第3話
色づきかけた街路樹が風に揺れている。
午後の陽に照らされた駅前の通りを、稲生が歩いていた。
俺はその上空を滑空中。空から彼女の後をつける。
商店街を抜け、稲生は古びたカフェへ入っていった。
俺には読めないが、文字の書かれた看板が店前にかかっている。
カフェの前の電柱にとまり、窓から中をのぞいてみる。
年季の入った店主が一人、カウンターに立っていた。
俺は中の会話が聞こえるように、窓の上の小屋根に移動した。
店内のスピーカーからジャズが漏れ聞こえる。だがその周波数の裏で俺には、はっきりと別の音が届いていた。
「……倫理違反なんてレベルじゃないんです。知性をもった生物を完全に道具扱いしている」
稲生の声が聞こえる。彼女は研究所に不満があるのか?知性をもった生物って何だ?
「許可は?」
「許可はとらずに発明している」
俺のことか、と思い当たる。稲生は誰かに俺のことを話している。
それがどういうことなのか理解するまでに、しばらく時間を要した。
俺のことは研究所の機密情報。その機密情報が漏れたら、どうなるのだろうか。俺がこのことを報告したら、稲生はどうなるのだろうか。
「私は……研究所がしていることを全て肯定することはできない。この研究所の内部で起こっていることは誰かに知られるべき」
稲生は敵ではない。そのとき、気づいた。稲生は研究所の秘密を暴こうとしている。もし、稲生のことを元宮にバラしたら、結果的に俺は元宮らを擁護することになるのではないか。
稲生がカフェから出てくる。周囲を見回し、駅前の商店街を通ってバスに乗り、研究所の方へ戻っていく。
あとは研究室に直帰するだけだろう。 元宮から、研究所に戻ってくるまで稲生のあとをつけろとは言いつかっていない。 少し飛んでから帰ろう。窓の上の屋根を蹴って飛び上がる。 俺はしばらく高所をはばたきながら考えた。稲生のことをどう報告しようか……。
そのときだった。背後で空気の裂ける音がした。翼の先を鋭い何かがかすめる。とっさに身を翻すと羽が一枚、空へ舞っていった。視界がぶれ、高度が落ちる。見ると二羽のカラスが俺に向かって突っ込んできていた。
「人間に飼われてるやつは出ていけ」
襲ってきたカラスの一羽が怒鳴った。
「ここは私たちの餌場よ!」
もう一羽が俺に向かって足を突き出す。
どうやら俺は機嫌の悪いカラスの行動圏内にはいってしまったらしい。
「お前たちの餌場だなんて知らなかったんだ。すぐに出ていくよ」
必死に攻撃をかわしながら言葉を並べる。
「大体、お前たちの食料を取ったりしてないだろ」
認めたくはないが、俺は少々どんくさいらしい。相手に羽を爪で引っかけられて体勢を崩した。視界が反転する。さらに高度が落ちる。
電線が目の端に映った。足を伸ばして電線をつかみ、それ以上の落下を食い止める。電線の上で体勢を立て直したが、 襲撃者は俺の両側にとまり、再び攻撃を仕かけてきた。 敵は目を狙って嘴を突き出してくる。俺は羽をばたつかせて、最悪の外傷をかろうじ防いだ。
「やめろ!何してるんだ!」
聞き覚えのある声が響いた。その声によって空気ががらりと変わる。力強い羽音。一羽のカラスがひらりと電線の上にとまった。紛れもなく、ユラだった。
「おかしなやつだったから追い出そうとしていただけだ。ユラ」
俺を攻撃していたカラスの一羽がユラの方を向いた。
「こいつは人間に飼われてるのよ」
もう一方が付け足す。
「そんなことない。コルディスは人間に飼われてなどいないよ。私がよく知っている」
ユラが毅然として答えた。
「……知り合いなのか」
「なんだ、そうなの」
俺を攻撃していたカラスたちがあっけなく去っていく。流石はユラだな。 俺は突かれた羽の痛みを感じながらぼんやりと思った。
ユラはこのあたりの全てのカラスから一目置かれている。ユラは食料を見つけるのがうまく、そして必ず食べ物の存在を他のカラスにも教えるやさしさを持っていた。 それに、やさしいだけじゃない。ユラは身体能力が高く、戦闘も強い。なので皆、ユラと争うことは避けたがるのだ。
ユラが目の前まで近づいてきて、俺の顔をのぞきこんだ。
「怪我したのかい?」
心配そうな黒い瞳の向こうに、羽の乱れた俺の姿が映る。
「あーあ、羽大量にかっさらわれちまった」
俺が羽をばたかせると、さらに数枚、風に乗って飛んでいった。 「まあ、ちょうど良かったかな。最近暑いと思ってたし」
軽口をたたき何気なくユラの方を見ると、ユラがいきなりずいっと顔を近づけてきた。
「今までどこにいたんだ」
真剣な口調に俺は口を閉ざす。
「ずっと探していた。でも、どこを探しても見つからなかった」
俺は思案した。人間に捕えられ、改造されたことなどユラに言いたくなかった。 だが、いつものように口から出まかせが出てくることはなかった。
「俺は……」
「何をしている。稲生はもうとっくに戻ってきているぞ」
突然、元宮の声が俺の脳内に飛び込んできた。びくりとして思わず身をすくませる。 ユラは怪訝そうに俺を見ていた。その表情を見て、元宮の声は俺の脳に直接届くためユラには聞こえていないのだと気づく。
「位置情報は確認済みだ。実験体」
ということは、元宮は俺がいるところまで来る可能性があるということ。 俺はふと、傷のあるユラの足に目をとめた。研究員の会話が蘇る。
――足に傷のある個体か。人慣れしていて捕獲も容易だろう。第二弾実験体としては悪くない――
このまま元宮がやってきたら、ユラを見つけてしまう。
だが、「逃げろ」その一言をどうしても口に出すことができなかった。
言えばもう会えなくなるかもしれない。
言わなければ、ユラは捕まる。捕まって俺と同じような実験体となって、それでも研究所にいる限り、離れることはないだろう。俺のような存在は一羽ではなくなる。俺は一羽ではなくなる。 それはあまりにも甘美な誘惑だった。
「あのカラスだな」
下から人間の声が聞こえた。 元宮の声ではない。だが、聞き覚えがある。 研究所の研究員……。
見ると電柱の影に男が立っていた。手には網を持っている。
「危ない!逃げろ!」
俺はとっさに叫んだ。 ユラがびくっと反応し、飛び上がる。その直後、電線に網が襲いかかった。 間一髪、俺とユラは空高く上昇する。
「何なんだ?あれは。なぜ人間が我々を襲う?」
ユラは困惑していた。
「人間だからさ」 俺は吐き捨てるように言い、地上の男を見下ろした。それから、ユラの方を見る。 「ユラ、お前に話さなきゃならないことがある」
俺はあたりを見回し、少し飛んで高い建物の屋根の上に舞い降りた。
「話とは何だい?」
ユラが俺の隣にとまる。 俺はそっと息を吐いた。 言わなければならない。 今ので、分かった。 ユラに逃げるように言わなければ、その身が狙われていることを警告しなければ。 もし言わずにユラが捕まれば、俺はもう一羽ではなくなるかもしれない。だが、一生、罪悪感にさいなまれながら生きていくことになる。
「お前は人間に狙われているんだよ、ユラ。研究所の人間だ。研究所っていったってお前には何か分からないかもしれないが……とにかく危険な人間なんだ。だからここを去れ、もっと遠くの地に逃げるんだ」
「……なぜ私だけが?君も逃げるんだろう?」
ユラが問うた。黒い瞳がまっすぐ俺を射抜いてくる。
「俺はもう……捕まっちまってるから。逃げられないんだ」
俺は無理に明るく言った。 ユラの表情が固くなる。
「捕まっている?だが君は今、自由にしているじゃないか」
俺は目印として人工の輪がつけられた片足を上げた。
ユラの目が、それに吸い寄せられるように動く。
「これは……?」
「俺は今、人間の所有物なんだよ。体もいろいろいじくられて、人間が都合よく使える道具に変えられちまった。まあ、詳しい構造は知らないんだけどな。決められた行動圏内を超えたら、自爆するようになっているんだ」
ユラの表情がすっと冷えた。
「人間が君にそんなことを?」
人間から餌をもらうこともあったユラには信じられないかもしれないな。そう思い、さらに説明しようとすると、いきなりユラが声をあげた。
「ならば私がその人間を許さない」
ユラの瞳には激情がたぎっていた。 俺は穏やかなユラが怒るところを初めて見た。その瞬間、ユラとは反対に、俺の胸はふっと軽くなった。ユラが代わりに怒ってくれることで、なぜか少しだけ救われた気がした。
ユラと顔を合わせるのが嫌だった。すでに鳥ですらなくなったのかもしれない自分を、ユラの前にさらすのが嫌だった。そして同情されたくなかった。 だが、ユラの反応は俺の予想外だった。 その時、俺は自分が共に人間に対して憎しみと怒りをぶつけてくれる相手を求めていたのだと知った。
しかし、ユラの次の言葉に、俺は動揺した。
「その人間はどこにいる?私にでも、そいつの目を潰すことくらいはできるかもしれない。さっきの人間か?」
俺は確かに元宮を憎んでいた。しかし、元宮に危害を加えようと思ったことはなかった。 自分では大したことはできないと思っていたのか。それとも、俺の憎しみは自分が思うより大きくなかったのか。
「いや、いいんだ。お前は何もしなくていい」
俺はかろうじてそう言った。
「なぜ?君は許せるのか?」
怒りの気配だけが、なお消えず、ユラの瞳に残っていた 。
「違う。ただ、そいつは俺にどんな罰でも与えられるからさ。お前がその人間を傷つけたら、俺にとばっちりが来るだろ」
ここは何としてもユラを踏みとどまらせなくては。そして一刻も早く逃げて、研究所には近づかないように促さなくては。
しかし、ユラはまだ納得がいかないようだった。
「もう、どこか遠くの地へ行ってつがいでも作れよ。俺なんかにかまってないで、どこか遠くへ」
俺はいたたまれなくなって言った。
「私は逃げないよ。少なくとも、この地を離れるつもりはない。一緒に、なんとか逃げ出す方法を考えよう」
無理だ。俺は心の中でつぶやいた。 そのときふと、稲生のことを思い出す。 俺にもまだ、切り札は残されているのかもしれない。
「お前はとにかくこの地を離れろ。それに、俺にだって打つ手がないわけじゃない。自由になれるかもしれない方法があるんだ。でも、もしお前が捕まったら、それも実行できなくなるかもしれないだろ」 というより、お前が無駄に実験体にされただけになっちまう。
「方法が、本当にあるのか」
ユラが静かに問うてくる。
「あるに決まってるだろ。俺だって無策なわけじゃない」
俺はそっとユラにその方法を耳打ちした。
「上手くいくのか?」
「俺を信じろって」
軽い口調で言う。長い沈黙が俺とユラの間に流れた。
「……分かった」
ついにユラがうなずいた。
「冬になったら戻ってくる」それから彼は付け足した。「その時には君が自由になれていると信じている」
ユラが静かな羽音をたてて空に舞い上がる。俺は遠ざかる背中が見えなくなるまで屋根の上にたたずんでいた。
空は朱色に染まり、 夕陽に照らされた街路樹の影が長く伸びていた。
「……実験体!はやく研究所に戻れ」
いきなり声が割り込んでくる。 今度はすぐ近くから聞こえた。
屋根の上から見下ろすと建物の下に元宮が立っていた。
位置情報とかいうもので、俺の居場所をあぶり出したらしい。
「全くお前は心配性だな。先に帰って待っといてやるよ」
俺は屋根から飛び上がり、さっさと元宮を置いていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます