最後の一枚、あるいは

目々

ノート一頁分の理由をください

 あんまりふらふらすると頭ぶつけるから、まっすぐ歩きな。つうかまだ酔ってんの、お前。元気なのはいいけど、玄関であんまり騒がないでくれよ、結構遅い時間だから。俺もお前も明日は講義ないからいいけど、お隣さんはなんか予定あるかもしれないし、寝てるとこ邪魔されるのって本当に腹立つから……ん、何、なんか面白いもんあった――ああ。

 それね、遺書。落ちてた? そっかあ……いいよ別にその辺に置いといても、気になるんならそこの箱に突っ込んどいてくれれば大丈夫だし。


 とりあえずさ、部屋入んなよ。玄関そこでずっと突っ立ってられても俺が困るし。あとはそうだな、通報とかしないでくれると助かる。してもどうしようもないっていうか、その……まあ、そうだな、その辺も話してやるから、飲もうか。元々そのつもりで来たんだしな、お前。コンビニにも寄ってきたし、買ってきたんなら飲まないと損だろ。もったいない。


***


 俺は翠にするけど、お前どれにする。何でもいいなら適当に掴んだやつ渡すけど……なあ、すごい顔色してるけど大丈夫か。何かなあ、別に死体だの傷だの見たわけでもないのに、そこまで怯えられるとびっくりするまであるな。紙切れひとつに文字少々、それだけでそんな怖がれるもんかって新鮮さがある。俺はもう、だいぶ読み慣れちゃったってのもあるけど。

 ――あ、お前誤解してんな。あの遺書、俺のだと思ってんのか。だからそんな思い詰めた顔をするのも……分かんないけど。俺が遺書書いてたとして、お前がそんな動揺する理由ってあるか。まあ、そうだな、人んちで酔い潰れた次の日の朝いきなり枕元が血まみれだったら嫌だってのは分かる。そういうときってどう対応するべきか分かんないしな、学校でも家でも教わった覚えがない。警察だか救急車だか呼ぶのも面倒だろうし。

 でもな、誤解なんだよ。その遺書、俺が書いたんじゃないんだ。一応俺宛てではあるけど、書き手は俺じゃない。

 まあね、それはそれでそういう目をするよな。遺書を遺されるようなことをしたのかよ、ってなるのが真っ当な思考だ。


 書いたのさ、俺の弟なんだよね。二つ下で、それ書いたときは高校生だった。


 二年前の夏休みにさ、弟、その書置き残して家出しようとしたんだよね。

 たださあ、一筆遺して玄関から出てこうとしたところを帰省してた俺が見つけちゃって、またあいつも誤魔化せばいいのにそのまま玄関ばーんって開けて逃げ出すもんだから、俺も追っかけちゃったんだよな。そのまましばらく追いかけっこして、よせばいいのにあいつが歩道橋なんか使ったもんだから、階段転げ落ちちゃってさ。すごい音すんだよな、あれ。絶対死んだと思った。どがんって派手な音立てて打っつけた頭の下から、じわじわ黒い血が滲んで湧くんだよ。日射しが血を照らすとさ、ビビるくらいにぎらぎら光るんだよ。あれは何でなんだろうな、脂が多いのかな、血って……。

 それでもどうにか救急車呼んで、あんまり覚えてないけどばたばたしてるうちに色んなことが済んで、どうにか生きてるけど意識はないし戻るかどうかも微妙ってのが分かって、それが今までずっと続いてる。そう、死んでないんだよ。まだ地元の病院で寝てるんだよね、あいつ。うちの両親小金持ちで、爺ちゃんは金持ちだから。一人くらい病院に突っ込んでおいても困んないんだよな。俺の学費に家賃も出してくれてるし、本当お金ってありがたいなって思う。


 理由はさ、まあ……読んだ通りだよ。頑張って入った高校で落ちこぼれてるし、したいこともできることもないし、そのくせのうのうと生きてるのが恥ずかしくなった、みたいな。まとめるとこれだけ、よくある青少年の悩み。そう仕訳けるのも酷い気はするけど、それ以上に言い様もない。

 ぎっちり書いてあるけど、半分ぐらい詫び言なんだよな。自分みたいなものが生きていて申し訳ない、おめおめと日々を食い潰すばかりで家族の迷惑にしかならない、父さんにも母さんにも、何より兄さんにも申し訳が立たない――別に何とも思ってなかったんだけどな、俺。俺だって人のこと言えるほど立派な頭をしてるわけじゃないし。ぼんやり塾やら夏期講習やら努力義務っぽいのをこなして、結果としてどうにか三流私大に滑り込んでただけの人間だし。そんなの相手に、何を申し訳なく思うことがあるんだか……。ああ、大学馬鹿にするとあれだな、お前も巻き添えになる。ごめんな。でも事実だろ、名前は知れてるかもしれないけど、自慢できるどころか憧れられるようなご立派な学校じゃないし。そもそも頭の出来以外だって微妙な人間だしな、俺。法に触れるようなことはしてないけど、そんなの社会生活を送る以上はできて当然のことだろうし。何よりこうやって二十歳になったばっかの後輩連れ込んで家飲みやらかしてる時点でろくでもない先輩だろ、悪いことばっかり教えてる。

 そこまでちゃんと兄をしてたわけでもないんだよ。そりゃ家族だからさ、顔合わせれば会話はしたし一緒に遊んだりもしてたけど、そんなの当たり前だろうし。それでいい兄だなんて名乗れるほど、面の皮が厚いわけじゃないんだよな。お互いに集めてる漫画の貸し借りとか、暇だから一緒に映画見に行ったとか、普通に友達同士でもやるようなことだろ。夏休みの宿題だって手伝った覚えとかないしな。あいつそういうの休みの最初で終わらせるタイプだったし。何でも自力でなんとかしてたんだよ、あいつ。少なくとも俺になんとかしてくれなんて泣きついてきたことは一回だってなかった、そのくらいにちゃんとしてた。学校で落ちこぼれてたとか、生きる意義がないとか、そんなの全然分かんないくらいに、真面目に生きてるように俺には見えてた。


 だから、どこで思い詰めたとか躓いたとか、全然気づかなかったんだよな、俺。その時点で兄としては全部駄目だろ。


 でさ、そんときの書置きは、もうないんだよ。母さんが読んだ途端にびりびりにしちゃったから。紙ってさ、あんまり勢いよく破ると指が切れるか擦れるかで結構な怪我するんだよ。顔はぼんやり笑ってるのに、指先だけべたべたに血が染みてる。……目がさあ、どこも見てないんだよ、そういうときの人間って。遠くを見てるのとちょっと似てるけど、もっと目に力がない。黒目が溶け出して穴ぼこになったみたいな、そういうおっかない目をしてた。

 そうして弟の書置き、事実上の遺書は生温いフローリングの上でばらばらの紙くずになった。でもほら、その紙切れ。お前が拾ったぺら紙一枚、あの日と同じ、あいつが授業に使ってたノートから千切り取った一ページ。少し皺の寄った紙もボールペンで書き連ねた言葉もそのままに、あの日の書置きが、ここにある。

 何でか知らないけど、俺のところに届くんだよな。あいつが逃げ損ねた夏の日、病院から出られなくなってから、ずっと。毎日ってわけじゃないけど、週に二三回、ぐらいか。今日お前が見つけたみたいに玄関の靴箱に置いてあったり、このローテーブルの上にあったり、本棚から一冊取り出したらおまけみたいに滑り落ちてきたり……勿論、その辺の床に落ちてんのもよくある。ぎっちり書き詰められた蟲の死骸みたいな文字と目が合う、みたいな感じになるんだよな。文字ったら読むものなのに、どうしてか見られてるような気がする。……だから手書きの文字、苦手なんだよな。情報量が多すぎる。余計なことまで読み取ろうとする、俺が悪いんだろうけど。


 何だろうな、まだ逃げたいのかね、あいつ。

 要はさ、繰り返してるわけだろ、あのときの夏と同じこと――遺書を残して、家を出て、この世から逃げ延びるのをさ。だから遺書の数がそのまま試行回数だと俺は思ってる。この紙切れが出てくるたび、あいつはどこかに行こうとしたんだって。でもあいつはまだ生きてて死ねずに、病院のベッドで昏々と眠ってる。もうどこにも行けないのにな。それでもまだ、同じことを続けてるってのは……何だろうな、どう思ってやるのが正しいのかが俺には分かんないんだよな。不憫だとは思うけど、これだって怒られそうな気がするし。

 まあ、お前には関係ないことだから。書置き、そこの箱に入れておいて。溜まったら捨ててるんだよ。いや、燃えるゴミだけど……だってお焚き上げとかするようなもんでもないだろ、まだ生きてんだし、あいつ。最後の一枚っていうなら取っておく理由があるけど、同じ遺書を何枚集めたっていいことないしな。起きてきたら、改めて始末を聞こうとは思ってるけど。


 とりあえずさ、飲みなよ。手、止まっちゃってるけどさ。せっかく時間とか帰り道とか気にしないで飲むつもりで来たんだから、こんなことで呆然としてたら甲斐がないだろ。大丈夫、缶空けちゃっても冷蔵庫に瓶あるから。それに始発で帰るにしても、まだ全然真夜中だし。

 俺としては、居てくれるだけで助かるみたいなとこ、あるから。一人だとどうも上手く酔えないし。――今日だけ、今だけでいいから、頼むよ。

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