夢中

@golden_ogt_l

第1話

 タップしてスクロール、タップ、タップ、スクロール。

 SNSなんて別に楽しいわけでもないのに、惰性で見てしまうのはなぜなんだろう。ベッドに寝転がりながら、友人たちのきらきらした日常をスクロールしてはハートマークをタップする。

 暇だし、つまらないのに、やめられない。

 だらだら過ごす日曜の夜。なんの生産性もない俺。

 寝返りを打ち、DMを開いた。一昨日の合コンで連絡先を交換した冴えない女からメッセージが届いている。それとは別にもうひとつ、美人のアイコンからのメッセージ。

 どうせ中身は広告だろうと思いながらタップ。案の定リンクが貼ってある。もちろん無視だ。URLは開かれることなく、ゴミ箱の中へ――、そのはずだった。

 つい癖で、としか言いようがない。うっかりタップしてしまった。しまったと思ったが、すでにブラウザが開かれて、動画が再生され始めている。閉じようとしても動画以外の部分がフリーズしてしまって動かない。

 画面に映っているのは微笑んでいる女だ。ゆるやかに口角を上げて、こちらに向かって手を振っている。そして彼女は画面の外に体を向けて、なにかを取り上げた。あれは……包丁? 大型の魚を捌くときに使うようなもので、刃渡り三十センチはありそうに見えた。

 そして、アップになっていたカメラが徐々に引いていき、彼女の足元を映した。転がっているのは――男。禿げていて、太っていて、中年で……。口元はガムテープのようなもので覆われていた。怯えた目で女性を見上げている。

 俺は嫌な予感がして、動画を止めようと試みた。画面を何度もタップし、スマホの電源ボタンも長押しする。でも、止まらない。止まってくれない。

 女は包丁を男の首筋に当てて、すっと引いた。それだけだった。それだけで、男から血がぶわっと噴き出した。女が返り血を浴びて真っ赤に染まる。カメラが女の顔を映す。彼女は驚くべきことに、穏やかに笑っていた。唇が動く。なにを言っているんだろう。女の声が聞き取れない。

 再びカメラが引き、全体を映した。立っている女、どぷどぷと血を噴き出しながら目を見開いている男。女は刃を振りかぶり、男の腹に突き刺した。ざくり、ざくりと何度も突き刺す。噴き出す血とともに腸がまろびでる。ちいさなスマホの画面の中で繰り広げられる惨劇はリアルだった。どうせ悪趣味なイタズラ動画に違いないと思うのに、目が離せない。

 男は刺されながら手足をびくんびくんと動かしていたが、やがてぴくりとも動かなくなった。女はハアハアと荒い息を吐きながら刺すのをやめない。ざくり、ざくり。ざくり、ざくり。

 そしていきなり画面が真っ暗になり、動画が終わった。

「なんだよ、これ……」

 スマホの電源ボタンを押すとホーム画面に戻った。さっきのSNSをもう一度開いでDMを確認する。あの映像は俺の目に焼き付いているのに、美人からのメッセージは跡形もなくなっていた。


 その日、俺は夢を見た。動画で見た中年の男に跨り、拳を振り下ろしている夢。男は怯えた目をしていた。可哀想だった。そんな男を殴りながら、俺は微笑んでいる。

「大丈夫ですよ」

 そう呟きながら、男の眉間や鼻を狙って殴る、殴る、殴る。

 なにが大丈夫なのかさっぱりわからないが、目が覚めたあとはやけに優しい気持ちになっていた。


「おまえ、最近すげえ機嫌いいよなあ」

 オフィスでコーヒーを淹れていると、同期入社の山田から声をかけられた。

「そう? 別に前と何にも変わってないけど」

「そんなことねえよ。アイツと喋ってるときもずっと笑顔だろ。俺にはマネできねえよ……」

 アイツ……、上司の安崎のことだろう。俺は自分の頬を撫でながら「本当に? 全然、意識してなかった」と言った。

「嘘だろ? おまえもアイツのこと大嫌いだったろ。何があったんだよ」

 別になにもない。毎晩、夢の中で殺人をしていること以外は。

 あの夢を見たあとは、なぜか心が穏やかになるのだ。安崎にいくら嫌味を言われようが、靴の先を蹴られようが、笑って流すことができる。こんなこと、人には言えないけれど。

「なんにもないって」

 俺は笑って嘘をついた。


 残業が終わってビルを出て、駅に向かっているところで知らない男と肩がぶつかった。

「いてっ」

 俺はそう呟いただけなのに、男が「あ?」と睨みつけてきた。そんな態度を取られても俺の心は穏やかだ。会釈して立ち去ろうとしたときだった。男が俺の頬に唾を吐いたのだった。

「え?」

 驚いた。驚いて、本当に驚いて、頭が真っ白になった。

 そして、次の瞬間、頭の中にあの中年の男が現れた。怯えた目で俺を見つめている。だから、俺はその男に殴りかかって、それで――。

「ニヤニヤ笑いやがって、気持ち悪ぃ」

 その言葉で我に返った。振り返ると、俺に唾を吐きかけた男は背を向けて歩き始めている。

 夢を見ていたのか。俺はズボンのポケットからハンカチを取り出して唾を拭った。粘ついていて臭い。久しぶりの不快な感情だった。


 その日の夢はいつもよりさらにリアルだった。

 俺は手にナイフを持ち、中年男の腹をざくざくと刺していた。肉は硬く、強く力を込めなければいけなかった。噴き出す血がぬめって気持ち悪いが、なぜか心は凪いでいた。

「大丈夫、大丈夫ですよ」

 男に語りかけながら、俺は男を刺し続けるのだった。


 それからというもの、強いストレスを感じると昼夜問わずあの中年の男が現れるようになった。

 俺は彼を殴ったり、刺したりする。我ながら陰湿だと思うが、倒れ込む彼の爪を剥がすような、拷問めいたこともするようになった。

 彼が動かなくなるまで続くので、ひどく長い時間のように感じるが、大体は数分のことだ。その間、俺はずっとニタニタ笑っているらしい。

「安崎に罵られながら笑ってるから、とうとうおかしくなっちまったのかと思って」

 山田は不安そうな顔で俺を気遣う。たしかに俺は正気ではないのかもしれない。しかし、心が安らかなのだから健康だろう。自分でコントロールできないことだけはおそろしいが、ストレス発散法としては完璧だ。

「俺は大丈夫。安崎になにを言われようが気にしてないよ」

「アイツ、おまえには特にキツい気がするんだよな。多分だけど……気にしてなさそうなところが気に食わねえんだろうな。形だけでも反省したフリした方がいいぜ」

 そんなことを言われても自分ではどうしようもないのだ。俺は肩をすくめて曖昧な笑みを浮かべた。


 事件が起きたのはその翌週だった。

 後輩が起こしたクレームの処理を俺が引き受けていたのだが、その顛末書の出来が悪いということで、安崎のデスクに呼び出された。クレーム自体はこちらに瑕疵があるものではなく、先方の言いがかりのようなものだったから、油断していた。

「はっきり言うけど、君は俺のこと舐めてるだろ」

 安崎の第一声はひどく冷たい声だった。

「舐めてません」

「舐めてるだろうがよ。こんな一年目みたいなしょうもない書類作りやがって。俺に恥をかかせたいんだろ?」

 被害妄想も大概にしろよ。俺はため息を吐きたいところを堪えて、わざと驚いた顔を作った。

「いつもお世話になっている安崎さんに、ボクがそんな気持ちを抱くわけありません! 大変申し訳ございません。書類はすぐに作り直します」

 安崎が持っている書類を受け取ろうとすると、安崎はそれを阻んだ。彼の眼鏡越しに感じる憎悪の視線。なんでこんなに目の敵にされるんだ。

「いいや、おまえは俺のことを舐めてる。いつもニヤニヤと、馬鹿にするように俺のことを見ている」

 その話、いま関係あるか? 安崎はいつも以上に感情的になって、俺に難癖をつけてくる。仕事上の関係性の人間に、こんな言葉遣いをするなんてどうかしている。相手にするだけ無駄だ。もしくはコンプライアンス窓口へ連絡。面倒だがそうした方が彼のためにもいいかもしれない。医療機関にかかった方がいいほどの被害妄想と情緒不安定、それに攻撃性――。

 安崎の罵詈雑言をハイハイと聞き流していたら「聞いてんのかオマエ!」とフロアに響き渡るほどの怒号が飛んだ。そして同時に脛に激痛が奔った。あまりの痛みにうずくまって、そこで初めて、安崎に蹴られたのだと気がついた。

「安崎さん、やりすぎです」

 目の端で山田が止めに入るのが見えた。俺は、俺は、視界がぐにゃりと歪んで、真っ暗になって、目の前にあの中年の男が出てきた。よかった。俺はこれで心安らかにいられる。

「大丈夫です、大丈夫ですよ」

 そう言って、男の鼻を殴った。ごりっ、と骨がずれる感触。穴から壊れた蛇口のように血が噴き出す。そこに何度も拳を叩きつける。だんだん、男の頬が全体的に赤紫色になってくる。人間の顔の骨って意外と硬いんだよなあ。拳が痛い。でも、男の方が痛いはずだ。我慢しなければ。

「大丈夫、大丈夫ですからね」

 俺はできるだけやさしい声で囁き、男の首を掴み、力任せに振り回した。彼の後頭部が床に打ちつけられて、がつん、がつんと音がする。俺は明るい気持ちになって、首から手を離し、両手で男の顔を掴んだ。

「大丈夫」

 顔を掴んで頭を床に叩きつけると、ごおん、響くような音が鳴った。ごおん、ごおん。二の腕が疲れてきた。ちょっと休憩をしようと思った俺は、親指を彼の瞼の中に捩じ込む。水風船のような感触の眼球がぐちゅっと弾ける。

「ぎゃあああああああああああああ」

 男が悲鳴をあげた。そんなことは初めてだったからびっくりした。俺は慌てて、いつもよりもっと優しい声で「大丈夫です。大丈夫ですからね。頑張って」と声をかけた。

 ああ、かわいそう。早く楽にしてあげないと。俺は彼の首を掴んで、絞めた。腕全体に力を込めて、俺自身の肉体を絞るような切実さで、ぎゅうぎゅうと絞め上げた。

 男の両目からぴゅうぴゅうと血が溢れて、ぐえっげえっと醜い声が漏れて、顔が風船みたいに膨れ上がって、あ、こうなる前に歯も折ってあげればよかったなって後悔しながら「大丈夫、頑張って、頑張って」と励まし続けた。大丈夫ですからね。

「おいっ! やめろって、おい!」

 山田の声がして、現実に引き戻された。ああ、また白昼夢を見ていた。俺はゆっくりと頭を振って、目の前の安崎を見た。

 彼は椅子から落ちていた。正確に言うと、身体をくの字に折り曲げて、床に転がっていた。

「あれ? 安崎さん……」

 これは安崎か? 顔がパンパンに膨れ上がって、見る影もなかった。まるでさっきの男のように、瞼から血の涙を流している。おかしいな。俺は自分の手を見る。血塗れの拳。そういえばまだ手が痛む。ズキズキと痛い。痛いなあ……。

「おまえ、なんなんだよ……」

 山田の声は震えていた。

「なんでまだ、笑ってんだよ」


                 ◆◆◆


「呼吸さん、お疲れ様でした」

「いやあ、どうもどうも」

 私こと同人作家の呼吸は、スマホを耳にあてながら、どうもどうも、と繰り返した。

「ホラーアンソロジー作りたいなんて、どういう風の吹き回しかと思ってました。原稿が無事に揃ってよかったです」

 共同主催の三ツ田さんが朗らかな声を発した。私は思わず笑顔になって「いやあ、安崎をボコボコにしたかったんですよねえ、どうもどうも」と言った。

「安崎さん、ボコボコにされてましたねえ」

「あれ、モデルがいるんですよ。私にパワハラをした上司が安崎って言って……もう、憎くて憎くて」

「はあ」

「そいつへの感情を創作に消化できないかって考えたんです」

「なるほどー」

「私は経験したことを創作するタイプだから。憎悪の感情といえばホラーかなと思ってね。どうもどうも」

 そんな感じでちょっとした雑談をやりとりしてから、通話を切った。三ツ田さんと喋るのは楽しいな。小説を書くのも楽しい。仕事で起きたいやなこと、全部忘れられる。

「もっともっと、いろんなこと経験しないとね。ねえ?」

 私は足元に倒れている刺殺体――安崎に向かって語りかけた。フィクションと違って撲殺はハードルが高かったから、出刃包丁で滅多刺しにしたのだ。

「さて、次の小説のネタは死体遺棄かな」

 明るい声でひとりごち、私はパソコンに向かうのだった。


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