下 店員
二十二時間後、私は古びた居酒屋の前に立っていた。
昨夜と変わらず寂れた古民家のような出立ちのその店は、やはり隣の定食屋に客を取られているのか、まるで陽キャの陰に隠れる陰キャのように地味で遠慮がちな佇まいだ。九月だというのに真夏と変わらない気温に辟易し、私は額に張りついた髪を掻き上げる。胸の谷間からぷつぷつと滲み出る汗が気持ち悪い。曇天のせいか地面を這いずる湿った空気にむしゃくしゃして、顔に集る蝿を追い払う時のように頭を振った。
昨夜、十一時前に帰宅した私に母は怒らなかった。ただ、居間のソファで俯いていた顔を上げ、今にも泣き出しそうに表情を崩しただけだった。
『心配するから、連絡はしてね』
うん、ごめん、と謝りそうになった口を無理やり閉じ、階段を駆け上がって現在。結局スマホの電源を落とし、私は居酒屋の前に立っている。埃を被っているせいで磨りガラスのように店内を隠す窓から僅かな明かりが漏れていることに安堵し、引き戸に手をかけた。相変わらず静かな店内に、昨日と同じく本当に営業しているのかと疑いつつ、まるで泥棒が何かのように足音を盗みながら奥へ向かって進む。
「こんばんはぁ……」
返事は、ない。まさか昨夜の一万円を持って夜逃げでもしたのだろうか。たかが一万円、されど一万円。昨夜の店員の様子を思い起こせばありえないことではあるまい。ワイングラスに入った日本酒も何もかけられていない冷や奴も、自暴自棄になった結果だと思えば納得できる。
「こんばんはぁ」
なんとなく興味本位で店の奥へと歩を進める。店舗兼住宅なのだろう、狭い廊下を進んだ先に六畳程度の和室があった。襖は閉められていない。店側からの僅かな明かりを頼りに、土足のまま和室に上がる。不法侵入だとわかってはいたが、その背徳感がむしろ夜中に部屋を抜け出して倉庫に肝試しに行った子供の頃の高揚感を彷彿とさせ、私は思わず忍び笑いをした。
和室はおそらく寝室兼居間なのだろう。部屋の端に敷かれた昭和からタイムスリップしてきたかのような重たい布団と、色落ちして潰れた花柄の枕が年季を感じさせる。反対側の隅には小さな丸テーブルと服のかかったままのハンガーがいくつも落ちていた。なんとなく呼吸をするのを躊躇い、無意識に口元を手で覆う。指の間から侵入する空気は外の湿気よりもさらに湿っていた。黴と畳の混じった、青臭い匂い。
不意に、店側から物音が聞こえ顔を上げる。反射的に和室の奥へと身体を滑り込ませ、息を潜めた。
「……こんばんはぁ」
予想的中。来客だ。
「あのー」
逃げたい衝動に駆られるが、出口が店側にしかないのでどうすることもできない。どうしたものか。もしも常連だったら――こんな寂れた居酒屋に常連がいるとは考えにくいが――顔を見られたらすぐに店員ではないとバレてしまう。最悪、不審者扱いされて警察を呼ばれてもおかしくない。事実、不法侵入者ではあるわけだし。
「こんばんはぁ」
随分と粘る客だ。なまじ店の明かりがついているだけに営業中に思えるのだろう。実際は店員不在な上、無駄に好奇心旺盛な女子高生が忍び込んでいるという状況なのだが。
わざわざこんな店で粘るなんてどんな客なのだろう、と興味を惹かれて襖から首を突き出したのが失敗だった。建てつけの悪い引き戸を手で押さえた瞬間、ガタッと小さな音が狭い店内に響き渡ってしまったのだ。ほんの僅かな軋みとはいえ、駅前だというのに異様に静まり返ったこの店内にはよく響く。冷や汗が背中を伝うのを感じた。いや、それともこの汗は、エアコンのない部屋の暑さのせいだろうか。
焦って意味もなく室内を見回す。どこか隠れる場所でもないだろうかと思ったのだが、目に入ったのは薄汚れた大きなパーカーだった。見覚えのあるそのパーカーをハンガーから外し、深く考える余裕もなく腕を通しながら店側に向かう。汗臭いその上着はすっぽりと私の身体を隠した。
「……ご注文は」
パーカーの裾から制服が覗いていないだろうか、やや低くした声が不信感を煽らないだろうか、内心そんな不安で身体を熱らせながら、いっそのことさっさと用を済ませて出て行ってくれという思いでそう問う。顔を隠すため、鼻先まで被ったフードのせいで先程まで気になっていたはずの客の顔は見えない。だが残念と思う余裕もなく、私はますます俯いた。
「えと、日本酒と冷や奴で」
日本酒と冷や奴。簡単なものでよかった。イカゲソの唐揚げでも注文されたらたまったものではない。とりあえず厨房らしき場所に入り、酒を探す。厨房と言うよりは狭い台所と言った方が正しいかもしれない。汚れのこびりついた床を、隙間風が撫でていく。
やっとのことで日本酒らしき瓶を見つけ、胸を撫で下ろす。個性的な筆文字で何やら漢字が書かれているが、おそらく銘柄か何かだろう。瓶の栓が開いて中身が少し減っているので、昨夜自分が飲んだものかもしれない。
次に酒を注ぐ器が必要だ。日本酒を見つけ出すまでに探すことには疲れてしまった私は、流し台の横に置かれた水切り籠の中に無造作に放り込まれたワイングラスに目を止めた。ちょうどいい。昨日も日本酒がワイングラスに入って出てきたし、それがこの店のやり方ならばそれに則ろう。
ワイングラスに日本酒を並々と注いだら、最後は冷や奴だ。こっちは冷蔵庫の中にいくつか入っていたのですぐに見つけられた。スーパーに売っている、一番安いやつだ。昨夜食べ慣れない味に感じたのはそのためか。面倒くさいのでそのまま適当な皿に移し、流し台のそばに立てかけられていたお盆に乗せる。よし、まあこんなものだろう。
お盆を持って厨房から出ると、ちょうど客の席のすぐ横にかかっている絵に目を惹かれた。リバースの絵。特に素晴らしいとも芸術的とも思える絵ではないが、派手な黄色の下地がやけに目立つのだ。
「……どうぞ」
日本酒と冷や奴をお盆からテーブルに移し、軽く頭を下げる。客に対する礼儀などではない。顔を見られないようにするためだ。
「ありがとうございます」
和室が厨房に引っ込もうと思ったのだが、カウンターのそばに丸椅子が置かれていることに気がつき腰をかける。客から見える位置ではあるが、もう一度あの湿気た和室に戻るのも、不潔な厨房に戻るのも気が進まなかった。
薄暗い店内の埃が張り巡らされた壁を見ながら、こんなのも悪くない、と思う。こんな夜は、束の間の自由を錯覚させてくれる。私を守る暖気から抜け出せた気持ちになる。母のいない視界に、初めて羽ばたいた雛鳥のような高揚感と解放感を覚えた。親鳥が持ち帰る虫がなければ生きられないくせに、ちょっと飛べたくらいで舞い上がる稚拙な子供。
徐にスカートのポケットからスマホを取り出し、電源をつける。案の定、通知がたくさんきていた。開くまでもなく、母からだろうと予想できる。もう十八になるのだからそんなに心配せずともいいのに、母にとって私はいつまでも子供なのだろうか。
数十件に上るメールを確認することなく、再び電源を落とした。メールを開いてしまえばきっと早く帰りたいと思ってしまう。あの暖かい家に、母に、抱かれたいと願ってしまうだろう。それは甘えであり、挫折だ。始まったばかりの反抗期に終止符を打つにはまだ早い。
ふと、視界の端で客が動いた気がした。そこまで時間は経っていなかったが、早く帰ってほしいという思いが表に出てしまったのだろう。
「お会計、ですか」
急かすような口調になってしまった。そもそもこの店に出向いた時は、ぼったくられた一万円を返してもらうつもりだったのだ。いつまでも店員の真似事をやっているわけにもいかない。いつ本物の店員が戻ってくるかわからないのだから。
「いくらですか?」
そう問われ、そう言えばいくらなのだろうと考える。メニューに値段は記載されていない。否、元々は書かれていたのかもしれないが、年月により腐食して消えたのだろう。
逡巡した後、ふと痛快なアイデアを思いつき顔を上げた。店員がいないなら、他の人から返してもらえばいいのだ。元々値段の参考になるのは昨夜自分が支払った代金くらいである。私が昨夜の店員を真似たところで、バチは当たらないだろう。恨むなら、あの店員を恨んでくれ。
頭の中で言い訳をたっぷりして自らを正当化した後、私はフードの奥の口を開いてはっきりと言った。
「一万円です」
ぼったくり 中尾よる @katorange
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