夢見の図書館

@Nisitsukiamane

本当の自分


 教室の窓から差し込む午後の陽射しが、机の上の文庫本を優しく照らしている。放課後の静寂に包まれた空間で、私は一人、物語の世界に浸っていた。


 佐藤蒼——それが私の名前。高校二年生になってもう半年が経つけれど、相変わらず「普通」の毎日を送っている。

 クラスメイトたちは放課後になると友達とおしゃべりしたり、部活に向かったりと忙しそうだ。

 私はといえば、いつものように図書室の隅で本を読んでいるか、家に帰って宿題をするかのどちらか。


「蒼ちゃん、また本読んでるの?」


 声をかけられて顔を上げると、同じクラスの田中さんが笑顔で立っていた。田中さんは明るくて社交的で、誰とでもすぐに仲良くなれる人だ。私とは正反対の存在。


「あ、はい……」


「今度みんなでカラオケ行くんだけど、一緒に来ない?きっと楽しいよ」


 田中さんの誘いは嬉しかった。でも同時に、不安も込み上げてくる。みんなでワイワイ騒ぐのは苦手だし、話題についていけるかも分からない。きっとまた、隅で黙っているだけになってしまう。


「ごめんなさい、今日は用事があって……」


 またいつもの答え。田中さんは少し残念そうな表情を見せたけれど、「そっか、また今度ね」と言って去っていった。


 一人になった教室で、私は小さくため息をついた。本当は行きたかった。みんなと一緒に笑って、普通の高校生らしいことをしてみたかった。でも、いざとなると足がすくんでしまう。


 ——私って、一体何なんだろう。


 いつからだろうか、そんなことを考えるようになったのは。小さい頃はもっと素直に、やりたいことをやりたいと言えていた気がする。

 でも気がつくと、周りの空気を読んで、無難な選択ばかりするようになっていた。


 本の中の主人公たちはみんな、自分の意志で行動している。勇敢だったり、優しかったり、時には失敗したりするけれど、それでも自分らしく生きている。私にも、そんな「自分らしさ」があるんだろうか。


 家に帰る道すがら、そんなことを考えていた。夕焼けに染まった住宅街を歩きながら、今日も結局何も変わらなかった一日について思いを巡らせる。


 家に着いて夕食を済ませ、宿題を終わらせた後、私はいつものようにベッドに本を持ち込んだ。今日選んだのは、森の奥に住む魔法使いの物語。ページをめくるたびに、現実の悩みが少しずつ薄れていく。


 気がつくと、まぶたが重くなっていた。本を胸の上に置いたまま、私は深い眠りに落ちていった。




 目が覚めたとき、私は見知らぬ場所にいた。


 高い天井に届くほどの本棚がずらりと並び、暖色の照明が柔らかく空間を包んでいる。古い木の香りと、少しかび臭いような紙の匂いが鼻をくすぐった。ここは……図書館?


 でも、いつもの図書室とは明らかに違う。本棚は果てしなく続いているように見えるし、天井は霞んでよく見えない。そして何より、空気そのものが不思議な重みを持っているような気がした。


「あら、新しい来客ね」


 振り返ると、白いブラウスに長いスカートを着た、上品な雰囲気の女性が立っていた。年齢は三十代くらいだろうか。柔らかな微笑みを浮かべている。


「あの、ここは……」


「夢見る図書館よ。深い眠りについた人だけが辿り着ける、特別な場所」


 夢見る図書館。その名前がすんなりと心に馴染んだ。そうか、これは夢なんだ。でも、触れるものすべてがあまりにもリアルで、単なる夢とは思えない。


「私はここの司書をしているエリザベス。あなたは?」


「佐藤蒼です……」


「蒼ね。素敵な名前。青い空のように、広がりのある名前だわ」


 エリザベスさんの言葉に、少し照れくさくなる。自分の名前をそんな風に言われたのは初めてだった。


「ここにある本はね、すべて特別なの。物語の登場人物たちが、実際に生きている本なのよ」


「生きている……本?」


「そう。彼らと話をすることもできるの。きっとあなたにも、会いたい人がいるでしょう?」


 会いたい人。頭に浮かんだのは、いつも読んでいる本の主人公たちだった。勇敢で、優しくて、自分の信念を貫く人たち。もし本当に会えるなら……。


「あの、本当に話せるんですか?」


「もちろん。でも一つだけ約束してほしいことがあるの。ここで学んだことは、現実の世界でも活かすこと。そうでないと、この図書館はあなたにとって意味のない場所になってしまうから」


 エリザベスさんの言葉に、私は真剣にうなずいた。


「それじゃあ、まずはこの本から読んでみない?」


 差し出されたのは、深い青色の表紙の本だった。タイトルは『勇者リオンの冒険』。読んだことのない本だけれど、なぜか懐かしい気持ちがした。


 ページを開くと、文字が光り始めた。そして次の瞬間——。




「うわあああああ!」


 突然の雄叫びと共に、茶色い髪の少年が本から飛び出してきた。慌てて本を取り落としそうになる。


「あ、すみません!驚かせてしまって」


 少年——リオンは申し訳なさそうに頭を下げた。見た目は私と同じくらいの年頃で、剣を背負い、緑色のマントを羽織っている。まさに物語の主人公といった風貌だ。


「い、いえ……本当に出てこられるんですね」


「ええ、この図書館では僕たちも自由に動き回れるんです。あなたが僕の本を開いてくれたから、お話しできるんですよ」


 リオンの笑顔は太陽のように明るかった。こんな風に屈託なく笑えるって、素敵だなと思う。


「僕、いつも思うんです。冒険って最高だなって。新しい場所に行って、新しい人に出会って、困難を乗り越えて……毎日が刺激的で楽しいんです」


「でも、怖くないんですか?危険なこともあるんでしょう?」


「もちろん怖いですよ。モンスターと戦うときなんて、正直足がすくむこともあります。でもね……」


 リオンは少し考えるような表情を見せた。


「怖くても、やりたいことがあるなら挑戦する価値があると思うんです。失敗しても、それはそれで貴重な経験になりますから」


 やりたいことがあるなら挑戦する。その言葉が心に引っかかった。


「あの、リオンさんは迷ったりしないんですか?自分が正しいことをしているのか分からなくなったり……」


「ありますよ、もちろん。特に仲間を危険に巻き込んでしまうときなんかは、本当にこれでいいのかって悩みます」


 意外な答えだった。リオンのような勇者でも悩むことがあるなんて。


「でも、そういうときは仲間に相談するんです。一人で抱え込まないで、みんなで考える。そうすると、きっと良い答えが見つかるから」


「仲間に……相談」


「あなたにも、相談できる人はいませんか?」


 田中さんの顔が浮かんだ。今日カラオケに誘ってくれた彼女なら、きっと私の話も聞いてくれるだろう。でも、こんな悩みを話しても理解してもらえるだろうか。


「難しく考えすぎですよ」リオンが優しく言った。「まずは小さなことから始めればいいんです。僕だって、最初は村の小さな問題を解決することから始めました」


「小さなことから……」


「そうです。あなたなりの小さな冒険から始めてみてください。きっと新しい世界が見えてきますよ」


 リオンの言葉に、何かが心の奥で動いたような気がした。小さな冒険。私にもできることがあるかもしれない。


「ありがとうございます、リオンさん」


「どういたしまして。またいつでも会いに来てくださいね」


 リオンは手を振りながら、本の中に戻っていった。ページを閉じると、心の中に温かいものが残った。


「どうだった?」


 エリザベスさんが微笑みながら近づいてきた。


「とても……勇気をもらいました」


「それは良かったわ。リオンは本当に真っ直ぐな子だから、きっとあなたの背中を押してくれると思っていたの」


 次に手に取ったのは、薄紫色の表紙の本だった。『魔法使いルナの日常』というタイトル。


「今度は誰に会えるんでしょう?」


「きっと、あなたが今必要としている人よ」


 ページを開くと、また光が溢れ出した。




 本から現れたのは、長い銀色の髪を持つ少女だった。魔法使いの帽子を被り、星が散りばめられたローブを着ている。年齢は私より少し下に見える。


「あ、こんにちは。私、ルナっていいます」


 ルナの声は鈴のように透明感があった。でも、どこか寂しそうな表情を浮かべている。


「私、佐藤蒼です。よろしくお願いします」


「蒼ちゃんですね。素敵な名前」


 ルナは本当に可愛らしかった。でも、その笑顔の奥に何か影があるような気がした。


「ルナさんは魔法使いなんですよね?どんな魔法を使われるんですか?」


「癒しの魔法です。傷ついた人や動物を治したり、悲しんでいる人の心を軽くしたり……」


「すごいですね。みんなに感謝されるでしょう?」


 しかし、ルナは首を振った。


「実は……あまり感謝されないんです」


「えっ?」


「癒しの魔法って、派手じゃないんです。戦いで活躍する攻撃魔法や、便利な生活魔法と違って、普段は目立たない。だから、みんな私のことを忘れがちなんです」


 ルナの言葉に、胸が痛んだ。目立たない、忘れられがち——それは私も感じていることだった。


「でも、癒しの魔法ってとても大切だと思います」


「蒼ちゃんは、そう言ってくれるんですね」


 ルナの表情が少し明るくなった。


「私、いつも思うんです。もっと目立つ魔法が使えたらいいのにって。みんなに注目されて、すごいねって言われたい」


「私もです」


 思わず口に出していた。


「私も、もっと目立つ人になりたいって思います。明るくて、面白くて、みんなの中心にいるような人に」


「でも、蒼ちゃんは今でも十分素敵だと思いますよ。私の話を真剣に聞いてくれて、共感してくれる。そういうのって、とても大切なことだと思います」


 ルナの言葉に、はっとした。確かに私は人の話を聞くのが得意だった。友達が悩みを相談してきたとき、いつも最後まで聞いてあげていた。でも、それを「自分の長所」だと考えたことはなかった。


「実はね」ルナが続けた。「最近気づいたことがあるんです。癒しの魔法は確かに地味だけれど、本当に困っているときに一番必要とされる魔法だって」


「本当に困っているとき……」


「戦いで傷ついたとき、心が折れそうになったとき、そんなときに癒しの魔法があると、みんなホッとするんです。『ああ、ルナがいてくれて良かった』って言ってくれる」


 ルナの表情が、先ほどよりもずっと明るくなっていた。


「私、決めたんです。もっと自分の魔法に誇りを持とうって。目立たなくても、私にしかできないことがあるなら、それでいいって」


「ルナさん……」


「蒼ちゃんにも、きっとそういうものがありますよ。人の話を聞くのが上手だったり、本をたくさん読んでいて物知りだったり。そういうの、すごく大切だと思います」


 ルナの言葉が胸に響いた。私にも、私にしかできないことがあるかもしれない。それは派手じゃないかもしれないけれど、誰かの役に立てることがあるかもしれない。


「ありがとうございます、ルナさん。なんだか、少し自信が持てそうです」


「良かった!今度は私の方が、蒼ちゃんに元気をもらいました」


 ルナは本当に嬉しそうに笑った。その笑顔を見ていると、私も自然と笑顔になった。


「また話しましょうね、蒼ちゃん」


「はい、ぜひ」


 ルナが本の中に戻った後、私は温かい気持ちに包まれていた。自分の良いところを認めてもらえたような気がして、心が軽やかだった。




 夢から覚めたのは、いつものように朝の光と共にだった。でも今日は違った。昨夜の図書館での体験が、夢とは思えないほどはっきりと記憶に残っている。


 リオンの「小さな冒険から始めればいい」という言葉と、ルナの「あなたにしかできないことがある」という言葉が、頭の中でこだましていた。


 学校に着くと、いつものように図書室に向かいかけた。でも、廊下で田中さんとすれ違ったとき、足が止まった。


「あ、蒼ちゃん。おはよう」


「おはようございます」


 いつもならそこで会話は終わりだった。でも今日は違う。


「あの……田中さん」


「なに?」


「昨日のカラオケの件なんですが……」


 心臓がドキドキしている。でも、リオンの言葉を思い出す。小さな冒険から始めればいい。


「もしまた機会があったら、今度は参加させてもらえませんか?」


 田中さんの顔がぱあっと明るくなった。


「本当に?やった!実は今度の土曜日にも予定してるんだけど、どうかな?」


「は、はい。お願いします」


「すごく嬉しい!みんなも喜ぶよ。蒼ちゃんって本をたくさん読んでるから、いろんなこと知ってそうだし」


 本をたくさん読んでいること——それをマイナスだと思っていたけれど、田中さんは良いこととして捉えてくれている。ルナの言葉を思い出した。私にしかできないことがある。


「ありがとうございます」


「こちらこそ!今から土曜日が楽しみ」


 田中さんと別れた後、私は小さくガッツポーズをした。人生初の小さな冒険の第一歩だった。


 その日の授業中、私はそわそわしていた。夜になって、また夢の図書館に行けるだろうかと考えていた。リオンやルナに、今日のことを報告したかった。


 家に帰って夕食を済ませ、宿題を終えた後、私は期待を込めてベッドに入った。目を閉じて、深い眠りに落ちていく。




「おかえりなさい、蒼」


 エリザベスさんの声で目を覚ました。やはり、ここは夢の図書館だった。


「昨日のアドバイスを活かせたみたいね」


「どうして分かるんですか?」


「あなたの表情が違うもの。昨日より生き生きしている」


 確かに、自分でも気持ちが軽やかになったのを感じていた。


「今日は誰に会いたい?」


 棚を見回していると、目を引く本があった。茶色い革の表紙で『発明家ガジェットの工房』というタイトル。なんとなく手に取ってみた。


 ページを開くと、今度は煙と共に人物が現れた。


「げほっ、げほっ。あー、また失敗だ」


 現れたのは、丸眼鏡をかけた痩せ型の青年だった。白衣は煤で汚れ、髪の毛も爆発したようにボサボサになっている。


「あ、お客さんですか。すみません、見苦しいところを」


 ガジェットと名乗った彼は、慌てて髪を整えようとした。


「実験中だったんですか?」


「ええ、新しい発明品を作ろうとしていたんですが……またうまくいきませんでした」


 ガジェットは苦笑いを浮かべた。


「いつもこんな調子なんです。周りからは『また失敗か』って言われるし、『普通の仕事に就いたら?』って忠告されることもあります」


「でも、発明を続けているんですね」


「ええ。だって、好きなんです。新しいものを作るのが。たとえ失敗しても、その過程で学ぶことがたくさんあるから」


 ガジェットの目が、語っているうちにキラキラと輝き始めた。


「周りの人は理解してくれないかもしれませんが、僕には僕のやり方があります。人と違っていても、それが僕らしさだと思うんです」


「人と違っていても……」


「そうです。みんなと同じである必要はないと思います。大切なのは、自分が何を大切にしているかじゃないでしょうか」


 ガジェットの言葉に、深く頷いた。私はいつも「普通」でいようとしていた。でも、本当は本を読むのが好きで、静かに過ごすのが心地よかった。それも一つの「自分らしさ」なんだろうか。


「あなたは何が好きなんですか?」


「本を読むことです。物語の世界に入り込むのが好きで……」


「それって素晴らしいことじゃないですか!僕なんて、本を読むのは苦手で。でも、あなたのような人がいるから、世界は豊かになるんです」


「そうでしょうか……」


「もちろんです。みんながみんな発明家だったら、誰も本を読まなくなってしまいます。逆にみんなが本好きだったら、新しい発明は生まれません。多様性こそが大切なんです」


 多様性。その言葉が心に響いた。


「僕は失敗ばかりしているけれど、それでも続けています。なぜなら、いつか必ず成功すると信じているから。あなたも、自分の好きなことを大切にしてください」


「ありがとうございます、ガジェットさん」


「いえいえ。僕の方こそ、話を聞いてもらえて嬉しかったです」


 ガジェットが本の中に戻った後、私は考え込んだ。みんなと同じである必要はない。自分らしさを大切にする——それがガジェットの教えてくれたことだった。



 土曜日がやってきた。カラオケの約束の日。朝から緊張していたけれど、図書館で出会った三人のことを思い出すと、少し勇気が湧いてきた。


 待ち合わせ場所に着くと、田中さんを含めて四人のクラスメイトが待っていた。みんな私を見て笑顔を見せてくれる。


「蒼ちゃん、来てくれて本当に嬉しい!」


「よろしくお願いします」


 カラオケボックスに入ると、みんなは楽しそうに歌い始めた。最初は聞いているだけだったけれど、田中さんが「蒼ちゃんも何か歌わない?」と声をかけてくれた。


「私、あまり歌は得意じゃなくて……」


「大丈夫だよ。みんなで楽しめればそれでいいから」


 リオンの言葉を思い出した。小さな冒険から始めればいい。私は意を決して、好きなアニメの主題歌を選んだ。


 歌い始めると、みんなが手拍子で応援してくれた。上手に歌えたとは思えないけれど、温かい気持ちになった。


「蒼ちゃんって、アニメ詳しいの?」と一人が聞いてきた。


「少しだけ……原作の小説を読むのが好きなんです」


「すごい!私、そのアニメ大好きだけど、原作読んだことない。今度貸して?」


「もちろんです」


 話が弾み始めた。私の読書の話に、みんなが興味深そうに耳を傾けてくれる。ルナの言葉通り、これも私の個性なんだということを実感した。


「蒼ちゃんって、普段静かだから何を考えているか分からなかったけど、こうして話してみるととても面白いね」


「そうそう、知識が豊富だし、話し方も優しいし」


 みんなの言葉に、胸が温かくなった。私は私のままでも、受け入れてもらえるんだ。


 帰り道、田中さんが歩きながら話しかけてきた。


「今日は本当に楽しかった。蒼ちゃんがいてくれて、話がもっと深くなった気がする」


「私の方こそ、誘ってくれてありがとうございました」


「今度は私も、蒼ちゃんおすすめの本を読んでみたいな。教えてくれる?」


「はい、ぜひ」


 家に帰ってから、私は鏡の前で自分の顔を見てみた。いつもより表情が明るく見える。今日一日で、確実に何かが変わったのを感じていた。


 その夜、また夢の図書館を訪れた。エリザベスさんは相変わらず優雅に微笑んでいる。


「今日はどんな一日だった?」


「とても楽しかったです。友達と過ごして、自分も受け入れてもらえるんだって分かりました」


「それは良かったわ。でも、まだ物語は終わりじゃない」


 エリザベスさんが指差した先に、新しい本が置かれていた。深い緑色の表紙で『賢者サムの図書館』というタイトル。


「最後に会うべき人がいるの」


 私はその本を手に取った。どんな出会いが待っているんだろう。




 本を開くと、穏やかな光に包まれた。現れたのは、白い髭を蓄えた老人だった。深い紺色のローブを着て、杖を持っている。まさに賢者という風貌。


「ようこそ、若き探求者よ。私はサムという」


「佐藤蒼です。よろしくお願いします」


「蒼か。青い空のような、広がりのある良い名だ」


 サムは図書館の椅子に座るよう促した。


「君はここで、多くの人に出会ったようだね」


「はい。リオンさんから勇気を、ルナさんから自分らしさの大切さを、ガジェットさんから多様性の価値を教えてもらいました」


「そして君は、それらを現実世界で実践した」


「まだ少しだけですが……」


「少しで十分だ。大きな変化も、小さな一歩から始まる」


 サムは深く頷いた。


「だが、君にはまだ一つ気づいていないことがある」


「気づいていないこと?」


「君は自分らしさを探していると言った。しかし、君はもうずっと前から自分らしく生きていたのだ」


「え?」


 サムの言葉に困惑した。私が自分らしく生きていた?


「君は本を愛し、静かに物語の世界に浸ることを好む。人の話に耳を傾け、相手の気持ちに寄り添うことができる。それらはすべて、君という人間の本質だ」


「でも、私は普通で、目立たなくて……」


「目立たないことが悪いことだと、誰が決めたのかね?」


 サムの問いに、答えられなかった。


「世の中には、太陽のように明るく輝く人もいれば、月のように静かに光を放つ人もいる。どちらも美しく、どちらも必要なのだ」


「月のように……」


「君の名前、蒼という字を見てみなさい。青い空。空は時に晴れ渡り、時に雲に覆われる。しかし、どんな時も空は空として存在している。君もそれと同じだ」


 サムの言葉が、心の奥深くに響いた。


「自分らしさとは、何か新しく見つけるものではない。既にある自分を受け入れ、それを大切にすることなのだ」


「受け入れる……」


「君は今まで、自分の良い部分を見ようとしていなかった。本を読むのが好きな自分を『地味』だと思い、静かな性格を『つまらない』と考えていた。しかし、それらはすべて君の魅力なのだ」


 涙がこぼれそうになった。ずっと欠点だと思っていたことを、魅力だと言ってくれる人がいる。


「君がここで出会った人々も、実は君の心の一部だった。リオンの勇気、ルナの優しさ、ガジェットの個性——それらは君が既に持っているものの現れなのだ」


「私の心の一部……」


「そうだ。君は勇気がないと思っているが、友達の誘いを受ける勇気を見せた。優しくないと思っているが、人の話に真摯に耳を傾ける優しさを持っている。個性がないと思っているが、本を通して得た豊かな知識という個性を持っている」


 サムの言葉一つ一つが、私の心を照らしていく。


「大切なのは、完璧な自分になることではない。今の自分を愛し、その上で少しずつ成長していくことだ」


「今の自分を愛する……」


「そうだ。君は十分に素晴らしい。そのままの君で、誰かの心を温めることができるのだから」


 長い間抱えていた重荷が、ふわりと軽くなったような気がした。


「ありがとうございます、サムさん。なんだか、やっと自分と仲直りできそうです」


「それが一番大切なことだ。自分と仲良くなれた人は、他の人ともきっと仲良くなれる」


 サムは優しく微笑んだ。


「さあ、もう時間のようだ。現実の世界で、新しい君として歩んでいきなさい」


「はい」


 サムが本の中に戻ると、図書館全体がゆっくりと光に包まれていった。


「また会いましょう、蒼」


 エリザベスさんの声が遠くから聞こえてきた。


「困ったときは、いつでもここに来なさい。でも今度は、君自身の力で解決できることが増えているはず」


 光が強くなり、私の意識は現実の世界へと戻っていった。




 月曜日の朝、私はいつもより少し早く目を覚ました。鏡を見ると、確かに表情が変わっている。以前のような暗さはなく、穏やかな光が宿っているような気がした。


 学校では、田中さんが手を振ってくれた。


「蒼ちゃん、おはよう!土曜日は本当に楽しかったね」


「私もです。今度、約束したおすすめの本を持ってきますね」


「やった!楽しみにしてる」


 教室に入ると、クラスメイトの何人かが声をかけてくれた。以前は気づかなかったけれど、みんな私のことを受け入れてくれていたんだということが分かった。私が心を閉ざしていただけだったのかもしれない。


 放課後、図書室に向かう途中で、一人の後輩が声をかけてきた。


「あの、先輩……」


 振り返ると、小柄な女の子が恥ずかしそうに立っていた。


「図書委員の田村です。実は、先輩がいつも読んでいる本に興味があって……もしよろしければ、おすすめを教えてもらえませんか?」


 以前なら「私なんかが教えられることはない」と思っただろう。でも今は違う。


「もちろんです。田村さんはどんなジャンルがお好きですか?」


 田村さんの顔がぱあっと明るくなった。


「実は冒険小説に興味があるんです」


「それなら、ちょうど良い本があります。一緒に図書室に行きましょう」


 図書室で田村さんに本を紹介していると、私は自然と笑顔になっていた。人に何かを教えるのは楽しい。これも私の「自分らしさ」の一つなんだろう。


「ありがとうございます、先輩!今度感想を聞かせてください」


「ぜひ聞かせてくださいね。私もその本が好きなので」


 田村さんが嬉しそうに本を抱えて帰っていくのを見て、温かい気持ちになった。


 帰り道、空を見上げた。青い空に白い雲が浮かんでいる。サムさんの言葉を思い出す。空は時に晴れ渡り、時に雲に覆われる。でも、いつも空は空として存在している。


 私も私として存在していればいい。完璧じゃなくても、目立たなくても、私は私の価値を持っている。


 その夜、日記を書いた。


『今日から、新しい自分として歩んでいこうと思う。といっても、特別なことをするわけじゃない。今まで通り本を読んで、友達の話を聞いて、静かに過ごす。でも今度は、それが私の魅力だと信じながら。


夢の図書館で出会った人たちは、きっとまた会いに来てくれるだろう。でも今度は、私も彼らに何かを教えてあげられるかもしれない。


明日も私らしく、一歩ずつ歩いていこう』


 日記を閉じて、ベッドに入った。今夜はどんな夢を見るだろう。夢の図書館かもしれないし、全く違う夢かもしれない。でも、どんな夢を見ても大丈夫。現実の私が、以前よりもずっと強くなったから。


 窓の外で、月が静かに光っていた。太陽のように明るくはないけれど、優しく世界を照らしている。


 私も月のような人になりたい。派手じゃないけれど、誰かの心を静かに照らせるような人に。


 そんなことを考えながら、私は深い眠りについた。きっと今夜も、素敵な夢が見られるだろう。




 佐藤蒼の物語は、まだ始まったばかりだった。でも彼女はもう迷わない。自分らしさとは探すものではなく、受け入れるものだということを知ったから。


 夢の図書館は今夜も、新しい訪問者を待っている。自分らしさを探す人、勇気を必要とする人、優しさを忘れてしまった人——そんな人たちのために、本の中の友達たちが待っている。


 そして蒼もまた、いつか誰かの支えになるだろう。静かに、でも確実に、誰かの心を照らす月のように。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夢見の図書館 @Nisitsukiamane

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画