第4話 長いお迎えをマチナガラ

「はじめまして。今日が初めて⁉︎」

「そうなんだ。私も今日来たの。色々わからないことばかりで。」

「おうちはどちら?わたしはこの近く。息子がいてね。多分もう迎えにくるころだと思うのよ。」

「どうしても息抜きしてこいっていうもんだから、来てはみたけど、皆さんにご迷惑をかけるのもね。だったら、家で1人でいた方がいいかななんて。」

「そうなの。だってわたし1人で今までやってきたわけだから。買い物も行けるし、階段も上がれるし、転ぶからやめて下さいって、嫁にはよく怒られるんだけどね。」

「でもいい嫁なのよ。気は強いし、なんだか難しい仕事してるから帰りは遅くて、ご飯作る暇がないぐらい。息子より遅い時もあって、そういう時は私がご飯作るんだけど。でも、それやると返って機嫌悪くなっちゃって。私には言わないんだけどね。よく下で喧嘩してるみたい。

でもね、息子にはあのぐらいが1番なんだと思ってるのよ。本当に。」

「ご近所さんも、綺麗でいいお嫁さんねーって。もう私の自慢の嫁。」

「息子はあんまり嫁に心配かけるなっていうけどね。かけてるつもりはないんだけど、あの子も優しいから。」

「大袈裟なのよ。だって歩けるのにこんなに乗せられて。トイレに行きたくたって、連れてってもらわなきゃならないでしょ。ここでもさっきそうだったのよ。ふたりががりで抱えられて、1人で大丈夫ですって言っても、危ないですからって言われて、返って申し訳なくて。」

「あなたはトイレ行かなくて大丈夫?私はそろそろ帰るから、行っとかなきゃなんだけど。お先に行っても大丈夫かしら。ごめんなさいね。お食事中なのに。うちの息子せっかちで、待ってくれないもんだから。ほんとに。じゃあ行ってくるわね。あなたはゆっくりしてて。会ったばかりでもうお別れだけど、あなたも元気になさってね、ここはいい所よ。皆さん優しいし、ご飯も出てくるし、お風呂も入れてくれるのよ。本当いいとこ。

私には勿体無いぐらい。でもそんな贅沢私にはいらないから、なので来たばっかりだけど、お断りすることにしたの。お友達になれそうで、残念だけど。」

「私実はね、商店街の組合の役員をしてるもんだから。帰ったらやんなきゃなんない事がいっぱいあって。会計だの、もうお祭りの準備もしなきゃなんなくて。多分連絡つかないって心配してると思うのよ。ほら、家には誰も今いないわけだから。携帯も置いてきちゃったみたいで、歳とると、忘れっぽくて困るわ。でも、あなたの事は忘れないから、良かったら今度うちに遊びに来て。駅まで迎えに行くから。友達が来るって言ったら又心配するだろうから、嫁には見つからないように、こっそりお迎えにいきますから。」

「あ。そこの私の鞄、タオルが入ってるそれ。誰かが、そのカゴに間違って他の人のタオル入れたらしくて。昨日から右手が痛くて、上がらないもんだから、出すこともできなくて。いいわ。そのまま持って帰るから。後で息子にタオルだけ返してもらえばいいわよね。家近いんだし。そうだわ。うん。それできっと大丈夫。」


その人はこの会話を毎日繰り返して、もう数年が経つ。そこに相槌があっても無くても、例え聞こえなくても見えなくても、

彼女の中でその会話だけは、一寸の狂いもない時計のように進んでいく。

そこにきっと、彼女自身も答えを求めてはいない。


動くことのない右手を胸に抱き、今も左手だけでブレーキを外し、車椅子の向きを変えようとしているその人は、数年前、彼女の嫁と言われる人と共にここに現れた。

淡々と手続きが進むその中で、その人は嫁の隣に座り、一言も発することなくただ、窓の外を見ていた。

手続きが終わると、嫁と言われる人は私たちに頭を下げ、静かに出て行った。残していくその人に、ただの一度も目を向けることはなく。そしてその人は今ここにいる。

その会話を耳にするたびに、あの時その人が言えなかった全てを、伝えたいと言ってるように私には聞こえる。

あの時言いたかったのに、叫びたかったのに、泣きたかったのに…と。

その日を最後に、嫁は再びここを訪れる事はなかった。

そしてその人の愛する一人息子は、その数ヶ月前、彼女自身がその最後を看取っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

介護贖のススメ 林檎飴 @tigastar1627

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ