才子佳人

速水涙子

才子佳人

 静かな午後の昼下がり。この日の用事を終えた私は、ひとり抹茶を点てて、ひと休みすることにした。

 形式ばったものではない。茶道を習い始めてからの息抜きのひとつで、誰をもてなすわけでもないが、ほっとすると同時に何となく気持ちもあらたまるから、時間が空いたときにはよくそうしていた。

 抹茶の粉にお湯を注いで、茶筅ちゃせんでやさしく混ぜてから泡立てると、ふわりとよい香りが辺りに広がっていく。あざやかな緑をたたえた白磁の茶碗は、友人に勧められて参加した陶芸教室で初めて作ったもので、茶道の腕前はともかく、器の方は我ながらなかなかの出来栄えではないかと思っていた。

 自宅は閑静な住宅街にあったので、さわがしい物音にわずらわされることはほとんどない。時折、家の中でどこかの扉が音を立てているのは、風が通り過ぎたからだろうか。この家も、もう古い。そうでなくとも、ひとりきりで暮らすには少し広すぎるような気もしていた。

 これからのことを憂いつつ、温かいお茶でほっとひと息ついていると、ふいにどこからか読経の声が聞こえてくる。

 あの人の声かしら、なんて思ったのは束の間のことで、すぐにそんなことはないと思い直した。だってもう、あの人はいなくなってしまったのだから。

 それでも声は聞こえている。隣家は長らく空き家だったし、近くの通りにも人の気配はないようだ。風に乗って、どこかの音が届いているのだろうか。

 けれども、その声は聞けば聞くほど、あの人の声にそっくりだった。もしかしたら、幻聴かもしれない。静かな家の中で心細く感じていたせいで、記憶の中の音が思い起こされたのだろうか。あるいは――

 やはり、あの人が唱えているのかもしれない。そう思ったのは、ただ読経の声が聞こえるというだけではなく、その声があの人の調子と似ていると思ったからだ。

 しかし、本当にそうだったとしても、それを恐ろしいことだとは思わなかった。ただ、何となく寂しいような、切ないような、そんな気持ちになるだけだ。

 もしも、あの人が化けて出たのなら、どうして姿を見せてはくれないのだろう。お経を読んでなんていないで、こちらへ来て話しかけてくれればいいのに。

 そんな、益体もないことを考えながら、幻かもしれない読経の声に耳を傾けながら、ただぼんやりとした時を過ごした。あの人が化けて出るなんて空想は滑稽で、けれども、どこか悲しくて。それでいて、ほんの少しだけ、何かの訪れを期待してしまっている――そんな自分の心に、ひそかに苦笑を浮かべながら。




 あの人が亡くなってからは、もう二年の月日が経つ。

 病に倒れたのは突然のことで、あの人はあっという間に私の元から去ってしまった。そうして、あの人を送ってからしばらくは、身の回りを片づけたり、心配した友人が訪れてくれたりと、何かと忙しい日々を過ごしていたのだが――近頃になってようやく、静かな時を過ごせるようになった、といったところだ。

 それまではゆっくりと考える暇もなかったが、家にひとりきりという時間が増えていくと、ふいに孤独が染み入るようになった。そうは言っても、あの人がいたときだって、にぎやかな時間を過ごしていたわけではないのに。

 それでも、ふとしたときに思い出すのは、やはりあの人との思い出だ。物静かな人で、たまにふたりで出かけたときにも、話をするのは私の方ばかりで、無言で従いながらも、ふいにぽつりと言葉を呟く――そんな感じの人だった。

 あの人と共に生きた五十年の時を、後悔したことは一度もない。子どもができなかったことは少し寂しかったけれども……

 ふたりきりの生活を不安に思ったのは、あのときくらいだろうか。

 あの人の退職が決まったときのことだ。仕事に熱心な人だったから、それがないと気落ちしてしまうのではないだろうか、と思って、ふたりきりのときには何を話そうと、あれこれ思い悩んでいた。しかし、すぐさまそんな心配は無用だったことがわかる。

 あの人は、ある日ふいにこう言った。盆栽を始めようと思うんだ、と。

 そう宣言したときには、すでに初心者向けの教室への申し込みを済ませた後だったらしく、その日になると、あの人は意気揚々と出かけて行った。

 私は何だか、呆気にとられてしまったことをよく覚えている。けれども、そのときにはすでに私の方でも茶道を始めとしていろいろな教室を楽しんでいたし、あの人が好きなことを見つけたことについてはうれしくも思っていた。

 そうして、お互いがお互いに好きな時間を過ごす日々が始まる。

 それでも、朝昼夕の食事のときや空いた時間にはお茶を淹れて飲んだり、あるいは、私が外に連れ出したりしていたので、ふたりの時間が全くなかったわけではない。そんなときには、あの人も育てている盆栽について、ぽつりぽつりと話をしてくれていたので、私にとってはそれだけで充分だった。

 それでも一度だけ、あの人を写経の教室に誘ったことがある。

 夫婦で参加することを恥ずかしがっていたようだけれども、あの人は字がとてもうまくて、何だか私まで誇らしくなってしまったくらいだった。ただ、あの人は――これは変に凝ってしまうからダメだ、と言って、それ以上続けるようなことはなかったのだが……

 その代わり、お経のことは気に入ったのか、あの人は読経の教室に通うようになって、家でも唱えるようになった。あの人がいなくなってから、どこからともなく聞こえるようになったあの声は、そのときのものによく似ている。

 この日もまた、ふいにその声が聞こえてきたので、無意識に耳を傾けていた。しかし、その音は何の予兆もなく、ふっつりと聞こえなくなってしまう。

 ほどなくして呼び鈴の音が鳴ったので、来客があったらしいことがわかった。

 訪れたのは、近所に住んでいる同年代の女性だ。私がひとりになったことを気にしているのか、何くれと世話を焼いてくれている人だった。

 この日も、何かしら理由をつけて私の様子を見に来たのだろうと思えば、案の定、彼女は郷里から届いたという林檎の入った紙袋を手にしている。

「近頃、変わったことはない?」

 そうたずねられたので、何気なく読経のことを話してみた。あの人の声かもしれない、だなんて本気で思っていたわけでもなく、近所では何かしら噂になっているかもしれないと考えたからだ。

 しかし、返って来たのは思いがけない反応だった。

「読経の声? うちの近くでは、聞こえないけどねえ……」

 けげんな表情を見る限り、彼女はその声を不審な現象だと考えたらしい。あの人がことあるごとにお経を唱えていたことは知っていたから、はっきりと言葉にはしなかったけれども、どうやらあからさまに気味が悪いと思っているようだ。

 ほんの少し不安を覚えはしたが、それでも私には、どうしてもあの声が悪いものだとは思えない。だた、私の心の中には、もやもやとしたものだけが残されていた。




 この日は珍しく来客の予定があった。来るのは、あの人の盆栽を引き取ってくれるという人たちだ。

 今までは私ひとりでどうにか世話をしてきたのだが、後々のことを考えると、やはりくわしい人に引き取ってもらった方がいいだろう――そう考えて、あの人の盆栽仲間から、そういうことを引き受けてくれそうな方を何人か紹介してもらっていた。

 電話やメールでのやりとりは何度かしていたが、会うのは今日が初めてだ。そろそろ時間だろうと思っていたところ、ふいに呼び鈴の音が鳴ったので、私は急いで表へと出向いた。

 門扉の前に立っていたのは、作業着姿の男性だ。思わずまじまじと見つめていると、彼は困ったような表情を浮かべながら、こう言った。

「あやしい業者じゃありませんよ。盆栽の件で、桜庭さくらばの代理でうかがいました。片桐かたぎりと申します」

 年の頃は四十代くらいだろうか。あの人の友人なのだから、同じくらいの年の方が来ると思っていたので、少しばかり反応が遅れてしまった。

「すみません。思っていたよりも、お若い方だったので……」

 私がとっさにそう言い訳すると、片桐は苦笑した。

「旦那さんと交流があったのは、うちの里の長老でしてね。年の割には元気なんですが、遠方ですし、ちょいと重いものを持つのは難儀だということで、代わりに行ってこいと言われたんです。事前に連絡をしてなかったようで、申し訳ない」

 頭を下げる片桐に、私は慌ててこう話す。

「そういえば、都合によっては別の方が来られるかもしれない、ということをおっしゃっていた気がします。桜庭さんとは電話でしかやりとりをしていなかったので、お顔を知らなかったものですから……こんなところで立ち話も何ですので、どうぞ中へ」

 ひとまずお茶でも飲んでゆっくりしてもらおうかと思ったのだが、片桐は首を横に振った。

「いや。さっそくですが、盆栽の方を見せてもらってもかまわないですかね。せわしなくて恐縮ですが、この後にも用事が控えていまして」

 片桐はそう言ったが、あるいは、ひとり暮らしの家に上がり込むことに気をつかったのかもしれない。それ以上無理強いはせずに、私は彼を庭へと案内した。

 とはいえ、自宅の庭はそれほど広いわけでもない。玄関を横目に通り過ぎると、玄関を横目に通り過ぎると、家の南に面したところにこぢんまりとした空間が広がっている。そこにあの人の盆栽があった。

 あの人が初めて世話した松を始めに、真柏しんぱくや紅葉、それから梅――中でも、あの人が特にお気に入りだったのはえのきの盆栽だ。

 そのことを知っていたわけではないだろうけれども、片桐はそれらの盆栽を順に見ていくうちに、ふと榎の前に差しかかると、立ち止まってからこう呟いた。

「こいつは……」

 そのとき、再び呼び鈴の音が鳴る。

 もうひとり盆栽を見に人が来るはずだったので、その方だろうと思って、私は片桐にひとこと断わってから表の門扉の方へと向かった。

 しかし、私はそこで、片桐のとき以上に面食らってしまうことになる。なぜなら、そこに立っていたのが、高校生くらいの男の子だったからだ。

 それでも、対する少年は物怖じすることもなく、とても礼儀正しくこう名乗った。

「お約束していた宮古みやこです。というか、僕はその孫なんですけど。祖父は少し遅れて来ます。その前に、盆栽を見せてもらってもいいですか?」

 そういえば、訪れる予定のその方からは、盆栽が好きだというお孫さんがいるという話を聞いていた。とはいえ、ひとりで先にやって来るとは思わなかったが――

 今日はどうやら、意外なお客さまが訪れる日らしい。気を取り直して、私は少年を庭へと促した。

「そう。いらっしゃい。もうひとり、先に盆栽を見に来た方もおられますよ。どうぞ、こちらへ」

 示された方向へと進んで行った少年は、並べられた盆栽を目にした途端、すぐさまそちらの方へと引き寄せられていく。そうして、やはり榎の盆栽を前にすると、感心したようにため息をついた。

「へえ……これ、いいですね。根元にうろがあって、形がおもしろいし。樹齢はどれくらいですか?」

 少年は目をキラキラさせながら、そうたずねる。

 しかし、私では彼の問いには答えられない。あの人は盆栽の素晴らしさをよく語ってはくれたけれども、くわしいことについてはあまり話をしてはくれなかったからだ。

 榎の盆栽は灰色の幹も太くしっかりしていて、私の目にも立派なものには見える。それでいて、根元の部分には確かに小さな空洞があった。それでも、明るい緑の葉は豊かに生い茂っているし、これから秋が深まるにつれて、あざやかな黄色に染まっていくだろう。

 どう話そうかと思案しているうちに、少年の言葉を聞いていたのか、代わりに声をかけたのは片桐だった。

「おう。盆栽が好きなのか?」

「……それが、何か?」

 少年は少しばかり身構えた様子で、そう問い返す。

「うちに、山歩きを引退して、今は盆栽の世話をしてるじいさんがいるんだが……若いもんが盆栽好きだって知ったら、そのじいさんも喜ぶと思ってな。どうだ? 話し相手になってもらえないか。うちにも珍しい盆栽がそろってるから、いろいろとおもしろいものが見られるぞ」

「そういうのは、うちのじいさんだけで間に合ってます」

「まあ、そう言うなよ」

 そんなやりとりがありつつも、おそらくは初対面だろうふたりは盆栽のことで話に花が咲いたようだった。そんなふたりを、ほほえましく思いながら見守っていると、ふいに三度目の呼び鈴が鳴る。

 少年の祖父である宮古老人が来たのかと思って、私は出迎えのために門扉へと向かった。それ以外に、思い当たる来客の予定はなかったからだ。しかし――

 そんな心づもりに反して、その場に立っていたのは、奇妙な格好をした見知らぬ男だった。

 少年の祖父ではない。写真で見せてもらったことがあるので、宮古老人の顔なら知っている。そうでなくとも、男の服装は明らかに普通のものではなかった。

 山伏装束、というのだろうか。頭には黒い頭巾を被っていて、白い法衣に手甲てっこう脚絆きゃはんをつけている。それでいて、胸元には特徴的な丸い飾り――名前は知らない――を垂らしていた。

 山中であれば頼もしい存在かもしれないが、ごく普通の住宅街の中にあっては、その姿は滑稽でしかないだろう。にもかかわらず、その山伏は私が戸惑っていることなど意にも介さずに、堂々とした調子でこうたずねた。

「ここに、悪しきものがいるとうかがい参った。お調べいたしますが、よろしいですかな?」

 山伏は私の返事を待つこともなく、ずかずかと門の内へと足を踏み入れてしまう。慌てて引き止めたが、近所の人からの依頼でやって来たと言い張って、引き下がる気配もない。どうやら、無理にでも押し通るつもりのようだ。

 私は以前に、読経の声が聞こえる、と話していたことを思い出した。

 それでも、今のこの状況には、ただただ困惑するしかないだろう。近所の人も、おそらくは気を回して頼んでくれたのだろうけれども、そもそも、このことを問題にしていたつもりはなかったからだ。それどころか、あの声にはむしろ――

「心配召されるな。悪しきものはすぐにでも祓って進ぜよう」

 私の戸惑いを他所よそに、山伏はそう言って庭まで突き進んでしまう。

 その先には盆栽を見ていたふたりがいて、突然のことに唖然とした表情を浮かべていた。異変を察したらしい片桐は、庭を歩き回り始めた山伏を横目に見つつ、私の元へと近づいて来る。

「どうかしましたか」

「いえ。それが……」

 どう説明したらいいのだろう。そう迷っているうちにも、ふいにどこからか読経の声が聞こえてくる。

 いつも聞いていた、あの声だ。

 呆然としていた少年はいぶかしげな顔で辺りを見回し、片桐も何やら気がかりらしい表情を浮かべている。山伏の方も、むう、とうなったかと思うと、見えない何かに挑むかのように印を結ぶと、般若心経まで唱え出した。

 どうやら、声が聞こえるのは私だけではないらしい。

 辺りには威圧的な山伏の声が響き渡っている。張り上げられたその声は、いつものあの声を圧倒し、そのせいか、誰とも知れないその声は徐々に弱々しくなっていくようだ。

 そのことを心配していると、片桐がふいにこう呟いた。

「全くの素人じゃなさそうだが、これじゃあ、あの木が死んでしまうな……」

 片桐の視線の先には、あの榎の盆栽がある。

 私は思わず首をかしげてしまった。あの声と榎の木に何か関係があるのだろうか。

 視線に気づいたのか、片桐は私の目をしばしじっと見つめ返してから、こうたずねた。

「あの声のこと、どう思われます」

 それは山伏のことではなく、どこからか聞こえてくる、あの人に似た声のことを言っているのだろう。

 私は素直にこう答える。

「ただ不思議だな、と思っていただけで……どうにかしたいとは、考えていなかったのですが」

「だったら、あの山伏を追い返してもかまいませんね」

 私は片桐の言葉にうなずいた。それを見た片桐は、山伏の方へと鋭い視線を向ける。

「角が立たないよう、納得の上でお帰りいただきましょう」

 そう言って、彼はどこからともなく携帯端末スマホを取り出した。発信した後、ほどなくしてつながったらしい相手に、彼はすぐさまこう切り出す。

「ちょっと頼みがあるんだが――」



 通話を終えた片桐は、山伏の元へと歩み寄った。山伏は相変わらずお経を唱えていたけれども、片桐はそんなこと気にもとめずに声をかける。

「なあ、あんた。お取り込み中にすまないが、いいかい」

 山伏はあからさまに顔をしかめたが、読経を中断すると、渋々こう応じた。

「……何かご用か」

「いきなり現れて、何をしていらっしゃるのかと思いましてね」

 片桐のそんな言葉を、山伏はあからさまに見下している。

「何をしているかもわからぬなら、おぬしの出る幕ではない。あるいは、この声すら聞こえぬと言うのなら、なおさら、おとなしく見ていてもらおうか」

 山伏の物言いに、片桐は小さく肩をすくめた。

「あんたの大声でどうにも聞こえにくいが、俺にもちゃんと聞こえていますよ。しかし、いきなりお経を唱える理由については、よくわかりませんが。俺は各地にある古い木を世話して回っていましてね。この音には聞き覚えがあるんです。だからこそ、どうしてこんなことをしているのか、と奇妙に思っていまして」

「聞こえるとて、感じ取れぬのなら意味はない。おそらく、これは亡き者の無念の声。先達として、行くべきところへと導かねばならん。素人が口出しせんでもらおうか」

 山伏がそう言い放つと、片桐はにやりと不敵な笑みを浮かべた。

「つまり、あんたはあくまでも、この音が普通のものではないって言うんだな?」

 いぶかしげな表情を浮かべた山伏には背を向けて、片桐は榎の盆栽の元へと歩いて行く。そうして、その前に立ったかと思うと、山伏に向かって、榎にある洞を指差した。

「人のことをどうこう言うよりも、あんたこそ、よく聞いた方がいいんじゃないのかい。さあ、見てみな。これが音の正体だ」

 山伏はけげんな顔になりながらも、榎の盆栽に近づくと、洞の中をのぞき込んだ。その瞬間、山伏は何かに驚いたように後ずさる。

 ぶん、という音と共に、穴の中から飛び出てきたのは――

「は、蜂?」

 数匹の蜂が、山伏を取り巻くように飛び回り始めた。山伏はあたふたとそれらを手で振り払いつつも、身を屈めて榎の盆栽から遠ざかっていく。

 山伏の情けない姿を近くでながめながら、片桐は呆れたようにこう言った。

「その経を読む音、蜂の集り鳴くが如し――だったか。どこかで、そんな風に書かれていたことがあった気もしますが……何かを感じ取れるはずの方が、蜂の羽音を人の声と間違えるなんざ、ちとお粗末じゃあないですかね」

 蜂から逃れたことで、山伏はひとまず落ち着きを取り戻したらしい。しばらくは、まごまごと言い訳を並べ立てていたが、片桐がにらみつけると、山伏は苦虫を噛みつぶしたような顔で去って行った。

 その後ろ姿が見えなくなる頃には、入れ替わりに近所の人――山伏を呼んだのだろう、その人だ――がやって来る。おそらくは、取り持ったお祓いの顛末を確かめに来たのだろう。

 私は彼女に、読経の声の正体が蜂の羽音だったことを話した。

 相手は少し残念そうな顔をしていたけれども、表向きには、祟りじゃなくてよかったわ、と言って笑っている。彼女のおさがわせなところには苦笑いを浮かべつつも、私はなぜか、ひどくがっかりしたような――心にぽっかりと穴が空いたかのような、そんな気持ちを持て余していた。

 あの声の正体が、実は蜂の羽音だったなんて。

 何だ。そんなことだったのか。得体の知れない音の正体が知れたというのに、ほっとするよりもまず、そんなことを思ってしまう辺り、私はやはり、あの音があの人の声だということを信じていたらしい。

 心ここにあらずのまま近所の人を見送ってから、私はふと、庭にいるふたりのことを思い出た。

 慌てて彼らの元へ戻ると、それに気づいた片桐が、私のことを気づかうようにうなずいている。その傍らでは、少年が榎の洞を少し遠くからのぞき込んでいた。

「とにかく、蜂が巣を作ってるなら、それをどうにかしないと――って、うわ!」

 大きな声を上げて、少年は素早く飛び退った。また蜂が出てきたのだろうか、と思ったのだが……

「中に、小さいおじいさんが!」

 少年は洞の中を指差しながら、そう叫んだ。

 何を言っているのだろう。私はとっさにそう思ったのだが、それを聞いた片桐は、おもしろがるような表情になったかと思うと、怯える少年に向かって、こう問いかけた。

「お。おまえ、こういうの見えるたちか?」

 少年はその言葉に、いかにも不服そうな表情を浮かべている。

「それって、普通は見えないってことですか? じゃあ、見えません」

「じゃあって何だよ」

 やりとりの意味がよくわからなかったので、私は自分の目で洞の中にあるものを確かめることにした。

 辺りに蜂の姿はない。しかし、よくよく耳を澄ませてみると、読経の声のようなあの音が、かすかに聞こえている気もする。もしかしたら、蜂がまた飛び出してくるかもしれない、と心配しながらも、私は恐る恐る洞の中をのぞき込んだ。すると――

 そこには、その穴に収まるくらいに小さな人の姿があった。

 体は小さいが、少年の言うとおり、それは紛れもなく老人の姿のように見える。しかも、その老人は、拝むように手のひらを合わせて、もごもごと何かを唱えているようだった。

「これは、いったい……どういうことでしょう」

 私がそうたずねると、片桐はこう答えた。

「木というものは、年を振ると化けることがありましてね。要するに、これはこの榎の仮の姿です。今のところ、お経を唱えるだけのようなので、特に害はないでしょう。それでも気味が悪いというなら、うちで引き取らせてもらいますが」

 私は言葉を失ってしまったが、少年は困惑しつつもこうたずねる。

「それで……どうして、お経を?」

「こいつはまだ成り立てだからな。はっきりとした意思はないらしい。ただ、生きものってのは、飼っていると主人に似てきたりするだろう。そいつと同じだよ」

 片桐はそう答えたが、少年は納得しがたいのか、あからさまに顔をしかめている。

 その話が本当なら、この榎はあの人の真似マネをしている、ということになるのだろう。思いがけない話だが、音の正体が蜂の羽音だと言われたときよりかは、しっくりくる気がする。

 とはいえ――

「でも……だとしたら、さっきの蜂は」

「片桐さん。片桐さん。うまくいきまして?」

 少年の問いかけに重なって聞こえてきたのは、涼やかな少女のような声だった。

 振り返った片桐の視線の先にあったのは、おめかしをした若い女の子の姿。もうひとり、そのとなりには純朴そうな青年が立っている。

「何。この人たち」

「虫が大好きな、ちょっと変わった人たちだ。害はない。特に鴻上こうがみは蜂使いの家系でな。さっきの蜂は、こいつのおかげさ」

 少年と片桐のやりとりに、青年はただうなずくだけだったが、女の子の方はどこか得意げにこう話す。

すくもの蜂が、役に立ったようですわね。蜂を操るのに、彼の右に出る者はおりませんわ」

 宮古少年は、はあ、と言ったきり、うろんな目をするばかりで、それについては深く追及するつもりはないようだ。

「それでは、片桐さん。お約束の時間まで、あちらでお待ちしておりましてよ」

 女の子はそう言うと、青年と共にあっさりと踵を返してしまった。よく見ると、その手にはなぜか虫とり網が握られている。

「って――ちょっと待て。鵜月うづきの嬢ちゃん。まさか、その格好で行くつもりじゃないだろうな。動きやすい服装で来いって言っただろうが。山歩き舐めてんのか。おい」

 片桐はそう言って、彼女らの後を追って行く。

 目まぐるしく起こったできごとを、ようやく受け止められたところで、私は思わず吹き出してしまった。

 けげんな顔をしている少年に、私はこう言い訳する。

「ごめんなさい。何だか、少しうれしくなって……榎のこと。あの人がいなくなって寂しく思っていたのは、私だけじゃなかったのね」

 私は、あの人と似た声で、亡きあの人を偲んでいるらしいその木を、じっと見つめていた。少年もまた、それを追うようにして、目を向ける。

「この榎は、あなたのところにあった方がいい気がします」

 少年はそう言ってくれたが、私は不安のあまりこう呟く。

「私に、世話ができるかしら……」

「わからないことがあれば、うちのじいさんにでも聞いてもらえれば。まあ、洞の中のものについては、さっきの人に聞いた方がいいでしょうけど」

 私はその言葉にうなずいた。

「そうね。そうするわ」

 長い時を、あの人と共に生きてきた。だからこそ、これからひとりで生きていくことに、ひそかな不安を感じていたのだろう。

 けれども、同じ思いを分かち合える存在がいるのなら、今しばらく――私が終わる、そのときまでは――どうにか生きていける。そんな気がした。

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才子佳人 速水涙子 @hayami_ruiko

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