祈り
君山洋太朗
祈り
時計の針が二十四時五分を指している。今日で私は四十歳になった。
私は寝室のベッドに横たわりながら、天井の染みを数えていた。隣から聞こえる娘の規則正しい寝息が、静寂を破る唯一の音だった。七歳の彼女は、今日が母親の誕生日だということを忘れて眠っている。いや、きっと覚えているだろう。昨日から手作りのカードを隠していたのを見ていた。
四十歳。母が最初に症状を訴えたのも、この年齢だった。
「手が震えるの」
母はそう言いながら、湯呑みを持つ手を見つめていた。その時の母の表情を、私は今でも鮮明に覚えている。困惑と、そして深い諦めが混じった顔。まるで長い間待っていた客が、とうとう玄関の扉を叩いたかのような表情だった。
ハンチントン病。優性遺伝。発症率五十パーセント。
医師が告げた数字は、私の人生を二つに分けた。四十歳までと、四十歳から。そして今、その境界線を踏み越えようとしている。
静かに布団から出て起き上がった。月明かりに照らされた娘の寝顔。頬に手を当てたい衝動を抑えて、私は立ち尽くした。
この子にも、私と同じ五十パーセントの確率が宿っている。
母の死よりも、それが怖かった。
居間にいき、温かい牛乳を温めた。母がよくやってくれたように。
「眠れない夜には温かいものを飲みなさい」
母の声が聞こえるような気がした。病室のベッドで、やせ細った手で私の手を握りながら言った言葉。あの時、母の手はもう震えを止めることができなくなっていた。
「お母さん、私も同じ病気になるの?」
二十代の私は、怖くて仕方なかった。母は微笑んで答えた。
「あなたには未来がある」
その言葉の意味が分からなかった。未来なら誰にでもある。明日も明後日も、時は平等に流れていく。なぜ母はそんなことを言ったのだろう。
私は母の言葉を、慰めか、あるいは現実逃避だと思っていた。だが今になって、その意味が少しずつ見えてきているような気がする。
母は私に未来があると言った。それは私個人の未来ではなく、私を通じて流れていく時間のことだったのかもしれない。
牛乳を飲み終えて、机に置かれた新聞に目を向けた。科学面の小さな記事が目に留まる。
「ハンチントン病、新薬開発に光明」
記事は短く、まだ研究段階だと書かれている。私の世代には間に合わない。
でも娘の世代には、もしかしたら。
私は図書館の司書として二十年近く働いている。静かな環境が性に合っていた。本に囲まれて、知識を整理し、人々の求める情報を提供する。そこには確実性があった。
だが遺伝子は、どんなに整理しても変えることはできない。
母が亡くなってから、私は毎日のように医学書を読んだ。症状の進行、治療法、予後。知識を得ることで、恐怖を制御できると思っていた。しかし知るほどに、絶望は深くなっていった。
結婚した時、夫に病気のことを話すべきかずいぶん迷った。結局、娘を妊娠してから告白した。夫は動揺したが、「それでも君と生きたい」と言ってくれた。
しかし三年前、夫は別の女性と一緒になった。離婚の理由を問い詰めることはしなかった。答えは分かっていたから。
娘は知らない。母親が抱えている恐怖を。自分の体に流れている血の意味を。
でも、いつか話さなければならない日が来る。
私は祈った。娘が大人になる頃には、医学がもっと進歩していますように。この子が私と同じ恐怖を味わわずに済みますように。
そして気づいた。これが母の祈りだったのだと。
夜明けが近づいている。窓の向こうが薄っすらと明るくなり始めた。
母の「あなたには未来がある」という言葉の本当の意味が、今なら分かる。それは私個人への励ましではなく、次の世代への祈りだったのだ。
母は自分の娘である私に、そして私がいつか産むであろう子に向けて言ったのだ。未来は一人では作れない。人から人へ、世代から世代へと受け渡されていくものなのだ。
私は隣で眠る娘の方を向いた。彼女はまだ深い眠りの中にいる。寝息を聞きながら、私は小さく呟いた。
「あなたには未来がある」
母から私へ。私から娘へ。祈りが受け継がれていく。
今日、私は四十歳になった。もしかしたら、あと数年で症状が現れるかもしれない。でも今は、それが以前ほど怖くない。恐怖は消えはしないが、それを上回る何かが心にある。
希望ではない。希望はあまりに不確実だから。
これは祈りだ。確実に次の世代に届く祈り。
娘の寝顔を見つめながら、私は静かに目を閉じた。あと数時間で夜が明ける。新しい一日が始まる。新しい年齢の一年が始まる。
そして祈りは、また一日、娘の中で息づいていく。
私はついに眠りに落ちた。母の祈りに包まれて。そして娘への祈りを胸に抱いて。
終
祈り 君山洋太朗 @mnrva
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