記憶の運び屋

紡月 巳希

第十六章

残されたもの


「…大丈夫か?」

静寂が戻った喫茶店に、カイトの声が響いた。アオイは震える手で、テーブルの上の白いカップを掴む。先ほどの激しい光と、影が壁をすり抜けていく非現実的な光景は、まるで夢のようだった。

「…うん。カイトは、大丈夫?」

アオイは顔を上げ、カイトを見た。彼の表情はいつも通り穏やかだったが、その瞳の奥に、ほんの一瞬、深い悲しみが宿ったのをアオイは見逃さなかった。

「ああ、僕は大丈夫だよ」

カイトはそう言って、カウンターの奥から古びたノートを取り出した。それは、彼がいつも何かを書きつけているものだ。

「このノートは、僕の過去の記録だ。君の母親と僕が、どうやって出会い、そしてなぜこの喫茶店が生まれたのか、全てが書かれている」

彼はノートをアオイに差し出した。アオイはためらいながらもそれを受け取る。表紙には「メメント・モリ」と、母親の筆跡に似た文字が刻まれていた。

「君の母親は、君の記憶を蝕むノイズが、協会の手によるものだと気づき、それを食い止めるために僕に協力を求めたんだ。このノートには、僕たちが共に戦った記録と、協会の秘密、そして…君の記憶の真実が記されている」

カイトの言葉が、アオイの心臓を強く打った。今まで謎だった母親の行動、そして自分自身の記憶の断片が、一本の線で繋がっていくような気がした。

「じゃあ、お母さんは……」

「彼女は、君を愛していた。そして、君を守るために、全てをこのノートに託したんだ」

カイトはアオイの頭に優しく手を置いた。その温かい感触が、アオイの不安を少し和らげる。

「…僕の役目は、終わった。この先は、君自身の力で、全ての真実と向き合うんだ」

アオイはノートを胸に抱きしめた。それは、母親からの最後の贈り物であり、これから彼女が一人で歩み出すための、始まりの物語だった。

窓の外に、月明かりが差し込んでいる。雨は、もう降っていなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

記憶の運び屋 紡月 巳希 @miki_novel

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る