第19話

 その日、作業台に置かれたのはセイコーの古い機械式時計だった。

 大きな価値があるわけではない。だが、裏ぶたには小さく刻まれた名前があり、持ち主にとってはきっと大切な一本なのだとすぐにわかった。


 師匠は腕を組み、短く言った。

「やってみろ。最初から最後まで」


 颯真は頷き、ルーペを下ろす。工具を整え、時計をそっと固定した。


「まずは裏ぶただ。力を入れるな。均等に、指を合わせる」

「はい」


 カチリと音を立て、裏ぶたが外れる。

 複雑に組み合わさった歯車とゼンマイが現れ、金属の光がルーペ越しにきらめいた。


「次は針と文字盤だ。針を抜くときに角度を間違えると跡がつく。……いい、そうだ」


 師匠の声は普段よりよく響く。黙して語らずの人が、時計の話となると饒舌になる。


 颯真は震えを意識した。だが、集中するほどに震えは収まり、指先は驚くほど正確に動いた。

 針を抜き、文字盤を外し、一つひとつの歯車を外していく。


「その小さな歯車、落とすなよ。無くしたら二度と見つからん」

「大丈夫です。……はい、取れました」

「よし、上等だ」


 作業が進むにつれ、会話は細かくなる。

「油はここに一滴だけ。多すぎると逆に抵抗になる」

「はい、一滴」

「そうだ、その調子」


 緊張で肩がこわばるのを感じながらも、息を止めるタイミングと緩めるタイミングを体が覚えていく。


 清掃を終えた部品を、一つひとつ慎重に戻していく。

「その歯車は音を決める心臓だ。少しでもズレたら全体が狂う。……そう、正しい位置だ」


 最後のネジを締め、ゼンマイを巻く。

 一瞬の静寂のあと、秒針がゆっくりと、確かなリズムで動き始めた。


 師匠は時計を手に取り、耳に当ててしばらく黙った。

 やがて、低く短く言った。

「……いい音だ」


 颯真は思わず息を吐いた。

「ありがとうございます」


 師匠は口元にわずかに笑みを浮かべた。

「悪くない。いや——初めてにしては、ずいぶん上出来だ。お前、なかなか筋がいいな」


 普段の寡黙さからは想像できない、あたたかい言葉だった。

 颯真はただ深く頭を下げた。

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