後編
ある日の午後。
龍之介は書類に目を通しながらも、心は上の空だった。
頭の片隅には、先日の美術館での《星月夜》が居座り続けている。
直子の言葉――「同じ矢に射られた感じがしたの」――が耳の奥にこびりついて離れない。
「……そういえば、直子が今度は“漫画を語りたい”って言ってたな」
思い出し、口元が緩む。だが、そのとき電話が鳴った。
お得意先である、美術品蒐集家の社長からだった。
「いつもお世話になっております」
社長が、機嫌良く切り出す。
「龍之介くん、今度ぜひ紹介したい女性がいるんだ。年齢も近いし、趣味も合うはずだ。どうだね?」
一瞬、直子の顔がよぎるも、お得意様の勧めを断るわけにはいかない。
「......そうですね、是非お願いします」
渋々ながらも、龍之介は後日、その女性と会うことになった。
◇
待ち合わせのカフェに現れた女性は、まさに「洗練」という言葉が似合う人物だった。
艶やかな髪、無駄のない所作。ブランド物のバッグや靴も嫌味がなく、上品に馴染んでいる。
「はじめまして。真由子といいます」
その微笑みは完璧なバランスで保たれ、会話も淀みなく進んだ。
「芸術は洗練されてこそ価値があると思います」
「ええ。未熟な作品は結局、大衆を惑わせるだけですから」
「わかります。映画もそうですね。娯楽に逃げると、すぐ安っぽくなる」
「同感です。真の芸術は、時間を超えて残りますから」
龍之介は頷きながらも、どこか落ち着かない気持ちを覚えていた。
話が噛み合うのは心地よい。価値観も似ている。
だが――胸の奥には、不思議な空洞が広がっていく。
(……あれ?)
龍之介はふと気づいた。
この会話は、確かに“噛み合う”。けれど、そこに熱も鼓動もない。
まるで鏡と話してるような......
その瞬間、直子と過ごした時間がフラッシュバックする。
居酒屋で激しく言葉をぶつけ合った夜。
映画館で「心が動いた」と真顔で言い切った直子。
《星月夜》の前で、矢に射られたようだと語った自分。
そうだ、自分も、この目の前の女性も、直子も、“穴の空いた存在”なんだ。
直子と過ごした日々、あのとき、自分の“穴”は確かに塞がっていた。
穴の塞がった自分という器に、知らないうちに温かい何かが注がれていく感覚があった。
だが今、目の前にいる真由子は違う。
彼女は美しい器だ。けれど、その底にも、同じ場所に穴が空いている。
同じ穴を重ねても、隙間は埋まらない。
注がれた水は、ただただ下に落ちるだけ......
――満たされるのは、直子といるときだけだ。
龍之介は静かに息をつき、コーヒーを口に運んだ。
味は確かに洗練されていたが、不思議なほど何も残らなかった。
ふと、真由子が微笑みながら口を開いた。
「なにか、答えが出たって顔をしてるわ……。言わなくてもわかる、あなた、恋をしてるのよ」
真由子は、氷が溶ける音のようにさらりと言った。
その声音には、嫉妬も執着もなく、ただ観察する者の冷静さがあった。
龍之介は一瞬、言葉を失い、視線を伏せた。
「……すみません、少し考え込んでしまいました」
「いいえ。表情を見ればわかります」
真由子はカップを置き、微笑んだ。
「私も同じだから。鏡を見るようにわかるの。私の隣にあるべき人は、きっとあなたじゃない」
「……鏡、ですか」
「ええ。私もあなたも、器としては完璧に磨かれているつもり。でも、底にぽっかり穴が空いている。だから重ねても、何も満たされない」
まるで自分の心を読まれてるようだった。
龍之介は返す言葉を探したが、胸の奥ではすでに答えが響いていた。
彼女の言う通りだ。
そして、その穴を塞ぐのは、目の前の「鏡」ではなく――直子しかいない。
真由子は小さく肩をすくめ、最後にこう告げた。
「その人を、大事にしてね」
◇
休日の午後。
龍之介は、駅前のカフェで直子を待っていた。
グラスの氷が小さく音を立てるたびに、昨日の真由子との会話が脳裏をよぎる。
――「その人を、大事にしてね」
社長から紹介されたあの女性。
自分と同じ「洗練」を掲げた彼女の言葉は、鏡に映った自分と話すようだった。
話が合うだけで、なにも満たされなかった。
同じ穴を抱えた者同士は、塞ぎ合えないのだと痛感した。
「……遅いな」
呟いたその瞬間、勢いよくドアが開いた。
「お待たせ!」
直子が駆け込んできた。
いつものスニーカーに、ラフなワンピース。
場違いなほど飾らない姿に、龍之介は思わず笑ってしまった。
「また走ってきたのか」
「電車が遅れてさ。まあ、私らしいってやつ?」
肩をすくめて笑う直子に、怒る気はまるで起きない。
コーヒーを頼み、二人は向かい合う。
龍之介は切り出した。
「この前、ある人に言われたんだ」
「ん?」
「俺みたいな人間は、器としては磨かれていても、底に穴が空いている。だから、同じような人間と並んでも、何も満たされない」
直子はストローをくるくる回しながら、じっと耳を傾けていた。
「でもな……お前と一緒にいるときは違った。
居酒屋で言い合ってるときも、映画館で噛み合わなかったときも。
不思議と、その穴が塞がって、満たされていく気がしたんだ」
照れ隠しのように目を背ける。
言葉にするのは、どうにも気恥ずかしい。
直子は少し目を見開いたあと、くすっと笑った。
「アンタさ、そういうの真顔で言うとこ、ほんとずるい」
「……そうか?」
「うん。でもね、わかる気がする。
私も、アンタの“面倒くさい理屈”に救われてるときあるから」
「救い?」
「私なんて雑でしょ? 記事も安っぽいグルメレポばっかで、締め切りに追われても適当だし。
でも、アンタは“最高の料理はこうあるべきだ”って、真剣に語る。
ああいう芯がある人が隣にいるとね、私も負けないように、ちょっと真っすぐになるのよ」
「あなたの“穴の空いた器”みたいに綺麗な例えは浮かばないけど、私達は正反対だからこそ、お互い惹かれ合うのかもね」
話の途中から、直子も目を背けていた。それだけで飾りのない言葉だと感じ取れる。
「ほら、星月夜とエルドランの封印の話!
あの2つの作品、絵画と映画、テーマも表現方法も何もかも違うけど、それぞれ誰かの心の穴を塞いでいたんだわ」
龍之介は伏せた目で語る。
「俺はいつからか、自分が心を打たれた“洗練された芸術”こそ至高と捉え、大衆性は芸術性を損なわせる毒だと考えるようになっていた。
でも、直子と会って考えが変わった。
全ての美術作品、いや、美術作品だけじゃない。
料理も、音楽も、小説も、人が勝手に定めた芸術性とは関係なく、誰かの心の穴を塞いでたんだ。
そこに優劣なんてあるわけなかった」
直子は静かに聞いていた。
「直子……」
声が震えたのを自覚した。
「なによ」
「俺は――やっぱり、お前と一緒にいたい」
直子はわざとらしく鼻をかき、頬を赤くした。
「……アンタ、ほんとに面倒くさい。でも、嬉しい」
二人は視線を交わし、同時に笑った。
笑い声が重なる。
違う拍子の音符が、次第に同じリズムを刻んでいくように。
◇
玉という字には、優れて美しいもの。貴いものという意味がある。
歪な僕らは、ぶつかり合って、少しずつ丸くなる。
欠けた器同士だけれど、互いに塞ぎ合えば、いつでも水を注げる。
そして二人はまた、次の休日の喧嘩を約束した。
The Picky One 野梅惣作 @Noume8083
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