1オクターブ、届かない

桃野にほひ

1オクターブ、届かない

 この世には、目一杯努力しても超えられない壁がある。

 私はずっと、その壁の向こう側に行きたかった。音楽の神様に愛された、あの子の隣に立ちたかった。


 物心ついたときから、私の傍にはいつもギターがあった。初めてギターを手にしたのは、6歳の誕生日で誕生日プレゼントとしてギターをもらったときだった。父のお下がりでもらったギターだった。昔はよく弾いていたが、忙しくなってからは弾く時間がなくなったらしい。

 埃一つ被らない、磨き上げられたそのギターは、父がどれほど大切にしていたかを物語っていた。私はそのギターを抱きしめ、父に喜んでもらえるようにと、週に一度の公民館の教室に休まず通い続けた。指先が固くなり、何度も血が出た。それでも私は、ギターを弾くことが何より好きだった。

 

 そんな私も、晴れて高校生になった。今日から部活動見学ができるらしいので、私は迷うことなく軽音部の門を叩いた。

 部室に入ると、どこからともなく聴こえてくるギターの音色と声色に、私は足を止めた。その音は、私が知っているどんな音よりも、心を揺さぶる美しい音だった。光引き寄せられる虫のように、音がなる方へ進んでいく。

 歌っていたのは、一人の女の子だった。

 ボブヘアで、少し俯きながら、アコースティックギターを抱えていた。

「すごい……」思わず漏れた私の声に、彼女は顔を上げた。

「あ、見学?」

 にこやかに笑う彼女の顔を見て、私は心を奪われた。

「私、ギターと歌をやってて軽音部に入ろうかと…」

 私がそう言うと、彼女は目を輝かせ、ギターを置いて立ち上がった。

「私も!じゃあ一緒にやろうよ!名前は?私は朱!」

「優衣って言います」

 元気な朱に気圧され私はとても緊張してしまい、同い年なのに敬語を使ってしまった。

 それから、私たちはすぐに仲良くなった。放課後はいつも部室に集まり、二人で好きなバンドの話をしたり、オリジナル曲のアイデアを出し合ったりした。

 朱の歌は、自由自在に音を紡ぎ出す。その才能に圧倒されながらも、私は彼女の隣で歌う時間が、何よりも大切になっていった。

 そんなある日、朱が私に提案をしてきた。

「ねえ、私たちで作った曲を作ってさ、動画を投稿してみない?色んな人に私たちの音楽、聴いてもらいたいんだ!」

考えてもいなかった。確かにそれはとても楽しそうでやってみたいと思った。

「いいと思う。私もやってみたい」

 朱のまっすぐな瞳に背中を押され、私は頷いた。私たちの夢を詰め込んだ最初の動画が、ネットの世界に放たれた。

 

 そして、その動画は、一日で信じられないほどの再生数を叩き出した。

コメント欄は「神曲!」「この歌声は天使だ!」と絶賛の嵐。私たちの曲がたくさんの人に届いていることに、胸が震えるほど感動した。一つ一つコメントを読みながら、スクロールをしていると、いくつかのコメントが目についた。

「朱ちゃんが逸材すぎる。隣の子も悪くないけど……」「朱ちゃんが上手すぎる」「隣の子が霞んで見える」

 私が下手なわけじゃない、ただ、朱が上手すぎるだけ。ずっと知っていたのに、引き立て役になっているという事実が私の心を深く抉った。

 翌日、私たちは次の動画の準備をしていた。朱は「この曲も絶対バズるよ!」と楽しそうに話している。その横顔を見つめながら、私はふと、このままでいいのだろうかと自問した。このまま彼女の隣にいて、ずっと影のままでいるのだろうか。考えれば考える程、心の中のモヤモヤが次第に大きな塊となり、私の喉を塞ぐ。頭からずっと動画のコメントが離れない。

 それ以降、私は指が思うように動かなくなった。頭では完璧なはずのコード進行が、まるで別人のようにぎこちない音を奏でる。歌おうとしても、喉の奥が張り付いたように声が出ない。スランプに陥ったのは、誰の目にも明らかだった。朱はそんな私を心配して、「大丈夫?疲れてるんじゃない?」と優しい声をかけてくれた。その優しさが、私をさらに苦しめた。

 朱は悪くない。彼女の才能は本物で、努力だって怠らない。私はそんな彼女を尊敬していたはずだった。


 なのに、いつからだろう。

 憧れの眼差しが、憎しみに変わっていたのは。


 部室の隅で練習している私の横で、朱は楽しそうに新曲のメロディを口ずさむ。鼻歌にすら聴き惚れてしまう自分が悔しい。もしも、彼女の才能がなければ、もしも、私が彼女より上手ければ。そんなことばかり考えてしまう自分に嫌気がさした。

 朱は出会った頃からずっと優しかった。いつも私を褒めてくれた。

「すごいね、朱。さすがだね」

 朱が本心から言っていることぐらい私だって分かる。才能に驕らず、私を褒めてくれる、そんな朱が私は好きだった。

 でも今は。どうしても、考えてしまう。どうせ嘘だ。本心は違う。貴方の方が私より、才能があるくせに。どうして私にはこんな才能がないんだろう。なぜ、私だけこんなに努力しなきゃいけないんだろう。朱が私を褒めてくれる度、そんな言葉が、出かかる。

 好きだった朱の笑顔が今は直視できない。

 彼女が奏でる音は、一番好きな音だったはずなのに、いつの間にか、私を突き刺す鋭い棘に変わっていた。

 私は、朱といればいるほど、朱から遠ざかっていくようにを感じた。


 それから、私は徐々に朱と距離を置くようになった。部活が終わると、「ちょっと用事があって」と当たり障りのない嘘をつき、すぐに帰り支度をした。朱が心配そうに「一緒に帰ろうよ」と誘ってくれても、私は作った笑顔で断った。季節はいつの間にか、梅雨に入っていた。

 梅雨に入り、連日雨が降り続いた。私の心も、朱との関係も、この空模様みたいに、じめじめと重苦しいものになっていった。

 そんな雨降りの日。朱が、部活が終わって帰ろうとしている私に楽譜を差し出してきた。

「ねえ、優衣。もう一回、この曲合わせてみよう?」

 朱が差し出したのは、私たちが最初に投稿した曲の楽譜だった。それは、一番輝いていた頃の、そして、一番辛い記憶が詰まった曲。それを今、二人で演奏するなんて、私には無理だった。

「一回だけでいいから。お願い」

 朱は、まるで何かを確かめるかのように、不安げな表情で優衣を見つめた。いつもの自信に満ちた瞳は揺れて、その声には、震えるような響きがあった。結局、朱に押されて私は黙って頷いた。部室に重い空気が満ちていた。

 私は、ギターケースから私のギターを取り出し、ぎこちない手つきでチューニングを済ませ、楽譜を譜面台に置く。

 彼女の目が、私の指先をじっと見つめているのがわかる。その視線が、まるで試験官のようだと思った。

 カチッ。

 ギターのピックが弦に当たる。しかし、音は出なかった。手が震えて、コードを押さえられない。もう、どうしようもない。

「ごめん、今日はもう帰る」

 私はそう言って、ギターをケースにしまい、部室を飛び出した。朱の「優衣!」と呼ぶ声が背中に突き刺さる。

 廊下を、夢中で走って、走って、下駄箱に向かった。悔しさと、悲しさと、朱に対するどうしようもない気持ちが溢れ出して、涙が止まらなかった。雨粒が校舎を叩く音だけが響いている。

 もう、やめたい。

 そう思ったとき、背中に温かいものが触れた。朱だった。いつの間にか私の隣に立っていて、ただじっと私を見つめていた。

「ねえ、優衣、どうしちゃったの?私が、優衣を傷つけちゃった?」

 朱の言葉に、私は何も言えなかった。ただ、涙を流すことしかできなかった。

「ごめん...」

 私が泣きながら謝ると、朱は困ったように眉を下げ、私の頭をそっと撫でた。

「謝らないでよ。優衣、言ってよ。何があったの?」

「朱の隣にいると、自分が惨めになるの...」

 震える声でそう言うと、朱は何も言わなかった。ただ、じっと私の目を見つめていた。その瞳は、優しくて、悲しそうで、そして少しだけ寂しそうだった。

 私は、これまでのことを全部話した。動画のコメントのことも、朱に嫉妬してしまったこと。

「私、朱のこと、好きだったのに...」

 もう、止まらなかった。ぐちゃぐちゃになった感情を、全部吐き出した。

「おかしいよね。自分に才能がないだけなのに、朱を恨んでたなんて。自分が情けないよ...」

 そう言って、私はその場にしゃがみこんだ。朱の顔を、もう見ることができなかった。すると、朱は私の隣に座り込み、濡れた地面に手を置き、私の肩を抱き寄せた。

「優衣、私ね、優衣のギターの音、すごく好きなんだよ」

 突然の告白に、私は顔を上げた。朱の顔は、涙でぐちゃぐちゃになっていた。

「優衣が弾くと、ギターが生きてるみたいって思ってたの。私にはね、優衣みたいに、人を癒すような音が出せないんだ。私はただ、自分の好きなように音を鳴らしてるだけ。でも優衣は違う。優衣の音には、優しさがある」

 優衣の性格そっくり、と朱が呟いた。

「私、優衣と一緒に音楽ができて、すごく嬉しかったんだ。優衣が私の隣にいてくれるから、私の音はもっと響く気がした。だから…だから、優衣、私の隣からいなくならないで。ずっと、一緒に音を作っていこう?」

 朱の言葉は嘘には聞こえなかった。

 そのとき、私は、自分の惨めさばかりに囚われていたことに初めて気づいた。自分には才能がないと嘆くばかりで、朱がどれだけ私のことを大切に思ってくれていたのか、気づくことさえできていなかった。

 この世には、目一杯努力しても超えられない壁がある。それはもう、仕方ない。

 そう思えるようになった今、気づいたことがある。

 私は、貴方に憧れて、貴方に嫉妬して、貴方になれないことが悔しくてたまらなかったけど、よく考えてみれば、みんな違うのに、私だけが特別になれないと拗ねているみたいで、おかしな話だった。

 私は、私なりにこれからも頑張っていこうと思う。

 雨はいつの間にか止み、静けさだけが残っていた。

「私はこのままでいいんだよね」

 私の言葉に、朱は驚き、そして笑った。その笑顔は、出会ったときに見せた、曇りのない笑顔だった。

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