ペインティングムーン

雛形 絢尊

月と太陽

いつからだろうか、随分と昔のことにも思える。


この街には月が昇らなくなった。もちろん太陽も。


世界が暗く闇に包まれているような、それももう慣れっこであり、別にとはいえそれが普通になってしまったのだ。来る人来る人がみな手持ちのランタンを持っている。その光が揺れて私はカウンターの方に行った。人の数は2人、彼と、彼女。


「やあ、悪いね、甘いものが食べたくてね」


白髪が混じる初老の男性は私にこういった。


後ろでついてきているのは娘であろうか、どうやら不機嫌な表情を浮かべている。


「ごめんよ、うちで蓄えている果物はもうそろそろで底がつく。これで最後になるかもな」


そう、野菜も果物も陽がないということから育たなくなった。


かろうじて今ある果物も腐らせないように冷えた部屋、野菜室とでも呼ぼうか。その品の数も片手で数えるほどになった。いやもう残りがない。その一つばかりしかない。


「この子によ、最後に食べさせたくて」


まあ一つくらいはいい、だが数が増えるとこちらも変わる。


「いくつだ?」


男性は指を一本立て、ひとつ欲しいと促した。


こちらも交渉だ。今まで三代続いたこの店を閉めなければいけない、閉めざるを得なくなってしまったからだ。こちらも好きで閉めるわけではない。


「いくら出せるかによる、どうだい?うちの果物にいくら出せる」


彼の口はきつく閉ざされているように見えたが、やがてそう言い放った。


「4000円でどうだ」


私は即座に返答する。


「ダメだ、もっとだ。4000円じゃ今のご時世弁当すらも買えない」


「それじゃあ」と口を動かす彼の目に少しだけ潤いが見える。


「1万」


それでもまだ足りない、こちらも生活、生きることがかかっている。


「それでもダメだ」


私は話を逸らすようにこんなことを言った。


「お嬢ちゃん、この世界の反対側にたくさん、嫌というほど果物がある場所を知ってるか?


そこはいまもたくさん、覆われるように果物がうんとあるんだ。


将来はそこに行ったらいい」


娘はしゅんと顔をしてそっぽを向いた。


「そんな場所あるわけないさ、おれもこの足が動かなくなるまで船で色んなところに行ったさ、でも魚も取れなくなった。挙句、嵐の日の航海でこの足をやっちまったよ」


思えば男性はぎこちない歩きをしている。


私は話を戻すようにと声をかける。


「だが1万じゃダメだ、生活がかかってるのもお互い様だろ」


その直後どこかしらから声がした。


「こんな夜に何の騒ぎだい?」


2軒隣の花屋の婆だ。


「こんなんじゃ眠られないよ」


男性はこう言った。


「まだこのご時世に時間を気にする人間がいるなんてな、朝も夜も関係ないのによ」


「ねえ嬢ちゃん、あんたはただここの果物を食べたいだけでしょう?」


「それじゃダメだ、安すぎる」


婆は口を尖らせるようにこういう。


「何もかも高すぎるのよ、まあ生きるためには仕方がないけど」


言いたいことはわかる。だが生活、生活。


「生活があるんだ」と強く私がいうと言い返すように婆は、


「私もそうよ、生活。この人にもこの人にも」


と男性と娘を指差す。


「でも、ダメだ」


「頼む、」と懇願する男性の表情は徐々に曇っていくように見えた。


私の持つランタンの火が強く揺れた。


「あんた」と婆が少しずつ近づいてくる。


「そろそろ寿命が」


ああ、分かっている。こんな朝も夜もない世界になってから命が可視化されるようになった。


この各自が持つランタンはいのちの火ともいう。ある開発チームが開発し、自らの血液とオイルが循環し、火がついている。こんな風になってからは皆、寿命を火が消えるまでという認識で生きている。誰しもが亡くなった後、焼却されそのランタンを骨壷のようにして飾られる。


「いや、まだ死ねない」と私は思わず声を出した。


「何か理由が」と男性の声が聞こえる。「ああ、息子が帰ってくるまで」


花屋の婆もこれには同情したような、顔を顰めるのをやめた。


「みんな死んださ、家族は。だがうちを出た息子は生きているはずだ」


はずと言ったのは確証がないためである。だが生きていて欲しい、その願いが上回り、そう発言したのだ。


「息子が出てったのはなぜだい?」


これに関しての返答には戸惑った。喧嘩言い争い、その類の事柄だ。


「情けないだろ?」


「いいや別に、それくらいどこの家でもある」そう彼が返答した後に婆は笑った。


「うちもそんな感じで別れちまったよ」


そういや、あの爺さん、最近見ないと思ってきたけれど。


「亡くなったのさ、ずっとそれまで喧嘩ばかりしてたけど。今思えば喧嘩なくてしなくてよかったと思う。後悔なんぞしたって遅いがね」


間違いなくその通りなのだが、顎の下の辺りをかいてその時のことを思い返そうとした。だが不思議と何も覚えていない。まるで靄がかかったように思い出せない。なぜあんなにも強く言ってしまったのか、当たってしまったのか。なぜ出てってしまったのか。頭の中を色んな思考が駆け巡る。覚えているのは全てが消える前、太陽も月も昇っていた頃のこと。


「火が消える、もうじきに」


どうしようもないけど、その時が来るなんて分かっていた。


どれくらい会っていなかったのか、幼い頃の姿がやけにフラッシュバックする。


逸るその気持ちが私の中を濁流のように湧き立つ。


妻も、もう1人の息子も食べるものがなくて骨になった。


飢餓が毅然と蔓延したあとすぐに私の思い出たちはランタンの中に転がっている。


会いたい、会いたい。生きているならば息子に会いたい。


揺れる、揺れる、また火が揺れる。


ひとしきり静まり返った空間が歪むように男の声がした。


「何してんの?」


一同が言葉を失った。中でもこの男は何も言えずに声を失っていた。


「そんな」


「なんだよ、久しぶりに会うっていうのに」


その声は息子のものであった。


相変わらずその声は聞き馴染みの良いものである。


「生きていたのか、え?生きていたのか?」


「ほら、母ちゃんの命日今日だろ?親父こそどうしたんだよそんな驚いて」


唖然としたまま声を出す。


「だって、だって」


「一年ぶりだな親父。ところで何やってんだ?」


淡々と彼が声を出す。


「いや別に、別に何ともないわ」


徐々に私の顔が暖かくなる。いわば、焦りというものも出始めた。


「それで、幾らになる」と男性の声がした。


「どうなんだ親父?」


「幾らなの」と続くように声を聞いた。


声にならない声を屈まられる。ひたすらひたすらにそれを抑え込んだ。


「食え、も、持ってけえ!」


翻るように声を上げた。


最後の一つ、ではなく、たかがひとつ。


そう考えが変わったのは次の瞬間である。


「俺さ、案外できちゃったんだよ、配合とかそりゃ研究したけどさ、それをやってみない?船で世界の反対側までいっちまったよ。試作品いっぱい持ってきたから」


1年間音信不通だった息子が店を継ぐだと?なに、笑わせる。


絶対にダメだそんなこと。1から鍛え直してや、、、


「どうするの」と婆の声。


「店畳もうとしてたんだろ?これで俺が四代目だよ」


炎が激しく揺れる、燃え盛るようにそれが大きくなった。


「いいってことか?」


その数秒の間のあと、私たちは朝も夜も関係なしに大きな声で笑った。


息子が店の中を見渡してこう言った。


「昔ながらでさ、なんか新鮮味がないんだよね、なにか綺麗な色とかあればな」


拳を軽く握りしめた。


男性の娘が何も言わないままこちらをみた。


「お、俺に何か文句でもあるのか」


追撃か、というほどはやく男性が言った。


「うちの娘は絵が得意で、どうだ?代わりとは言ってはなんだが」


他者の視線にこれほど矢を向けられていると思ったことはない。


「分かった。分かったが、下手な絵じゃ承知しねえ、いいな?」


その途端また違う声が聞こえた。男性だ。


「なんだ?店畳むのか?」


ランタンが近づいてくる。一歩二歩と。


向かいの酒屋の親父だ。少し面倒なことになったと、肩を落とす。


「いやいや潰れませんよ、まだ店は畳まねえす」


何の騒ぎだ?と近づいてきたは結構、だが男の口臭は尋常じゃないほど酒気を帯びたものであった。


虚な目が急にパッと開かれた。


「おめえ、息子だなあ、生きてたか」


笑みを浮かべる酒屋の親父、数年その笑顔を見ていなかった。たかが一年、されど一年。


「俺が継ぐんす、今決めました」


まったく、かける言葉もない。


見た先のものを何も考えずすぐに言った。


「お嬢ちゃんそのチョークどこで持ってきた」


男性の娘が持つその白いチョークを指さしていった。


「俺があげたんだ」と息子。


思えば怒りを通り越して、笑っている時間が増えていると感じた。


それは暗闇でばかり見ていた視界が、柔らかな橙色になっていくことからである。


「そういや、あんた、全然顔出してなかったねえ」と婆。


「ばばあ、生きてたか」と酒屋の親父。


揺れる炎、こちらを見て笑う息子、店の地面、コンクリートにうさぎを描く娘、


「昔、月にはうさぎがいたんだ」と声をかける男性。


こちらからもこちらからも人が寄ってくる。


みんな騒ぎだって、こんな夜にありがた迷惑だよ。


ひとつひとつ、ランタンが近づいてくる。


四方八方から近づいてくる。


こんな町にこんな数の人間がいたんだなあ、なんて思いながらそれを眺めていた。


幼い頃に地面を見て思ったこと、蟻の行列を間近で見ているかのように人が徒然と並んでいた。そんなにフルーツはない、これから俺が認めたらの話、息子に譲ってやるけどな。


だがまだ俺の店だ。そう思うとまた強く炎が揺れる。


「親父、まだこんなに繋がりがあったんだなあ」なんて息子は言うけど、


ありがた迷惑だよ、やっぱり、俺はそんな人間じゃなかった。


「みんなここのフルーツを食べにやってきたんだって」


「みんな、また売り出したんだって勘違いしてみんな起きたらしい」


「息子の果物は相当美味いようで即完売しちまったって」


ははっ、そんな声が聞こえてきて不意に笑ってしまったよ。


一人称が変わって俺になる。


親父があの日亡くなってそりゃ、もちろん悲しくなった。


母親の命日と一緒だなんて思わなかったよ。


あのあと遠くの町の人から連絡がたくさんきた。


久しぶりに太陽を見たって、あんな美しい太陽は初めてだって。


親父、あの子が描いたうさぎはどういう意味か知ってるか?


結局ペンキで塗って、店がうさぎだらけになった。


まあ、いいや、でもすげえよな。


売れ行きは好調で何とか上手くやってるよ、店の名前も変えちゃったけどな、


それに肖って「月と太陽」って店にしたよ。


なんとかやってるよ、親父はどうだい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ペインティングムーン 雛形 絢尊 @kensonhina

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ