その向日葵のもたげる先は

かんたけ

その向日葵のもたげる先は

 古ぼけた列車が、向日葵のトンネルに入った。

 瞬きをする暇もなく、ワッと鮮やかな黄色が窓を突き破り、ノコギリのような葉が開け放たれた窓枠に寄りかかる。都会の向日葵がこうも強くはないことを、あおいは最近になって知った。

 ギラギラした太陽の熱が車内に籠って蒸し暑い。運転車両を含めて一車両しかないこの列車が、都会のものに比べてずんぐりして見えるのも最近知った。いつ掃除しているかも分からない燻んだ赤い座席と、出入り口付近に置かれた木箱に入った、差出人不明のスイカや溶けたアイスが不気味に佇んでいる。近くに貯金箱があるので無人販売なのだが、以前買って全員で食当たりを起こしてからは買わなくなった。

「葵ー、向太こうたー、その尻尾くれー」

 第二ボタンまで開けたワイシャツを乱暴に仰ぎながら、当然のように朝日あさひが言う。彼は葵と向太の持っている冷凍たい焼きを交互に見ては、物欲しげに唇を尖らせた。彼の短い茶髪からは、いつもうるさいくらい制汗剤の匂いがする。

 「仕方ないな…」と、彼の隣に座っていた向太がたい焼きの尻尾を捥ぐと、朝日は「ざっすざっす」と一口でそれを頬張り、葵に向かって「ん」と右手を差し出しので、彼女も尻尾を千切りその手のひらに乗せる。朝日はそれも一口で飲み込んで笑った。

「やっぱただ食いが最高だわ」

「乞食め」

「死んでくれねえかな」

「ふはは」

 葵と向太が口々に眉を寄せるも、朝日はどこ吹く風だ。この一連の流れが物心ついた頃からの日常茶飯事だと言うと、大抵の人は驚く。この間も友達に呆れられたところだ。

 葵は尻尾のなくなった冷たいたい焼きを頬張る。近くのコンビニで買ったそれは、表面は完全に緩いが中身はまだ凍っていた。朝日のやつ、溶けたてほやほやの美味しい部分だけを持っていったな。

 下の方でお団子にした髪が少し崩れ、向日葵の隙間から入った赤い日差しがジリジリと頸を焼いた。日焼け止めを塗ったばかりの肌に、汗がぬるりと流れていく。

「松田のやつ、この暑い中小テストなんぞ出しよってぇ…。俺全然解けんかったわ」

「ギリ解けた」

「あんなん、授業受けてりゃ分かるわ」

「「うっそでぇ…」」

 澄まし顔でたい焼きを食んだ向太に、葵と朝日が揃って笑う。口角を引き攣らせる愛想笑いに似た笑い方はそっくりで、向太はふはっと笑った。その顔に、「おっ」と葵は思う。背中にかかるほど長い髪を前髪ごと上の方でお団子にしている向太は、笑顔がよく映える。見つめ過ぎたのか目が合い、葵はさりげなく逸らした。

 この、「うっそでぇ」とか「〜だったわ」のような言葉は所詮造語で、三人の間でしか通じない。

 朝日越しに葵まで見た向太は、人よりも大きな目を一文字に細め、口元を緩く真横に引いた。ニッという音が聞こえてきそうだった。

「今度教えたるよ。あれやんな、グラフんとこ分からんかったろ」

 そういうとこだよ、と葵は思う。噛み終えたたい焼きの甘さが痛いほど舌に残った。

「神ぃ。これで赤点ギリセーだわ俺」

「ありがたや〜」

「拝むな、拝むな」

 向太が隣にいた朝日の頬をつねって引っ張る。同身長の彼らならではの戯れ合いだ。「タイムタイムー!」と若干涙目になりながら体を傾けた朝日から、不意に向太は顔を逸らす。朝日の首元が視界に入ったからだ。葵の頸には目もくれずに…というか今朝食いついたのは朝日の方で、それも思春期男子特有のものというよりも、「アンタまたそんな髪型やって…」と苦言を呈す近所のおばちゃんのような反応をされた。

 列車の端の席に座る葵、彼女の左隣に朝日、その隣に向太。昔からずっと変わらない。

「そや、明日松田が小テストやったら全面0で埋めたろかな」

「なんやそれ」

 高校デビューだと染めて結局プリンになった朝日の髪が照りついて、黒い向太の髪に触れる。葵は気づかないふりをしてスマホを取り出す。

 開いた画面には読みかけのボーイズラブ漫画があり、ちょうど主人公がヒーローに壁ドンをされているところだった。

 放課後の夕日の差す、階段の踊り場。『お前しかいないんだ!』と真摯に叫ぶカッコいいヒーローにときめく、男性にしては線の丸い主人公。葵は値踏みする気持ちでそれをスクロールする。

 正直言って、ボーイズラブは苦手だ。気持ち悪いとすら思う。それでも読んでいるのは、いつかこの画面を彼がチラ見でもしてくれればいいなと言う淺ましさ故だ。私は貴方の味方だと言いたかった。だから葵はBLが嫌いだ。この漫画も、他の漫画も、小説も、アニメも、それを持て囃し生産する腐女子、腐男子と呼ばれる連中も、全て葵の敵でしかない。叶うなら、概念ごとこの世から無くなって欲しかった。

 のし、と左肩に重みと制汗剤の匂いが来る。

「男と男…? あ、えるじーびーてぃーってやつ?」

 お前じゃないんだよ、と葵は思った。首を傾げる朝日を押しのけて、彼女は頷く。向太の方は見ない。どう思われているのか非常に気になるが、今見たら理解のある女アピールしているみたいで気持ち悪い。実際、やっているのだけれど。

「好きなん? それ」

 朝日が画面を指差す。悪意のない純粋な好奇心は、ありがたいけれど憎くもあった。

 その質問は悪手だ。だてに幼馴染をやっていないので、大抵の嘘はすぐにバレる。ここで肯定して嘘だと気づかれたら、それこそ向太の信用を失ってしまうし、聞いてきた朝日もなんて反応すればいいか分からなくなるだろう。数秒の間に頭を回し、葵はなんとか回答を捻り出した。

「……たまに読むよ。男女のやつとは違った面白さがあると思う」

「ふーん。…え、もしかして俺らでもそういうコト…」

「現実とフィクションを混合する馬鹿は流刑でいい」

「ふは、嘘、嘘。ジョークよジョーク。な、向太」

「…別に」

 向太はそっぽを向いた。気まずい空気に、朝日は「んだよ…」とぶつくされる。けれど、しばらくするとまたパッと笑顔を取り戻し、今日あった事だとか、可愛い女の子がいたとかを話し出す。相槌を打っている内に、いつものテンポに戻ってきた。

 花のトンネルはまだ抜けていない。黄色い世界が一気に灰色に塗り替えられ、ぬるい気配が一層強くなる。カランコロン、と音がして、頬に水滴がへばりつく。

 溢れないよう水を張ったバケツが倒れるように、大雨が降り出した。

「うっひゃー雨じゃあ!」

 大仰に騒ぐ朝日をチョップし、立ち上がった向太がこちらまでやってくる。彼は鞄からジャージを取り出すと、葵の頭に被せた。お昼に食べたらしい焼きそばの匂いと、強い向太の匂いがした。

「濡れっからな」

「…ありがとう」

 そう言うところだよ、と葵は再び思う。鞄にしまった自分の体操着のことを隠して顔を上げると、再び視界が覆われる。朝日だった。

「俺んもやるよ。重かったし」

「はいはいあんがと」

「向太と反応違くね!?」

 二人分のジャージは正直蒸し暑いが、濡れるよりはましだとキツめに被る。実家のような安心感が身を包み、葵は背もたれに寄りかかった。

「…そういや、前もこんなことあったな」

「前って?」

 尋ねる向太に、朝日は顰めっ面で宙を睨む。

「んー確か、こんくらいちっさかった頃…」と親指と人差し指の間をキューと狭める彼に、向太は「ちっさすぎだろ」と突っ込んだ。

「二人は覚えとらん?」

「どうやっけ」

「覚えとらん」

 首を横に振る葵だったが、嘘だ。本当は覚えている。

 その日も土砂降りの雨が降っていた。数時間前までは快晴で、不気味なくらいに草木が茂る山に、幼かった葵は朝日と二人で足を踏み入れる。洸太の誕生日プレゼントのキノコを採るためだった。

「あん時なー、山ん中で迷ったんよな二人して」

 「な」と朝日がこちらを見やる。

「そだっけ」

「そーそー。俺がピーギャー泣いてさ、葵に『川探してんだから黙ってて!』って怒鳴られてさー」

「うそ、そんな事言ってたん私」

 それは覚えていなかった。素直に謝ると、朝日は「いーのいーの」と手を軽く振る。その奥で、向太が自身の顎に親指と人差し指を当てて懐かしそうに虚空を眺めた。

「あれかー。大変だったなぁ、あん時。三人しかいない町の子供が二人も行方不明になったんで、大人達みんなおおわらわで。しかも雨降ってっし」

「途中から降り始めたんよな」

「あー、なんか思い出してきたかも」

 適当に言って嘘を帳消しする。あの時、両手にキノコを抱えた葵たちは、崖近くの帰路を歩いていた。山の木々には大人たちが目印として赤い蛍光色のリボンを巻いてくれているので、道には迷わないはずだった。

「帰りん途中で、朝日が滑って崖下に落ちたんよ。私はそれに巻き込まれて一緒にズドン」

「うっわお前何やってん」

「悪かったって何度も言っとんやん」

 幸い腐葉土がクッションになって怪我はしなかったが、帰り道が分からなくなるわ、朝日は泣いてて使い物にならないわ、採取したキノコは全部落とすわで、気分は最悪。泣きじゃくる朝日の手を引いて、葵は枝葉の重なる大きな木の下で雨宿りをしていた。

 いつ熊が出るか、大人たちが探しに来てくれるか、向太の誕生日プレゼントを用意できるか、兎に角色んな不安に押しつぶされそうで、誤魔化すために朝日を抱きしめた。朝日は朝日で震えていたし、焼け石に水のようなものではあったが。

 喉はとっくに乾いていた。雨水は飲むなと言われていたから飲めなかった。そうして何がいつ来るかも分からない恐怖の中で数時間が経過した時、ガサガサ、と草木をかき分ける音がして、咄嗟に朝日の口を押さえた。熊や猪かと思ったからだ。足音は次第に近くなる。朝日の怯えが抱きしめた体越しに伝わる。音は次第に息継ぎをしなくなり、一層大きくなった。

 ガサガサガサガサガサガサガサガサ。

 ギラリと光が翻る。雨空にしてはやたら眩いそれがこちらを向いてーーーー向太だった。

 レインコートを着て、懐中電灯をこちらに向ける彼がいた。

「サツとか消防団とかも総出で山ん中探し回ってな、俺は家にいろって言われてたんやけど、ま、行くわなそりゃ。で、お前らを見つけたと」

「そだったね」

「あん時のお前ぇ、カッコよかったなぁ」

 葵の気持ちを代弁した朝日の頬を、向太は「るっせ」とつねる。照れ隠し。葵は見て見ぬ振りをした。

 あの日を境に、気づけば葵は向太を目で追っていた。笑った顔、困った顔、怒った顔、照れた顔、そいう大袈裟な物ばかりでなく、何かを探している時に片目を少し窄めるところだとか、嫌いだと豪語する干し柿をたまに食べては苦い顔をしているところだとか、そういう些細な事がやけに頭にこびりついて、離れなかった。

 だから、向太が朝日に特別な感情を向けていることにも気づけたのかもしれない。

 決定打は川遊びをした時だった。向太が、水着とパーカーを着た葵ではなく、ガバッと豪快にTシャツを脱ぎ捨ててパンツ一丁で川に飛び込んだ朝日の、その水を被った体から目を逸らしたのを見て、葵は確信してしまった。実を言うと、それらしいことは何度もあって、例えば向太が朝日に向ける視線に、時折切なさや罪悪感に似た湿っぽさが滲んでいたり、朝日が恋愛の話をすると少し言葉に詰まったり。三人一緒に育った幼馴染ではあるけれど、きっと葵が向太を見ている時よりも、向太が朝日を見ていた時間のほうが長いのだろう。

 事実を突きつけられるたび、葵はどうしようもない気持ちに駆られた。

「でもあん時さ、どっちもカッコよかったよな。向太も、葵も」

「私?」

 顔を上げる。長く一緒にいると仕草も移るようで、朝日は向太そっくりに目を細めていた。

「ん。あん時葵さ、俺にパーカーくれたろ? 手ぇも引っ張ってくれて、こうガシッと抱きしめてくれてな。俺すっげえ安心したんよ」

 曇天に押し縮められた背筋を伸ばして、「俺にとっちゃ、二人は太陽よ」と、朝日は笑う。「んな大袈裟な」と向太は呆れた顔をして、葵も眉尻を下げる。

「いんや大袈裟やない! 葵はポカポカの太陽で、向太はキラッとしとる太陽よ! …俺ん手ぇ引いてくれてさ、見つけてくれた時から、ずっとそうよ」

 そう言って、彼は向太と葵を引き寄せて肩を組み、思いっきり体重をかける。彼のワイシャツはすっかり雨が染みて、所々インナーの黒や肌色が透けて見えた。向太の顔も近い。目は合わない。彼はいつも、朝日を見ているから。

 無邪気に笑った朝日の顔に、葵は「あっついわ」とデコピンを食らわす。

 だからBLは嫌いだ。朝日を見ていたら、向太の眼差しを見ていたら、葵に勝ち目なんてないように思えるから。それでも彼女は向太が好きで、向太の視線に気づかない朝日に説教したくなりながら、やっぱり気づかんでよろしい! と豪語したくなる。

「葵と向太に恋人できたらさ、デートん時全身全霊でバックダンサーしたるわ! 上手いよ俺」

「なにその新手のフラッシュモブ」

「葵ん時は俺も混ざったるよ。二人で彼氏見定めたるわ」

「増えたし…保護者だし…」

 朝日に肩を組まれたまま、がっくりと項垂れる。被った二枚のジャージの隙間から、二人の笑顔とそこに差し込む一筋の光を見た。

「おー上がったなぁ!」

 変な訛りの妙なイントネーションで、朝日が体を捻って窓から身を乗り出す。彼が伸ばした手の向こうに、爛々と花弁を広げて空を仰ぐ向日葵の花があった。

 ワッと視界に飛び込む黄色。そのまま、凍てつく冬の白銀や、柔らかな春の桜色や、眩い秋の紅葉や、茹だる夏の緑が朝日と向太の前を通り過ぎる。小さい頃は葵が一番背が高かったのに、いつの間にか追い越されてしまったらしい。彼らのジャージは葵のものよりも数段大きかった。

 ノコギリみたいな葉が顔を掠めて、葵は片目を瞑る。視界が半分になっても、二人は変わらずそこにいた。

 見開かれた眼差しの、拗れた思いが透き通る。

 雨の最後の一呼吸が吹いたその瞬間。

 今も過去も未来も忘れ、葵はただ一瞬に浸った。

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