後編

ある日の午後。


龍之介は書類に目を通しながらも、心は上の空だった。

頭の片隅には、先日の美術館での《星月夜》が居座り続けている。

直子の言葉――「同じ矢に射られた感じがしたの」――が耳の奥にこびりついて離れない。


「……そういえば、直子が今度は“漫画を語りたい”って言ってたな」

思い出し、口元が緩む。だが、そのとき電話が鳴った。


お得意先である、美術品蒐集家の社長からだった。


「いつもお世話になっております」


社長が、機嫌良く切り出す。


「龍之介くん、今度ぜひ紹介したい女性がいるんだ。年齢も近いし、趣味も合うはずだ。どうだね?」


一瞬、直子の顔がよぎるも、お得意様の勧めを断るわけにはいかない。


「......そうですね、是非お願いします」


渋々ながらも、龍之介は後日、その女性と会うことになった。



待ち合わせのカフェに現れた女性は、まさに「洗練」という言葉が似合う人物だった。

艶やかな髪、無駄のない所作。ブランド物のバッグや靴も嫌味がなく、上品に馴染んでいる。


「はじめまして。真由子といいます」


その微笑みは完璧なバランスで保たれ、会話も淀みなく進んだ。


「芸術は洗練されてこそ価値があると思います」

「ええ。未熟な作品は結局、大衆を惑わせるだけですから」

「わかります。映画もそうですね。娯楽に逃げると、すぐ安っぽくなる」

「同感です。真の芸術は、時間を超えて残りますから」


龍之介は頷きながらも、どこか落ち着かない気持ちを覚えていた。

話が噛み合うのは心地よい。価値観も似ている。

だが――胸の奥には、不思議な空洞が広がっていく。


(……あれ?)


龍之介はふと気づいた。

この会話は、確かに“噛み合う”。けれど、そこに熱も鼓動もない。

まるで鏡と話してるような......


その瞬間、直子と過ごした時間がフラッシュバックする。

居酒屋で激しく言葉をぶつけ合った夜。

映画館で「心が動いた」と真顔で言い切った直子。

《星月夜》の前で、矢に射られたようだと語った自分。


そうだ、自分も、この目の前の女性も、直子も、“穴の空いた存在”なんだ。


直子と過ごした日々、あのとき、自分の“穴”は確かに塞がっていた。

穴の塞がった自分という器に、知らないうちに温かい何かが注がれていく感覚があった。


だが今、目の前にいる真由子は違う。

彼女は美しい器だ。けれど、その底にも、同じ場所に穴が空いている。

同じ穴を重ねても、隙間は埋まらない。

注がれた水は、ただただ下に落ちるだけ......


――満たされるのは、直子といるときだけだ。


龍之介は静かに息をつき、コーヒーを口に運んだ。

味は確かに洗練されていたが、不思議なほど何も残らなかった。


ふと、真由子が微笑みながら口を開いた。


「なにか、答えが出たって顔をしてるわ……。言わなくてもわかる、あなた、恋をしてるのよ」


真由子は、氷が溶ける音のようにさらりと言った。

その声音には、嫉妬も執着もなく、ただ観察する者の冷静さがあった。


龍之介は一瞬、言葉を失い、視線を伏せた。

「……すみません、少し考え込んでしまいました」


「いいえ。表情を見ればわかります」

真由子はカップを置き、微笑んだ。

「私も同じだから。鏡を見るようにわかるの。私の隣にあるべき人は、きっとあなたじゃない」


「……鏡、ですか」


「ええ。私もあなたも、器としては完璧に磨かれているつもり。でも、底にぽっかり穴が空いている。だから重ねても、何も満たされない」


まるで自分の心を読まれてるようだった。

龍之介は返す言葉を探したが、胸の奥ではすでに答えが響いていた。

彼女の言う通りだ。

そして、その穴を塞ぐのは、目の前の「鏡」ではなく――直子しかいない。


真由子は小さく肩をすくめ、最後にこう告げた。


「その人を、大事にしてね」



休日の午後。

龍之介は、駅前のカフェで直子を待っていた。

グラスの氷が小さく音を立てるたびに、昨日の真由子との会話が脳裏をよぎる。


――「その人を、大事にしてね」


社長から紹介されたあの女性。

自分と同じ「洗練」を掲げた彼女の言葉は、鏡に映った自分と話すようだった。

話が合うだけで、なにも満たされなかった。

同じ穴を抱えた者同士は、塞ぎ合えないのだと痛感した。


「……遅いな」

呟いたその瞬間、勢いよくドアが開いた。


「お待たせ!」

直子が駆け込んできた。

いつものスニーカーに、ラフなワンピース。

場違いなほど飾らない姿に、龍之介は思わず笑ってしまった。


「また走ってきたのか」

「電車が遅れてさ。まあ、私らしいってやつ?」

肩をすくめて笑う直子に、怒る気はまるで起きない。


コーヒーを頼み、二人は向かい合う。

龍之介は切り出した。


「この前、ある人に言われたんだ」

「ん?」

「俺みたいな人間は、器としては磨かれていても、底に穴が空いている。だから、同じような人間と並んでも、何も満たされない」


直子はストローをくるくる回しながら、じっと耳を傾けていた。


「でもな……お前と一緒にいるときは違った。

居酒屋で言い合ってるときも、映画館で噛み合わなかったときも。

不思議と、その穴が塞がって、満たされていく気がしたんだ」


照れ隠しのように目を背ける。

言葉にするのは、どうにも気恥ずかしい。


直子は少し目を見開いたあと、くすっと笑った。


「アンタさ、そういうの真顔で言うとこ、ほんとずるい」


「……そうか?」


「うん。でもね、わかる気がする。

私も、アンタの“面倒くさい理屈”に救われてるときあるから」


「救い?」


「私なんて雑でしょ? 記事も安っぽいグルメレポばっかで、締め切りに追われても適当だし。

でも、アンタは“最高の料理はこうあるべきだ”って、真剣に語る。

ああいう芯がある人が隣にいるとね、私も負けないように、ちょっと真っすぐになるのよ」


「あなたの“穴の空いた器”みたいに綺麗な例えは浮かばないけど、私達は正反対だからこそ、お互い惹かれ合うのかもね」


話の途中から、直子も目を背けていた。それだけで飾りのない言葉だと感じ取れる。


「ほら、星月夜とエルドランの封印の話!

あの2つの作品、絵画と映画、テーマも表現方法も何もかも違うけど、それぞれ誰かの心の穴を塞いでいたんだわ」


龍之介は伏せた目で語る。


「俺はいつからか、自分が心を打たれた“洗練された芸術”こそ至高と捉え、大衆性は芸術性を損なわせる毒だと考えるようになっていた。

でも、直子と会って考えが変わった。

全ての美術作品、いや、美術作品だけじゃない。

料理も、音楽も、小説も、人が勝手に定めた芸術性とは関係なく、誰かの心の穴を塞いでたんだ。

そこに優劣なんてあるわけなかった」


直子は静かに聞いていた。


「直子……」

声が震えたのを自覚した。


「なによ」


「俺は――やっぱり、お前と一緒にいたい」


直子はわざとらしく鼻をかき、頬を赤くした。


「……アンタ、ほんとに面倒くさい。でも、嬉しい」


二人は視線を交わし、同時に笑った。

笑い声が重なる。

違う拍子の音符が、次第に同じリズムを刻んでいくように。



玉という字には、優れて美しいもの。貴いものという意味がある。


歪な僕らは、ぶつかり合って、少しずつ丸くなる。

欠けた器同士だけれど、互いに塞ぎ合えば、いつでも水を注げる。


そして二人はまた、次の休日の喧嘩を約束した。

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The Picky One 野梅惣作 @Noume8083

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