夢喰いの部屋

私には夢がある。


それは——大きなリュックを背負って世界1周の旅に出る事だ。


見知らぬ国の風に吹かれ、見知らぬ人たちと街角で笑い合い、異国の料理に舌鼓を打ち、毎晩違う宿に泊まる。


考えるだけで胸が弾んだ。お金も貯め、英語も毎日勉強した。地図帳には行きたい場所に小さな赤い丸をつけていた。


だけど、その夢は叶わなくなった。


お腹に新しい命が宿った為だ。


結婚をして、仕事を辞めて、家を買って、

そうして“ちゃんとした大人”になるのだと、

彼が当然のように言った。


私はそのたびに笑って頷いた。


まあ、確かにそうだろう。


お腹が大きくなる前に、私は1人で小さな旅に出た。


山の上にある、小さなホテル。


そこの客室は“夢喰いの部屋”と呼ばれているらしい。


1晩泊まると、自分の夢を綺麗さっぱり忘れられるというのだ。


この“夢”という言葉は不思議だ。


眠って見る夢も、叶えたい夢も、英語も同じ“dream”。


人が夢を見ると書いて“儚”と読む。


——きっと夢とは、触れた瞬間に溶けてしまうものなのだろう。


クリーム色の古いバスが、黒い煙を吐きながらゆっくりと峠道を登っていく。


窓の外には、まだ雪の名残をとどめた山肌。


やがてバスは、小さな湖のほとりで停まった。


私はそこで降りた。


目の前に現れたのは、木組みの外壁と、淡いピンク色の漆喰が愛らしい小さなホテル。


窓辺には真っ赤なゼラニウム。


三角屋根の上には風見鶏。


鍛冶屋が作ったアイアンの看板と、古いガス灯が揺れている。


彫刻が施された木製のドアの取っ手は、手が触れるところだけ光っている。きっと、今まで多くの旅人を迎えてきたのだろう。


受付を済ませ、鍵を受け取り、赤い旅行鞄を抱えて狭い階段を上がる。


そして、私は2階の奥——“夢喰いの部屋”と書かれた札のある扉の前に立った。


鍵の金属音が、廊下に小さく響く。


扉を開けると、そこは古い木の香りがする小部屋だった。


窓の外には湖が見え、鳥の声がかすかに聞こえた。


部屋の中には、小さなベッドと机の上に羽根ペン1つ。


そして、スズランの形をしたの乳白色のペンダントライト。


テレビも時計もない。


ただ、時間の流れだけが静かにそこにあった。


——なるほど……“夢喰いの部屋”とは、こういう場所なのかもしれない。


私はベッドに腰を下ろし、リュックの中から、くたびれた世界の地図帳を取り出した。


ページのあちこちに、赤い丸が残っている。

指でその印をなぞりながら、ふっと笑った。


「とりあえず、ここが私の旅の終わりね。いい旅だったわ。ありがとう、私の『夢』….」


お腹を撫でると胸の奥で、何かが静かにほどけていく気がした。



        25年後



夢喰いの部屋に泊まり、夢のことなどすっかり忘れていた私に、娘の理沙が話しかけた。


「ねえ私、就職する前にママと世界1周旅行に行きたいんだ」


私は言葉を失った。


自分がかつて見た“夢”を、娘が今、口にしている。


だが理沙の大学卒業に合わせて、住宅ローンを一気に繰り上げ返済してしまった今、お金なんてない。


「お金? 私が出すわ」


理沙はあっけらかんと笑った。


「ママがいい教育をしてくれたおかげで、家庭教師や翻訳の仕事がもらえたでしょ?コツコツ貯めたの」


「理沙、だめよ。それはあなたがカフェを開きたいって言ってた夢のための資金でしょう?」


「えっ? そんなこと言ったっけ?」


私は驚いて言葉を詰まらせた。


あれほど語っていたはずなのに——理沙はその夢を、すっかり忘れているようだった。


いくら私が話しても、理沙は笑って首を傾げるばかり。


そして数日後、理沙は本当に航空券を2人分買ってきてしまった。


「ママ、準備してね。来週には出発だから」


呆然とする私をよそに、理沙は楽しそうに旅程を語り始めた。


「ねぇ、ウィーンでは老舗のカフェに行こうよ。 それからパリではモンマルトルのカフェでクロワッサン!ロンドンでは紅茶も…あ、ママ、ベネチアにも行こう」


私はぽかんと口を開けたまま、理沙の勢いにただ頷くしかなかった。


「それから北京の路地裏で工芸茶、アラブではスパイスマーケットの近くでアラビックコーヒー、

モロッコのフェズではミントティー。

デリーではカレーと一緒にチャイだね。


アメリカにも行ってみたいなぁ。ニューヨークの街角でコーヒー片手にホットドッグ!南米ではマチュピチュで雲海と遺跡を見ながらマテ茶。

あ、最後は南の島でのんびりしよう。ハンモックに揺られて、波の音を聞きながらココナッツミルク……最高じゃない?」


「……理沙……行こう!」


——聞いているうちに、私は心が踊った。


あまりにも楽しくなってきたので「娘に旅費を出してもらう」と言う罪悪感がどこかに吹き飛んでしまうほどだった。


       

         25年後



「ママ、お願いがあるんだ…。カフェを開きたいんだけど、店長になってくれないかな?」


理沙の娘・理果は唐突にそう言い、理沙は飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになった。


——かつて、自分が夢見ていたカフェの経営。


開業資金の頭金までは貯めていたが、ママと世界1周旅行へ行くためにすべて使ってしまったのだ。


その夢は、“夢喰いの部屋”に泊まって綺麗さっぱり忘れたはずだった。


「理果、あなた動物が大好きで、牧場を経営したいって言ってたじゃない?高校を卒業してから住み込みで牧場で働いてたでしょ? どうして急に?」


「えっ?そんなこと言ったけ?」


あれほど牧場を作りたいと、子どもの頃から騒いでいたのに……どういう風の吹き回しだろう?


娘の牧場の開業資金に手をつけるなんて、親としてありえない。


「ママ、なに黙ってるの?もう作り始めてるよ。これ、見て」


理果はバッグから1枚の完成予想図を取り出した。


理沙はそれを見て、思わず息をのんだ。


「えっ!?これって…」


あまりの嬉しさに、娘の資金の心配など、どこかへ吹き飛んでしまうほどだった。



        2ヶ月後



私は自宅の書斎の机から古びた1冊のノートを見つけた。


可愛らしい天使の絵が表紙のノート。


かすかに見覚えがあった。


不思議に思い、ノートをめくると全てを思い出した。


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私には夢がある。


それは——大きなリュックを背負って世界1周の旅に出る事だ。


見知らぬ国の風に吹かれ、見知らぬ人たちと街角で笑い合い、異国の料理に舌鼓を打ち、毎晩違う宿に泊まる。


考えるだけで胸が弾んだ。お金も、それなりに貯めた。英語も毎日勉強した。地図帳には行きたい場所に小さな赤い丸をつけていた。


だけど、その夢は叶わなくなった。


お腹に新しい命が宿ったのだ。


結婚をして、仕事を辞めて、家を買って、

そうして“ちゃんとした大人”になるのだと、

みんなが当然のように言った。


私はそのたびに笑って頷いた。


まあ、確かにそうだろう。


——お腹が大きくなる前に、私は小さな旅に出た。


山の上にある、小さなホテル。


そこは“夢喰いの部屋”と呼ばれているらしい。


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えっと……これは理沙が生まれる前……。


だから、私が50年以上前に書いた物語だ。


理沙を身籠り、世界1周旅行の夢を昇華させる為になんとなく書いた小さな物語。


なぜ今頃、机の上に置いてあるのだろう?


ノートをめくると続きが、書いてある事に気がついた。


筆跡からして娘の理沙だろう。


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私はママの夢を叶える為に、カフェを経営すると言う夢は一旦諦める事にした。


大好きなママと世界のカフェを巡れば、それでも構わないと思ったからだ。


私もこのノートを見て“夢喰いの部屋”に泊まってみたくなった。


ここに泊まれば気分良く、ママと世界1周に旅立つ事ができるだろう。


クリーム色の古いバスが、黒い煙を吐きながらゆっくりと峠道を登っていく。


窓の外には、まだ雪の名残をとどめた山肌。

やがてバスは、小さな湖のほとりで停まった。私はそこで降りた。


目の前に現れたのは、木組みの外壁と、淡いピンク色の漆喰が愛らしい小さなホテル。


三角屋根の上には風見鶏。


鍛冶屋が作ったアイアンの看板と、古いガス灯が揺れている。


ここから先はほぼ私と一緒だ。


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理沙もあの部屋に泊まったのだと思うと嬉しくなった。


彼女は2ヶ月前から、カフェのオーナーになった。


その資金は、なんと孫の理果が出してくれたと言うではないか。


牧場を経営すると言う夢を捨ててまで…。


私はもしや、と思いノートをめくった。


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私はママの夢を叶える為に牧場を経営すると言う夢を一旦諦める事にした。


高校を卒業してから7年間住み込みで牧場で働いていたから、かなりの貯金はあった。


牧場の周りは何もなかったので、お金使うところがなかったのがよかったのだろう(笑)


大好きなママとカフェを経営できればそれでよかった。


私もこのノートを見て“夢喰いの部屋”に泊まってみたくなった。


ここに泊まれば気分良く、ママとカフェ経営ができるのだろう。


クリーム色の古いバスが、黒い煙を吐きながらゆっくりと峠道を登っていく。


窓の外には、まだ雪の名残をとどめた山肌。


やがてバスは、小さな湖のほとりで停まった。


私はそこで降りた。


目の前に現れたのは、木組みの外壁と、淡いピンク色の漆喰が愛らしい小さなホテル。


窓辺には真っ赤なゼラニウム。


三角屋根の上には風見鶏。


鍛冶屋が作ったアイアンの看板と、古いガス灯が揺れている。


彫刻が施された木製の扉を開けた。


受付を済ませ、鍵をもらい、赤い旅行鞄を抱えて階段を上がる。


私は2階の奥——“夢喰いの部屋”と書かれた札のある扉の前に立った。


鍵の金属音が、廊下に小さく響く。


扉を開けると、そこは古い木の香りがする小部屋だった。


窓の外には湖が見え、鳥の声がかすかに聞こえた。


部屋の中には、小さなベッドと古びた机にある羽根ペン1つ。


そして、スズランの形をしたの乳白色のペンダントライト。


テレビも時計もない。


この部屋で、私は考えた。


ついえた夢を私の復活させる方法を…。


おばあちゃんに援助してもらって、カフェの隣に牧場を作るのだ。


小さくてもいい。


鶏卵用のニワトリ達と搾乳できるメスのヤギ達がいればそれで十分。


カフェのメニューでも活躍できるだろう。


……と言う事で霞おばあちゃんお願いします!!


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霞とは私の名前だ。


私は読み終えると可笑しくて笑いが止まらなかった。


この妄想ノートは理沙に見つかったのだろう。


その後、理沙も“妄想で“夢喰いの部屋”に泊まって

加筆し、理果に見つかった。


そして、理果も“妄想”で“夢喰いの部屋”に泊まり、加筆し私の机にこっそり置いたのだろう。


あまりの嬉しさに、胸が高鳴る。


送金する前に、私は思わず理果へ電話をかけてしまった。




        1か月後



オープンしたカフェに行くのは今日が初めてだ。


旦那とバスに乗っているが、どうやら次の停留所の様だ。


カフェと牧場の開業祝いということで、おしゃれをして手には大きな花束を抱えている。


降車ボタンを押すと一気に胸が高鳴った。


一体どんなカフェなのだろう?


理沙と梨花が言うには「絶対に期待を裏切らないから楽しみにしていてね」とのことだ。


停留所の名前は「高草湖入り口」。


バスから降りカフェを見つけると、私は言葉を失い、呆然と立ち尽くしてしまった。


“夢喰いの部屋”がある小さなホテルのイメージそのままだったからだ。


目の前に現れたのは、木組みの外壁と、淡いピンク色の漆喰が愛らしい小さなカフェ。


窓辺には真っ赤なゼラニウム。


三角屋根の上には風見鶏。


古いガス灯が揺れている。


鍛冶屋が作ったであろう黒いアイアンの看板には「cafe 夢に翼」の文字。


その横には、できたばかりの小さな牧場に数頭の山羊と放し飼いのニワトリやガチョウがいる。


店先には、理沙と理果が笑顔で手を振って私達を待っていた。






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