パン屋のばあちゃんの暖かい1日。

かがりかい@kagarikai

パン屋のばあちゃん


 朝はいつもより少し冷たかった。窓の外を行き交う人影はまだまばらで、石畳に残った昨夜の雨が朝日にきらりと光る。


 私の店「マデリンの窯」は、そんな街角にぽつんとある小さなパン屋だ。看板の文字は色あせ、窓辺にはいつもと同じ鉢植えのミントがある。


 見た目は何の変哲もない店だが、ずっと前に誰かが言ったように、良いパン屋は「記憶の温度」を売るものだと思っている。


 今日は、あの子が来る日かもしれない——そう思いながら、私はいつものように手を動かす。粉をはかり、水を注ぎ、イーストを手のひらで確かめる。


 生地をこねるとき、指先が思い出に触れるような気がする。戦のこと、燃えた屋根のこと、片腕を失ったあの青年の笑い声。


 あの夜々の臭いは、いまでもふっと鼻に戻ると胸が詰まるけれど、私の今はパンの匂いで満たしておこう。


「おはよう、マデリンおばあちゃん!」


 扉が開く音。小さな足音が店の中に弾けると、孤児院の子たちが二人、三人とにぎやかに飛び込んできた。ああ、今日も始まったな、と私は目を細める。


 彼らの手はまだ粉で白く、目は昼間よりもずっと澄んでいる。子供は未来の匂いを纏っている。私が一番好きな匂いだ。


「今日はジンの当番日だよね。沢山食べていきなさい」

「はーい!」


 彼らを見送ると、午前の忙しさがやってくる。常連の心許せる顔ぶれ、初めての旅行客、黙ってどら焼きを一つ買う年寄り——小さな町のパン屋には日々のドラマがくるくると回る。


 だが、私の目はついつい扉の方に向いてしまう。誰かを、探す癖が抜けないのだ。


――ジン。ただの名前だ。だが、あの名を聞くと、私の腰の辺りで何かがきゅっと鳴る。


 彼は、瓦礫の中で足を潰されて、目に恐怖を残していた小さな男の子。私にとってはただ、パンを分けてやった小さな子であり、孤児院にいる彼が時折ここへ来ては笑って去るのが好きだった。


「おばちゃん、今日は新しいのあるの?」

「あるとも。ほら、これ——元気パンだよ」


 私は焼き上がった丸パンを差し出す。外はカリッと香ばしく、割ると湯気がふわり。中には小さなハーブの砂糖漬けと、私がひそかに混ぜた蜂蜜がしみている。


 見た目は普通の菓子パンだけど、私の家のレシピには少しだけ「気持ち」が入っている。昔、食べ物で兵士の士気を支えたときのやり方を思い出して、余分な力をそっと入れておいたのだ。


 ジンは一口、二口と頬張ると、顔がふっと柔らかくなった。その様子を見て、私はああ、これでいい、と胸を撫で下ろす。


 パン屋のばあちゃんの仕事は、腹を満たすだけでなく、迷子になった心を温めることでもある。


 夕方、店の奥の小さな窓から西の空が燃えるような色に染まるのを見たとき、私の膝元に小さな箱があるのを見つけた。


 子供が忘れたおもちゃかと手に取ると、中には折り鶴と小さなメモが入っている。ジンの字で、


「おばちゃんのパンで明日も頑張れる」


 と走り書きされていた。涙が熱く目の中にたまる。


 この町は、いつまた嵐が来るかわからない。魔物の影は遠くなったが、完全に消えたわけではない。けれど、こうして誰かが明日の活力を求めて私の店に来てくれる。


 私ができることは何だろう——と考えると、答えはいつも同じだ。良いパンを焼くこと。目の前の人を今は温めること。遠くの未来を変えるのは、きっと小さな温もりの積み重ねなのだ。


 夜になると、私は閉店の準備を始める。棚を片付け、窓を拭き、釜に残った灰を掃く。釜の余熱がまだ手のひらに温かい。


 私はふうと深呼吸をし、窓の外の星を数える。


 明日もまた、誰かが来るだろう。よく笑う子、顔の皺が深い人、そして、あの小さな子。私は彼らに、明日もちゃんと食べる力を残しておきたい。


 世界がどれほど乱れようとも、ここに来ればパンがある。ここに来れば、少しだけ心が戻る——そんな場所でありたい。


 釜の火を消すとき、私は小さく呟いた。


「おやすみ、町の子たち。明日の朝も焼いてやるよ。」


 外は静かだ。だが、店の中にはまだパンの匂いが残る。その匂いは明日の記憶になる。私はそう信じている。


 今日もまた、小さな釜が大きな物語を支える一夜だった。

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