さくらあめ

藤泉都理

さくらあめ




「おい。おい。おい。バカギツネ。さっさと起きねえか」

「………足蹴りは止めろと言ったはずだがのう」

「足蹴りじゃねえ。足踏みだ。血行がよくなっただろうが。感謝しろ」

「………」


 今は人化してふさふさの銀色の両耳と尻尾だけを出している九尾の妖狐、はぐさは無言でじぃっと見つめた。

 スーツ一式の色を漆黒で占めている丸禿で人相の悪い人間を。

 狩衣を身に着けている莠の太股辺りを足蹴り、ではなく、足踏みしている妖魔退治の相棒である星影ほしかげを。


「何をじっと見てやがんだ。君は。さっさといぬっころから離れて、仕事に行く準備をしやがれ」

「むぅ」


 莠は唇を尖らせると、やわく抱きしめている桜雨さくらあめと名付けられたゴールデンレトリバーから渋々離れては立ち上がった。


「おい」

「ふふ。桜雨。ほんに愛いやつよのう」


 星影の抗議の声を物ともせず、立ち上がった莠は即座に腰を下ろすと、眠りに就いている桜雨の頭を優しく撫で始めながら、大きく育ったのうとしみじみと呟いた。


 莠と星影、桜雨の出逢いは、桜雨がまだ子犬だった時。

 桜が春時雨によって緩やかに散る黄昏の時分。

 妖魔退治の任務を請け負った莠と星影が桜雨を操っていた妖魔を退治したものの、妖魔の影響下から抜け切る事ができず凶暴化したまま襲いかかって来た桜雨を封じては、わしならば鎮める事ができるとの莠の一言で引き取る事にしたのであった。


「おまえは本当によくもまあ桜雨に触れられずにおれるのう」

「言っただろうが。ちいせえ頃に致死率ほぼ百割の狂犬病にかかった犬に咬まれて奇跡的に助かったってよ。それ以来、犬は大っ嫌いだってよ。本当は家の中に入れたくもねえ。視界に入れたくもねえんだ」

「それは気の毒であったが。桜雨は狂犬病のワクチンもしっかり打っておるし、定期健診にもきちんと通っておる。何よりもこんなにも愛いのだ。そんなに毛嫌いしなくてもよいではないか」

「いいや。俺は犬は大っ嫌いだ。さっさと立ち上がれ。先に行くぞ」

「あっ。まったく。短気なやつだのう」


 莠は去り行く星影の背中を見つめては、溜息を吐き出した。


「のう。桜雨。星影はそなたの事を嫌ってはいないのだと思うのだ。声音にも表情にも嫌悪感を滲ませておったがのう。そなたが眠っておるから、声量を小さくして話すという気遣いもしておった。足音も控えめじゃ。まあ。素直なやつではないからのう。桜雨は星影を嫌わないでやってくれ。わしの大切な相棒だからのう」


 莠はやおら立ち上がると、未だ眠りに就く桜雨に行ってくると言っては星影の後を追ったのであった。


「………」


 パタン。

 玄関の扉が閉まる音がしてのち、桜雨は目を開けてやおら立ち上がると、玄関に向かって歩き出したのであった。











「ちゃんと躾をしておけっ!!!」

「星影。どこに行くのだ?」

「俺の勝手だろうが!!!」

「ほし………ああ。これはなかなか。桜雨。そなた」

「………」


 路地裏にて。

 電灯が切れかかって、明光と暗闇がやおら交互に訪れる中、莠はじっと見つめて来る桜雨の顎下を撫でながら、来てはいかんではないかと、頑張って厳めしい表情になって言った。


「分かっておる。そなたはわしたちの力になろうとしてくれたのであろう。そなたは妖魔を探知する力に秀でておるからのう。わしよりも一秒早く妖魔を見つけられる。なんと優秀なこじゃ………いいや。いかんいかん。星影の怒りはもっともじゃ。そなたは妖魔を恐れておるであろう。身体が震えておる。いかに妖魔を探知する力が秀でておったとしても、そなたは己の身を守る事はできぬ。怯えて逃げの一手を打つのに遅れる。もう少しでそなたは命を失っていたのやも知れぬのだぞ。いやまあ。そんな事はさせぬがな。わしが。わしと星影が。ふふ。見ておったか。桜雨。あやつ。わしよりも早くに動いて妖魔からそなたを助けようとした。妖魔に背を向けてのう。まあ。実際に桜雨も星影も助けたのはわしであったが」


 莠は目を細めては桜雨にそっと抱きしめるように身体を寄せた。


「のう。桜雨。そなたはまだ妖魔の影響下から逃れられてはおらぬ。ゆえにそなたは普通の家では過ごせぬ。わしと星影の家でしか過ごせぬ。けれど、わしと星影の力になろうと無理をしてはならぬ。そんな事をせずとも、家から追い出したりはせぬ。ああ。そうだのう。不安であろう。たったの独り、家で留守番をしているのは。またいつ凶暴化するやもしれぬ。また妖魔狩りを命じられるやもしれぬ」


 桜雨は親から生まれた直後に、妖魔に攫われては妖魔の力を注がれて、無理矢理子犬まで成長させられ、偶然か必然か、生まれてしまった妖魔の探知能力も最大限に引き上げられ、凶暴化させられ、妖魔に命じられるまま、妖魔狩りを、人間狩りをし続けたのである。桜雨の身体がどれだけ傷つこうが、妖魔が桜雨の身体を治療する事はなかった。


「怖い想いをさせてすまぬ。本当はずっとそなたの傍に居たい。だがのう。そなたのような思いをさせぬよう、わしと星影は妖魔を退治せねばならぬ。我慢をさせてすまぬが、どうか家で待っていてくれ」


 微かだった桜雨の身体の震えが大きく揺れ動くようになった。

 莠は呪文を唱えて桜雨を寝かしつけると、桜雨を抱えて歩き出した。


「ほんに大きくなったのう。ふふ。腕がもげそうじゃ」


(しかし、どうしたものかのう。これで何度目じゃ。妖魔退治をしておるわしと星影の元に来るのは。わしの分身はひどく怖がるから置いてはおけぬし。家に幾重にもかけ巡らせても結界は通用せぬし。かと言い、現場に連れてはこれぬし。ううむ。わしも星影も他の妖魔退治師との繋がりはな。くもないが。いいや。あやつに預けるのは。いや。だが。ううむ)


 いい加減で頭のねじを自ら十本ばかり引っこ抜いた常識知らずの科学者の知人を思い浮かべては、苦悶の表情を浮かべる莠であった。











「………ああ。くそっ」


 うろうろうろうろ、うろうろうろうろ。

 星影は或る店の前で何周を回ってのち、意を決し、店の中に入ったのであった。











「おら。これで遊んで待っておけ。もう来るんじゃねえ。いいな」


 新しい妖魔退治の任務が来た時であった。

 星影は眠っている桜雨に向かって、北海道産の鹿の角と狐のぬいぐるみを放り投げると、乱暴な歩き方で家から出て行ってしまった。




「俺は犬は大っ嫌いだ。あの犬め。可愛がってやってたのに、いきなり手を咬みやがって。むかむかする。くそっ。飼い主も同罪だ。狂犬病のワクチンの接種を怠りやがって。まあ。飼い主は殴ってやったがな」

「………」

「君の躾が悪いからあいつが来るんだよっ。分かってんのか?」

「むふふふふ」

「気色悪い笑い方をするなっ」

「桜雨。鹿の角も狐のぬいぐるみも気におっておったぞ」

「俺がここまでしてやったんだ。これで勝手に家から出やがったら、科学者に押し付けるからな」

「ううむ。うむ。大丈夫じゃよ。待っていてくださいとお願いしたからのう。任務が終わったら、いっぱい遊ぼうとも約束もした。星影も共にどうじゃ?」

「断固お断りだ」

「むふふ。素直じゃないのう。わしを羨んでおるくせにぃ」

「語尾を伸ばすな。きしょくわりい。ほら。集中しろ。団体さんのお出ましだ」

「星影こそ後れを取るでないぞ」

「っは。言ってろ」


 不遜な笑みを浮かべてのち、莠も星影も十体の妖魔に向かって駆け走ったのであった。











「いぬっころが二匹に増えやがった」


 人化を解いて狐の姿になっている莠と桜雨が、絡み合って眠っている様を見つけてしまった星影。おもむろにスマホを取り出しては、構えて、写真を撮ったのであった。

 手は小刻みに震えていたのできれいに撮れていないかと思われたが、そうでもなく。

 条件反射のようなものだ。

 どうしたとて、犬種を問わず犬を見ると身体が震えてしまうのは。


「………死ぬんじゃねえぞ。桜雨」


 寿命だったのか何だったのか原因は不明だったが、幼い星影に咬みついた瞬間、犬は事切れてしまったのだ。

 漆黒の瞳で星影をじっと捉えたまま。

 自分が死ぬかもしれないという恐怖。

 初めて触れた死への恐怖。

 際限なく膨らみ続ける恐怖は幼い星影の身には耐え難い深手を負わせてしまった。

 いい年をした大人になってもなお、消える事はない深い傷を。


「ッハ。なさけねえったらねえな」


 星影は震える手で莠の鼻の上で指パッチンしては、硬く手を握りしめたのち、今度は震えを制した手でもう一枚写真を撮ったのであった。


「なさけねえったらねえ」











(2025.9.7)



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