「外れだと?」

「勿論。君の推理の前提には、大きな欠陥がある。」

「それは?」

 そう言われると、気になってしまう。先を促そうとした時、目黒が窓を叩いた。

 外に出ると、目黒が質問してきた。

「何を話していたんです?」

「香取の外れの推理を聞いていたんですよ。大した進歩はありません。」

 そこまで言うか、と私は鈴木を睨んだ。

「都合が良いので、彼の推理の欠陥を指摘するついでに、ダイイングメッセージを解読します。」

 鈴木は紙を持った。

「彼は、このインクは偶然落ちたものだと考えていましたが、恐らくそれは違います。」

「へ?」

 つい間抜けな声を出してしまう。

「偶然垂れたインクは、あんなに小さくて綺麗な丸に近い形の染みを、たった一つだけ作る事はありません。もっと大きいか、形が歪か、数が多いかします。つまり、あれは羽屋さんが恣意的に作った染みです。」

 私の推理の破綻はこういう事か。羽屋は自らの死を予見出来なかった筈だから、高倉を事前に指名する事が出来ない。縦しんばそれが予見出来たとして、こんなに回りくどいメッセージを残す筈が無い。

 納得するしかなかった。

「これが恣意的に作られたとすると、これには何か意図がある筈です。それは、一体何でしょうか。僕は、これを目印だと考えました。一体、何の目印か。安直に考えてみます。」

 香取ライターを貸してくれ、と鈴木は、こちらに右手だけ突き出した。

 まさか。

 私のライターをひったくった鈴木は、紙を慎重に炙っていく。

 紙の上に、一つの絵が浮かび上がった。


 屋敷は、変わらず無表情でそこにあった。だが、二時間前とは違い、ここは終わりを迎えようとしている。

 彼らは、まだ応接室の中にいた。我々を見て、一様に怪訝そうな表情を浮かべる。

「前置きは面倒なので、本題に移りましょう。誰が犯人なのか分かりました。」

鈴木が無表情で言い放った言葉で、応接室の中に緊迫感が満ちる。きっと彼らには、鈴木は死神の様に見えているに違いない。

 車の中で、誰が狩られるのかを聞いている私は、この後の展開を思って気が重くなった。

「誰が犯人か……って、本当ですか?」

 圷の疑いもどこ吹く風で、鈴木はソファーに座り、悠々と足を組んだ。

「勿論です。これ以上皆さんを煩わせる訳にもいかないですし、手早く終わらせましょう。」

 圷は沈黙した。

「さて、突然ですが、この事件には二つの謎があります。」

「え?」

 少し間抜けな声は高倉のものだった。かく言う私も、聞いた時は同じ様な声を出したので何も言えないが。

「そう言えば、皆さんダイイングメッセージについては知っていますか?」

「警察の方に見せられたので。」

 七瀬も、態度こそ崩さなかったものの、困惑が声に出ている。

「それなら話は早いですね。一つはそれについて、もう一つは、羽屋由美恵さんの死体の位置です。」

 鈴木は話を続ける。

「彼女の死体は、橋の中央から縁、落ちるか否かギリギリの所に移動させられていました。態々移動させられている事から、犯人には何か意図がある事が分かります。では、犯人は一体、何の意図があって、彼女の死体を移動させたのでしょうか。」

 挑戦するかの様な目つきで、鈴木は容疑者達を見回す。

「単に邪魔だったからでしょうか。否、それならば、彼女の死体は橋の上にあってはおかしい。後少し押せば、彼女の死体は川に落ちて、犯人は橋の上を自由に通行出来た筈です。死体を隠してしまう為、というのもおかしい。あそこに移動させた所で、誰かに見逃される筈がない。川に落としてしまった方が余程良いのです。」

 鈴木が一拍置く。静まり返った応接室に、遠くの暢気な鳥の声だけが響いた。

「謎だ、というのが分かりましたね? まあ、順序としてまずはダイイングメッセージに関して、色々と考えてみましょう。」

 お待ちかねです、と少し含み笑いした鈴木に、声を返す者は誰もいなかった。

「羽屋大志さんは頭部に打撃を受けて、橋から転落しました。その後、死力を振り絞ってある紙を掴み、そのままお亡くなりになられた訳です。しかし、彼の落下地点の近くには、彼の荷物が転がっていました。勿論、紙もそこにあった訳です。では、彼は何故、態々あの紙を選んだのでしょうか。一見すると、それを選ぶ理由は無い様に思えます。では、羽屋さんは、荷物から偶然落ちたあの紙をダイイングメッセージとして掴み、犯人はそれを隠蔽する為、後から羽屋氏の荷物を落とした、というシナリオはどうでしょうか。駄目ですね。荷物を落としたところで、何の隠蔽にもなっていません。犯人が隠したかった物が、荷物の方にあったとするのも無理です。荷物を如何にかしたかったのなら、簡単な話だ。事件発生当時、この近辺では山火事が発生していた。火の中に放り込んでしまえばいい。」

 この二つの案、何を隠そう、私のものだ。二回も否定されて、恥ずかしくなる。

「ちょっと待って下さい。」

 口を挟んだのは蒲江だ。鈴木は僅かにたじろいだが、「どうかしましたか?」と聞き返す。

「荷物が落ちたのは犯人の偽装工作、という可能性を否定するには、『何の隠蔽にもなっていない』というのは論拠として弱いのでは?」

「ああ、言っていませんでしたね。」

 鈴木の唇の端が吊り上がった。

「被害者の持っていた紙、実は唯の白紙ではなく、炙り出しをすると文字が浮かび上がるものだったのです。」

 沈黙の薄氷に罅が入り、そこから驚愕が漏れ出るのが、目に見える様だった。

 鈴木の話に、今や皆が釘付けになっていた。

「そう、羽屋さんにとって、例の紙は他の紙と区別せねばならぬものだったのです。縦しんば、これが偶然落ちてきた紙だったところで、彼の残したいダイイングメッセージが、『紙』という属性によって読み解かれるべきものならば、被害者はこの紙を掴まなかった筈。何故ならば、この二つを混同してしまうと、全く別の人を犯人として指名する事になり兼ねないからです。」

 そう、この二つは決して混同してはならない。と、鈴木は繰り返した。

「では、この二つを区別する方法は何でしょう。いちいち、全部の紙を炙っては危険だし面倒だ。第一、炙り出しにした意味が無い。そして、ダイイングメッセージには小さいインクの染みがあった。如何やら、これが印の役割を果たしている様だ。……皆さん、ここで『おかしい』とは思いませんでしたか?」

 再び、鈴木が見回す。が、見回される側の無反応に、少し調子を崩された様だった。

「まあ、言ってしまうと、被害者はこの印をどうやって確認したのか、という疑問が発生する訳です。皆さんご存知の通り、山の夜間は、正に一寸先も見えない真っ暗闇です。ましてや事件当日は新月。そして羽屋さんは死亡寸前です。しかし、視覚以外で、普通の紙と炙り出しを区別する事は不可能なのもまた事実。これはどういう事なのか。単純に考えると、光源はあった、という事になります。では、まだ日は暮れていなかったのか。橋の上に懐中電灯が落ちていた事を考えると、もう暗くなっていたと考えるのが妥当そうです。犯人が、親切にも上から懐中電灯で照らしていた訳でもないでしょう。では、何が光源になったのか。そう、偶然発生していた、山火事の炎です。」

 また、鳥が鳴いた。あれは鶯だろうか。

「これと、凶器が現場の上流で発見された事を合わせて考えると、犯人がある程度絞れます。凶器が独りでに川を遡る筈がありませんから、凶器は犯人が上流に投棄したと断言できます。炎が近くまで迫っているのに、態々川の上流に凶器を遺棄した後、炎の方へ引き返して下山するのは非合理的な上に、命の危険まである。故に、犯人は犯行後、この屋敷の方へ逃げた筈です。そして、消防士達の救命活動の結果、この森には誰もいなかった事が明らかになっています。よって、犯人は事件当夜にこの屋敷に避難していた、七瀬さん、才田さん、蒲江さん、圷さんの四人に絞られる訳です。」

 死神の鎌を逃れたと分かって、高倉は安堵の溜息をついた。逆に、残りの四人は身を固くしている。

「そして、この山火事は、犯人の手によるものではない事が判明しています。つまり、犯人は火事の発生を予測出来なかった事より、火事の発生前後にアリバイのある、七瀬さんと才田さんは嫌疑を外れます。残りは二人。さあ、後回しにしていた、もう一つの謎について解説します。」

 クライマックスが近い。

「羽屋由美恵さんの荷物の中には懐中電灯がありました。手に持っていなかった、という事は、彼女が死んだ時、まだ辺りは明るかったという事になり、羽屋大志氏は由美恵さんの後に死んだと分かります。消防に通報が入ったのは十九時、昨夜の日没は十八時四十三分。矛盾はありません。これが鍵です。死体が動かされた理由は、ずばり、羽屋大志さんから由美恵さんの死体を隠す為です。」

「ちょっと待って下さい。死体は隠れてなんていないじゃないですか。」

 嫌疑を外れた安堵混じりの、七瀬の反論に、待っていましたとばかりの反応を鈴木は見せた。

「それが隠れていたんですよ、事件の時は。」

「あの何も無い橋の何処に?」

「犯人の車の下ですよ。」

「え?」

「死体が動かされたのは、橋のど真ん中に車を停めては羽屋大志さんに怪しまれるからです。普通、車は道の端に停めるものです。従って、死体もその下に隠す為、移動させなければいけなかった。橋の下に落としてしまっては、ばれるかも知れないと犯人は考えたのでしょう。さて、このトリックを使う為には、当然犯人は車に乗っていなければなりません。羽屋夫妻の車はここにあって使えませんでしたしね。よって、バイクに乗っている圷さんは犯人ではあり得ない。残るは蒲江さん、貴方です。」

 視線が一点に集中する。その先にいた蒲江は、大仰に肩を竦めた。

 この推理には証拠がない。鈴木は、車内でそこを懸念していた。だが、蒲江は陥落した。

「もう、逃げられませんか。まあ、どっちみち終わりでしたね。」

 へらりと笑みを浮かべる、蒲江の顔で眼だけが死んでいた。

「山部、お前、何でだよ。」

 才田の声は、今ここで死体を一つ増やしそうだった。

「俺さ、銀行から金盗んだんだよね。この前。」

「は?」

「借金だよ。知り合いに騙されてさ。ちょっとやばい筋だったらしくてね。到底払える額じゃないの。」

 乾いた笑いが響く。

「で、その事が羽屋にばれたんだ。目高ってだけあって目ざといんだよ。」

「口封じか。お前、そんな理由で親友殺せんのか?」

 才田が叫ぶ。蒲江は目を伏せた。

「人が変わったんだよ、あいつも俺も。お前に任せる、なんて言って。人の秘密握ってニヤニヤしていやがるんだ。でもその時は、殺すなんて考えなかった。『親友』だし。」

 だが、殺した。

「あいつの嫁から電話が来てさ。『主人が炙り出しにはまっている』なんて。あいつのダブルミーニング好きは知っていた。『今度うちに見に来てください』ってのは、そこで俺の罪も炙り出してやる、という意味だと確信した。恐喝されたんだよ。でも俺だって失いたくないものはある。あ、警察の方は知っていましたね。語っちゃってすいません。」

 蒲江は笑いながら、ゆっくりと両手を突き出した。

 沈痛な応接室の中、私は慄然していた。

「知らないよ。」

 空気を砕いたのは、鈴木の言葉だった。

「ダイイングメッセージは、そんな類のものじゃなかった。だから、俺たちはそんなの初耳だ。」

 え、と蒲江は口を動かした。声は出なかった。

「確かめてみるか? 羽屋大志が遺した声を。」

 何処からともなく取り出された紙。蒲江の両手が落ちた。

 紙の上にあったのは、大きなセピア色のヤマメだった。

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