第11話 眠り姫が選ぶのは
お茶の席にイヴリンとロイスが残された。
周囲には侍女と騎士が数人残っていたが、会話の邪魔にならないようにという配慮か、少し離れた場所で待機してくれている。
正面から改めて見た彼は、長くて鬱陶しそうだった前髪を切り揃え、後ろに流している。
前髪の影に隠れていた蒼は、思いのほか明るい色だったのだと知った。
改めて向かい合っても恋人同士だったときの感情が湧くことはない。
過保護な生活の理由も、何も明かさなかった理由も理解したが、これから一人の男性として好きになるのかもわからない。
淡い憧憬が大きな熱量へ変化する想像ができないのだ。
かつてのイヴリンと、今のイヴリンは違うのだから。
「ロイスさんは本当に、私の恋人だったんですか?」
「本当だよ。今の君にとっては遠縁の人でしかなかっただろうけれど。
サルキア殿下の証言だけでは信じられないようなら、他の同級生達も証言してくれるだろうし、私の親も君に会っているので証言できる」
そうですか、と言葉を返して下を向く。
今日のお茶はルイーザ王太后が好んで飲む茶葉ではなく、ロイスの家で飲み慣れた淡い飲み口の茶葉だった。
わざわざ使ってほしいと持ち込んだのかもしれないし、ルイーザ王太后が気遣って用意してくれたのかもしれない。
淡いクリーム色に染まるミルクティーの水面が、一瞬拭いた強い風に僅かに揺れる。
「もしかして記憶に無い私は、いつもお茶に砂糖とミルクを入れていたとか?」
どうだろうか、と返したロイスが、カップの持ち手を撫でた。
一緒に暮らしていてわかる、答えたくない時の仕草だ。
「ロイスが翻訳家として働いているのは、記憶に無い私との約束を守るためですか?」
時が止まったかのような数秒の後、沈黙を破ってロイスが口を開いた。
「平民になるなら得意なものをと選んだ結果だよ。
イヴリンとの出会いは図書室で、私も彼女も本が好きだった」
その語る中に、目の前に座るイヴリンはいない。
ロイスが『君』ではなく『彼女』と呼ぶイヴリンは別物だ。
「そんな顔をしないでほしい。
今の君が、かつてのイヴリンと同じだと思っていない」
ロイスはそう言ってから、切なそうに笑う。
今日のロイスは沢山喋る。
「君が目覚めてから色々なことが急に起きて、急にどうしたいかと聞かれても、選ぶことができずに困っているのではないかと思う」
かつての彼が静かだったのか、今のようによく喋っていたのか、全く覚えていないのが苦しかった。
「君には明るい未来があった。
もし君が望むならば、再度学ぶことだって可能だ」
テーブルに置かれたのは、他国の言語で書かれた書類だ。
「この国の学園に通うことは難しいが、他国では経済的事情から遅れて入学する者を受け入れてくれる学園がある。
言語については僕が教えよう。君ならすぐに習得できるはずだ。
王家もウィスクリフ家も援助を惜しまないので、金銭的な不安も考えなくていい」
事務的に語るロイスに、彼は何もかも受け入れたのかと思う。
奪われた未来も、失われた恋人の抜け殻も、世の中のあらゆる不条理を。
だから、イヴリンの手を簡単に離してしまえるのかもしれない。
どうして。
言うつもりのなかった言葉は、けれどロイスにはちゃんと伝わったようだった。
「今の君は僕の好きだったイヴリンではないけど、それでも君は君だから。
いつだって僕は、イヴリンが幸せになる道を望むよ」
「どうして」
言葉と一緒に、涙が零れた。
「どうして、ロイスさんは許せるんですか。
沢山のものを失ったのに、怒らないんですか」
「怒ったよ」
返された言葉の意外さに、思わずロイスを凝視してしまう。
「イヴリンは知らないだろうけど、僕は怒ると存外手が付けられないんだ。
全部許せなくて、聖女トーカを処刑するよう嘆願書だって提出した。
サルキア殿下にだって頭を何度も下げさせた」
でもね、と続ける声は優し気なのに、どこか渇いているかのよう。
「何をしたって、君が戻ることはない。
君は僕を忘れ、いつか目を覚ました時には新しい人生を始めて、あの時と違う人々に出会って成長し、新しい未来を選択する」
ロイスの手がカップから離れ、イヴリンを真っ直ぐ見る。
その顔は大人の男性のものだった。
イヴリンがずっと見られるはずだった温かな笑み。
「イヴリン、過去に縛られず、どうか前を見て、今の自分にある気持ちのままに生きてほしい。
それが僕の願いだ」
君はどうしたい、と聞かれて何と答えようかと考える。
許されるのならば、もう一度勉強したい。
叶えられるのならば、図書館で仕事をしたい。
同時にその願いを叶えようとするならば、もう結婚は出来ないだろうとも思う。
再び五年間学ぶとなれば、イヴリンは23歳だ。
語学を学んでからならば、もっと後。
既に適齢期を過ぎた歳から仕事を始めたら、どこかの後妻になることだって無理で、一人で生きていくしかない。
だからといって、ロイスに縋りたいわけじゃない。
聖女トーカの目的がイヴリンの人生を潰すつもりであったならば、その目的はしっかり果たせただろう。
目の前にあったお茶を一息に飲めば、まだ冷めきらない温度に思わず咽る。
視界に刺繍の入ったハンカチが現れて、涙目になったイヴリンの目元にそっと当てられた。
「君を見ていると、やっぱりイヴリンだなって思うよ。
今の君に教えてあげると、学園に入った時の私達はそこまで仲が良くなくてね、読んだ本の感想が食い違っては、よく口論になったものだった」
小さな笑い声。
ロイスが片手で隠すので口元が見えなかったが、思い出し笑いをしているようだった。
「君は感情的で、そして僕は理屈っぽかったからね。
君が本の感想を語る度にハンカチを用意しなければいけなくて、当時はハンカチの予備をもっていたほどだ」
イヴリンにハンカチを持たせたロイスが、ポケットから新しいハンカチを出す。
「わざわざ替えのハンカチを用意する理由を君に聞かれて、死にそうな気持になったけど」
なんて鈍感な。
イヴリンは呆れそうになり、けれど呆れる相手が自分自身だと気づき、羞恥に顔が熱くなるのを止められなかった。
「君は僕と一緒だった彼女とは違うけれど、君の行動一つ一つがイヴリンを思い出させるよ」
「……ロイスさんは、過去の私が好きだったんですね」
思い出には勝てない。
同じイヴリンならば、長く一緒だった彼女の方がいいに決まっている。
ロイスが待っていたのは、同じ学園時代を過ごしたイヴリンなのだから。
けれど、彼はイヴリンを見てから、首を横に振った。
「確かにイヴリンを愛している。彼女は僕の青春だった。
でも今の君だって、昔の君と同じくらい好きに決まっているだろう」
息が止まって、心臓が早鐘を打ち鳴らす。
知ってから、いつだって比較した。
どうしたって勝てないと思った相手が、イヴリン自身であることに絶望した。
それなのにロイスは、ことも容易く一緒だと言いのけるのだ。
「君はイヴリンだ。
君に説明するために分ける必要はあったけれど、僕の中でイヴリンは一人だけだよ」
これじゃあ自分が馬鹿みたいじゃないかと笑いそうになり、ちゃんと向き合わないからだと反省する。
背筋を正してロイスを見た。
「ロイスさんのことを、前と同じくらい好きになるかはわからない」
「そうだね。あの時の君でも僕でもない。
関係は大きく変わったし、年齢差だってある」
ロイスさんの声はあやすようで、訳もなく胸が苦しくて、イヴリンの眦に涙が浮かび上がった。
「でも、前よりも好きになれるかもしれない」
「それは嬉しいな」
イヴリンが手を伸ばせば、しっかりとした男性の手が重ねられた。
「わ、私、ロイスさんの家に帰りたい」
「そうか。なら、君のお父さんにもう一度殴られにいくよ」
少しだけ手に力が入ったのは、殴られた時のことを思い出したからかもしれない。
イヴリンの父親は力持ちだ。
「ロイスさんが倒れそう」
「大丈夫、君のお父さんは以前だって手加減はしてくれていたから」
少しの間を置いてから、多分という言葉が追加されたので、ロイスは手加減したなんて思っていないのがよくわかる。
「君の願いは沢山あると思う。
できれば、少しでも多くの願いが叶うように、皆で相談しよう」
視界にいるはずのロイスは、滲んで輪郭を留めていない。
それでも彼が笑っているのがわかる。
三ヵ月の間、一緒に暮らしているだけでわかることもあるのだ。
答えを返すように、イヴリンは繋いだ手に力を込めた。
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