第18話

 朝は豆を挽く音から始まる。

 ドリッパーの湯気が立ち上るあいだ、意識の端だけをそっと彼女へつなぐ。強く覗き込まない。歯磨きのように、ただの“日課”。


【状態:良好/軽度の疲労】

【余命:3年】


 数字はいつ見ても動かない。2年にも、2年11か月にもならない。

(……進んでいない、のか)

 良くしているわけではない。けれど悪くもならない。願いのような感覚で眺め続けるだけで、わずかに“留めている”のかもしれない——そんな考えがよぎる。


 コーヒーを一口。酸味と苦みのバランスに体が目を覚ます。

 大学へ向かい、講義に出る。病理のスライド、薬理の機序。板書は頭に収まり、疑問だけが付箋のように残る。図書館の静けさに身を置いて、欠けた線を引き直す。昼は専門書と教科書を追い、夜は短い散歩と運河沿いのデッキで一息つく。


 夕方は時計屋。シャッター半分の店に入れば、師匠は作業机から軽く視線を上げるだけだ。

 挨拶も最小限。互いに言葉を重ねるより、同じ作業台に肩を並べることで十分に通じ合う。

 ルーペを下ろし、歯車に向き合う。指先の震えと折り合いをつけ、ゆっくりと部品を収める。長く続ければ肩は固まるが、不思議と心は静まっていく。


 師匠が腰を伸ばす仕草をしたら、颯真はさりげなく声をかける。

「大丈夫ですか」

「……ああ」

 それ以上は互いに言葉を足さない。だが、その短い応答の中に、信頼が確かに滲んでいる。


 月に一、二度だけ、喫茶店へ寄る。豆を買い、カウンター越しに少しだけ会話を交わす。

「この前のハンカチ、使わせてもらってます」

「それは良かった」

 ほんの数言。それでも十分だ。彼女が元気そうであることを確認する。それが目的の大半だった。


 帰宅すれば、もう一度だけ“日課”。


【状態:良好】

【余命:3年】


 数字は今日も変わらない。

(良くはしていない。だが、悪くもしていない。今はそれで十分だ)


 止められるなら止め続ける。

 自分は学び、手を磨き、間に合う人間になる。


 静まった家の中で、明日の支度を整える。

 コーヒーの残り香がまだ漂うなか、ゆっくりと灯りを落とした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る