そしてあの子は帰って来なかった
間川 レイ
第1話
1.
イナーシャ(始動機)を回す腕の抵抗がどんどん軽くなっていくとともに、キュイイイイインという甲高いエンジン音が徐々に大きくなっていく。そろそろいいだろう。私は一つ頷くと、風防ガラス越しのコックピットにいるタエちゃんに「コンタクト!」と叫ぶ。イナーシャを引き抜きつつ飛び退くのも忘れない。
それを確認したタエちゃんはグッと親指を立てると、とたんプロペラがブロロロロと言う爆音と共に猛烈な勢いで回り出した。エンジン音に耳を澄ます。特に異音はない。機体をみても、見る限り異常振動なども無さそうだ。
タエちゃんが操縦桿を動かすのに合わせて、フラップがピコピコと動く。こちらも異常なさそうだ。私は手をグルグルと勢いよく回し、全ての準備が整った事を伝える。
タエちゃんはそれに一つ頷くと、「チョーク外せ!」と叫ぶ。その号令に従い私は紐を引っ張りチョーク(車輪止め)を外す。
タエちゃんの乗った零戦21型がゆっくりと滑走路に向かっていく。既に上空では即応待機していた先輩がたが編隊を組み、勢いよく敵爆撃機の迎撃に向かって行くのが見える。防空警報は未だに鳴り響いている。すぐにでも私も防空壕に入らないと危ないだろう。
それでも、私はゆっくりと飛び上がっていくタエちゃんの機体の背中を見送らずにはいられなかった。だってタエちゃんは今となっては私に残された唯一の友達だから。そして私は祈るのだ。どうか、神様。タエちゃんを今日も無事に帰らせて下さいと。
2.
私も、タエちゃんもこの基地に来てから長い訳では無い。精々が3ヶ月かそこらといった所だろう。その前は勤労奉仕として三菱の飛行機工場でお勤めをしていたし、そのもっと前はちょっとした女学校に通っていた、ただの女学生だった。
だから、本当はこんな風に兵隊さんに混じって戦っているだなんて何かの間違いでは無いのか、なんて思ってしまう。勿論陛下のおんため、いかなる努力でもするつもりではあったけれど、精々予想していたのは看護師か、もしくは斬込隊ぐらい。まさか飛行機に乗って戦ったり、その整備兵になるなんて思っても見なかった。
それが変わったのが大体今から1ヶ月ほど前。ラジオや新聞で聞く沖縄の戦いがいよいよ激しさをまし、毎日の空襲もどんどん厳しくなってきて、憲兵さんや先生がたの言う本土決戦が間近と言うのも本当みたいだなあと、決意をあらたにしていた時の頃。私たちの働く飛行機工場に、色とりどりの略綬と、キラキラの参謀モールをぶら下げ、片手に黒手袋をはめた中佐さんがやって来てからだった。
サイドカー付きのバイクでやって杖をついていた中佐さんは言っていた。いよいよ沖縄戦は佳境を迎え、本土決戦も間近に迫ってきた。敵は遠路はるばる攻め入ってくるわけであるから、本土に辿り着く頃には疲労困憊、撃退は容易である。だが撃退のためには諸君らの自主的な協力も重要となる。そこで我々は諸君らが、より前線でその他の将兵と共に、陛下のおんために働ける機会を用意した。志願するものは居ないかと。
私たちは一斉に前に出た。より陛下のおんために働けるとは何たる光栄、何たる名誉。それに何より、私たちの祖国が、神州日本が危機にあるのだ。志願しないわけが無かった。なのに。なのに中佐さんがやけに険しい顔をしているのが印象的だった。
それから私たちは簡単な試験を受け、適性があると判断された職種に振り分けられた。タエちゃんは戦闘機の飛行士、私は整備兵と言う決定だった。正直、私も飛行士になりたくなかったかと言われれば嘘になる。私の大切な友達であるタエちゃんだけを戦わせて、私は後方で安穏としている事には耐えられなかった。
それでも決定は下されたのだ。私は私の任された分野を頑張ろうと思った。なにより、私の大切な友達のタエちゃんが、整備兵さんもとても立派なお仕事だと思うよ、と言ってくれたのだ。その期待を裏切らないように、頑張ろうと思っていた。
今から思えば、正直、私は戦争とは何なのかを全く理解していなかったんだと思う。まるで御伽噺や報道映画に出てくる戦いみたいに、キラキラしてロマンティックなものを想像していたのだ。だけど、本当の戦争はそんな生易しいものでは無かった。本当の戦争とは、私が思っていたよりはるかに過酷なものだったのだ。
3.
私は、私たちは、直ぐに自分たちの認識が甘かったことを知った。軍隊とは、戦争とは、私たちが予測していたよりはるかに「ハード」な環境だった。まず軍隊とは非常に泥臭い。私たちがいざと言う時に逃げ込み、また普段の寝起きする場となる防空壕や待避壕などは、全て自分たちで掘らなければならなかった。まだまだ冷え込みが激しい時期にも関わらず、汗だくになったのをよく覚えている。また殿方とは違い、気軽に袖をめくり肌を見せる訳にも行かず、また湯浴みなどもここが軍事施設である以上滅多に出来ず、泥だらけの自分たちに閉口したのを覚えている。
また、軍隊では本当によく殴られた。毛布のたたみ方が悪いと殴られ、報告の時の姿勢が悪いと殴られ、飲み込みが悪いと殴られた。そこに私たちが女子であるとかいう配慮は一切なかった。むしろ、女子であることを特権に思うなと余分に殴られた節まである。また、度々卑猥な言葉を投げかけられた。私たちは随分違う世界に来てしまったのだ、と感じたことをよく覚えている。
ただ、まあ、そうした事は正直どうでもいい。何せ、国難の時にあるのだ。私たちの多少のつらさなど、本職の兵隊さんに比べれば些細なものだ。タエちゃんなぞ、これも一つの経験よと笑っていた。再び平和を取り戻した時に書く小説のネタになるわ、と。叶わないなあ、何て思ったものだ。
本当に辛かったことは、朝顔を合わせた人間が夕には物言わぬ屍になっている今の現状だ。御機嫌よう、と朝声をかけた友達が、その数時間後には空襲で防空壕ごと木っ端微塵になったときなど言葉が出なかった。
いってらっしゃい、と帽をふって見送った友達の機体が、穴だらけの血塗れになって帰って来たことなど何度もあった。ろくな医薬品などない現状、痛い、死にたくないと泣く友達の声が次第に小さくなって冷たくなっていくのをただ見守ることしか出来なかった。それどころか、出発したっきり帰って来なかった友達だって何人もいる。
整備兵として入った友達も大勢が空襲と機銃掃射で死んだ。私たちと一緒の時期にこの基地に来た子で生きているのはタエちゃんと私だけだ。だから私は何時だって祈っている。どうか神さま、タエちゃんだけは無事にお返しください、と。
4.
東京方面でずっと断続的に鳴り響いていた、重い爆発音と地響きも収まり。暫くして空襲警報が解除されるや否や勢いよく防空壕から飛び出す。そこは相変わらず散々たる有様だった。いくつかの防空壕は木っ端微塵に粉砕され、滑走路も少なからず大穴が空いていた。生き残った者達で遺体を運び出し、ブルドーザーで穴を埋める。
ようやく滑走路が使用できるぐらいになったころ、夕陽を背景に迎撃に上がっていた戦闘機隊が一機、2機と帰ってくる。その中には黒煙を吹き上げるもの、よろよろとふらつきつつ帰ってくるものもある。血塗れになった飛行士を操縦席から引っ張り出し、知り合いと思しき整備兵が顔を青ざめさせるのを傍目に、私はあの子の帰りを待つ。
そして、間もなく日も沈むと言う頃合になって、ようやくあの子は帰ってきた。見る限り大した損傷もなく、しっかりした飛び方で。無事着陸に成功し、掩蔽壕に引き込む。風防ガラスがガラリと開き、ややよろめく足取りでタエちゃんが降りてきた。
私は駆け寄りタエちゃんを力いっぱい抱きしめる。飛行服の金具がゴツゴツとして痛いが構うものか。そしてタエちゃんの体をまさぐりつつ負傷がないことを確かめる。どうやら今日もタエちゃんは無事に帰って来られたらしい。良かった、と私は溜息を一つ。サッちゃんは心配し過ぎだよ、と硝煙の香りを漂わせつつ僅かにほほ笑むタエちゃんが眩しくて、思わず目をそらす。
今日も1機も墜とせなかったよ、と悲しげに呟くタエちゃんに私は何も言えぬまま、とりあえず背中をさすりつつ私たちの壕に戻る道すがら。
「おい、谷口。」
コツコツと杖が地を打つ音と共に、突然、低い声が響く。振り返れば、いつぞやかの中佐さんこと我らが中佐、保坂中佐が立っていた。いつものように色とりどりの略綬を輝かせ、背筋を伸ばした姿だが、夕陽に照らされた彼の顔には、深い疲労の影が刻まれている。中佐は一瞬、杖に体重を預け、目を閉じた。まるでこれから言う言葉を飲み込むかのように。黒手袋をはめた手が、ぎゅっと杖を握り込むのが見えた。誰か嘯いていた。中佐もかつて零戦のエースだったが、ある作戦で部下や教え子を全員失い、自らも傷を負ったのだと。その後、いつものように鋭い声で
「話がある。着いてこい。」
短く言い放ち、司令部壕へずんずんと歩き出す。
ふと、中佐が一瞬振り返り、私と目が合う。彼の目は、歴戦の戦闘機乗りと言われた鋭さを失い、どこか虚ろで、まるで重い荷物を背負っているようだった。「斎藤、谷口の命を預かる仕事だ。怠るなよ。」その声はいつもより低く、微かに震えていた。私はその言葉の重さに、胸が締め付けられる思いだった。タエちゃんが「また後でね」と囁き、中佐の背を追う。その背中に、どことなく不吉なものを感じた。
5.
「何でよ!!!」
と私の怒声が私たちの壕の中に響く。本来であれば煩い、と怒るべき分隊長も、気をきかしてくれたのか今はいない。だが、そんなことどうでもよかった。
「どうしてよ!!!」
再度私の怒声が響き渡る。だけど、タエちゃんは困った様な顔をして微笑むばかりで何も言わない。その悟ったような顔が気に食わなくて。だから、私は叫ぶ。
「どうして、タエちゃんが特攻なんかしなきゃいけないのよ!」
「特攻なんか、なんて言わないで欲しいな。」
そう返すタエちゃんの声は酷く落ち着いている。それが無性に癇にさわって。
「特攻なんかって言って何が悪いのよ!あなた分かってるの?! 特攻したら生きて帰れないのよ?! 何で命を捨てろって命令されているのに落ち着いていられるのよ!」
だけど。
「落ち着いて。また殴られるよ。」
ふんわりと柔らかな感触が私の顔面を包む。抱きしめられたのだ、と気づいた時にはゆっくりと私の頭は撫でられていた。真っ暗になった視界の中でタエちゃんの声だけが響く。
「敵の重爆撃機ってさ、とても強いんだよね。」
そんなことをポツポツと語りだしたタエちゃんに、とりあえず離れようともがくのをやめて耳を傾ける。
「速くて、硬くて、重火力。私の機体じゃ近づくことさえ困難だし、近づけたとしても、全弾命中させた所でビクともしない。敵の機体はね、もうマトモな方法で落とすことなんて出来ないの。」
そんなことを静かに言うタエちゃん。確かに敵の機体が強力なのはただの整備兵に過ぎない私にもわかる。真っ当な手段では撃墜は難しく、それがタエちゃんの乗るような若干旧式化した機体なら尚更。でもだからってタエちゃんが特攻なんかしなくても、他の人に任せればいいじゃない!私たちは正規の兵隊さんじゃないのよ?!そう言おうとして、見上げたタエちゃんは。ハラハラと涙を零して泣いていた。今まで見た事のないぐらい暗い目をして、ハラハラと。
「私じゃないとダメなの。」
と。他の人ならまだ普通の手段による撃墜も可能かもしれない。だけど、志願したばかりのひよっこで、機体も旧式の自分が撃墜できる可能性はどこにもない。だから私がやらないとダメなの、そう涙を零して言うタエちゃんに思わず黙り込む。
「それにね」
と。タエちゃんはほんのり微笑みながら言った。どこまでも暗い暗い目をしながら。
「私はもう、疲れちゃったんだ」
と。自分が撃墜出来なかったあまり、爆弾がみすみす投下されるのを何度もみた。自分が撃墜出来なかったあまり、東京が火の海になるのをただ見ていることしか出来なかった。
「だから、私が殺したようなもんだよ」
そう、儚く自嘲するタエちゃんは、とても危うげに見えて。そんな事ないよ、とありきたりな言葉をかけることしか出来なかった。
「違わないよ!」
今度はタエちゃんの怒声が響く番だった。涙の混じった叫び声に、思わず背筋が震える。それを違うように捉えたのか、「怒鳴ってごめんね…」と謝ってくるタエちゃん。私は大丈夫だよ、と返しつつ私は悟った。
私にはタエちゃんを止められない。タエちゃんはもう、生きるのを諦めている。生きるのを辞めたがっている。だから私の言葉はもう、届かない。きっと、この話をするのが遅すぎたのだ。タエちゃんはもう、止まれない。
短くない付き合いの私にはそれがよく分かった。だから私は。
「…じゃあ、好きにしなよ。」
私はそれだけ言ってタエちゃんを振りほどく。そしてそのまま壕をでていく。これ以上顔を合わせていたら、きっとお互い傷つくだけだから。涙に滲む視界で空をみあげる。空は憎いぐらいの満天の星空だった。
「謝んないでよ…」
思わず呟く。壕を出る前にかけられた、「ごめんね。」と言う言葉が耳に張り付いて離れなかった。
6.
翌日の朝食は、特に会話もなく終わってしまった。話したいことはまだまだ沢山あるのに、何故だか喉元で詰まったように言葉が出てこない。それが無性に悔しくて、思わず涙が零れる。すっ、と涙が拭われる感触。見れば、タエちゃんがハンカチで私の涙を拭ってくれていた。
「泣かないで、サッちゃん。」
そう微笑むタエちゃん。無理だよ、と首を振る。最期だと言うのに涙が止まらない。本当はせめて、笑顔で送り出してあげたいのに。最後にみせた顔が泣き顔なんて情けなさすぎる。そう思っているのに、涙は止まってくれなくて。思わず俯いてしまう。
背中に手を回される感覚。ギュッと優しく締め付ける両腕の感覚が心地よい。
「サッちゃんが泣き虫なのは変わらないね」
そう苦笑するタエちゃんの言葉に、もう我慢できなかった。ボロボロと涙が溢れる。離れたくない、死んで欲しくない。後から後から言葉が溢れてくる。一緒に逃げよう。逃げて、一緒に亡くなった方の弔いをしよう。お願いだから、私を置いていかないで。そんなことまで言ってしまった。最後の最期まで私は自分のことばっかりだ。タエちゃんの気持ちを知りながら。そう内心自嘲する。ああ、きっと嫌われただろうな。そう考え、やがて飛んでくるだろう罵声に身をすくめ
頭をポンポンと撫でられた。思わず私より高い位置にある顔をみあげる。
「私は怒らないよ」
タエちゃんはほえんでいた。それだけ私を思ってくれるのは嬉しいよ、と。
「昨日言いそびれたことがあるの」
とタエちゃんは言う。確かに、生きるのが嫌になったから、これしか方法がないから特攻命令を受けた部分はあると。
「でもね、1番大きいのはサッちゃんを、みんなを守りたいからだよ。」
そう微笑んでタエちゃんは言った。1機敵の重爆撃機を逃せば、その分大勢が死ぬ。それはサッちゃんかもしれないし、はたまた自分の知ってる人かもしれない。それが私には耐えられないのだと。
「私は、私にできる方法で守りたい人を助けたいんだ」
そういうタエちゃんは、どこまでもどこまでも無邪気に微笑んでいて。
私は思わず抱きしめ返す。タエちゃんの温かい体温と、心臓の鼓動を感じる。タエちゃんからは、とても優しい香りがした。
「ごめん。そしてありがとう。」
私は呟く。これは私の本心だった。ああ、どうか神さま。こんな優しいタエちゃんの魂が、どうか救われますように。そう思って私はタエちゃんを強く抱き締める。タエちゃんは優しく私の髪を撫でると、ふっ、と微笑んで
「それは私のセリフだよ。」
といった。
刹那、警報が鳴りだした。壁に着けたスピーカーが、「警報、警報、彼我不明機およそ100富士山方面へと向かう。搭乗員は…」と騒ぎ始める。
出撃の時間だった。
7.
いつものようにイナーシャを回し、「コンタクト!」の合図と共に飛び退く。勢いよくプロペラが回り始める。異常なし。かつてないほど快調そうだった。フラップも異常なし。勢いよく手を回す。
ふと、風防ガラス越しにタエちゃんと目が合った。タエちゃんは微笑んでいた。私は勢いよく敬礼してみせる。私は、今笑えているだろうか。
おだやかに敬礼を返してくれたタエちゃんが風防ガラスを閉める。チョーク外せの号令。素早くチョークを引き抜く。
タエちゃんの乗った零戦はゆっくりと滑走路へと進み出した。皆が手を振っている。中佐も、顔見知りの整備兵達も。「しっかりやれよ」の声が飛び交う。
中佐の「帽ふれ、帽!」その声に合わせて一斉に帽子が打ち振られる。まるで沢山のひまわりが風に揺られるように。その声に押されるように、タエちゃんの零戦は勢いよく飛び出して行った。杖を軋むぐらい強く握りしめる中佐の側で、私はその姿が小さくなり、やがて見えなくなるまでずっと敬礼を崩さなかった。
そしてあの子は帰って来なかった 間川 レイ @tsuyomasu0418
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