遠吠え

いつもなら耳に心地よいと感じる風の音が、遠くから響くオオカミの遠吠えのように感じた。


それは、リエが深山幽谷の地、山王村に引っ越してきて1年ほど経った日のことだった。



         * * *



東京で働いていたリエは、都会の喧騒から離れ、自然に囲まれた静かな暮らしを求めてこの村へ移住した。


インターネットさえ繋がれば、仕事がどこでもできる時代だ。


もし気に入らなければ、また別の場所へ引っ越せばいい。


そんな軽い気持ちでの移住だった。


最初のうちは、新しい生活に心が躍った。


目を閉じれば、山の静寂が全身を包み込む。


鳥のさえずり、虫たちの声、小川のせせらぎ…。


東京では決して味わえない「自然の音」に心癒される日々だった。


しかし、半年も経つと、その感動は次第に薄れ、代わりに「退屈」が心の中を占め始めていた。


同年代の男性は少なかったからだ。一応、いる事はいるのだが、男尊女卑を感じ、お近づきになりたくないタイプばかりだった。


しかし、村人たちとの交流は、思っていたほど大変ではなかった。


必要以上に干渉されない様に「話しかけないでオーラ」を出し、挨拶を交わす程度の距離感を保つことができたからだ。それでも村の人々は必要な時には頼めば手を差し伸べてくれる。


リエにとって、この“程よい距離感”は理想的だった。


しかし、この“程よい距離感”が、村人たちの間では違う意味で受け取られていたのだ。


「今度は郊外の海が見える場所で暮らそうかしら…」


リエはそう考えながら、日々を過ごしていた。そんな彼女の心境をよそに、村には少しずつ不穏な空気が漂い始めていた。


そして、それを象徴するように、オオカミの遠吠えが夜な夜な聞こえるようになったのだ。


その遠吠えは日に日に大きくなり、徐々に、そして確実にリエの家の近くまで近づいていた。


その声の正体がわからないまま、リエは不安な夜を過ごした。


それから、リエはインターネットで「オオカミ」について調べ始めた。


オオカミのような声が村のどこかに残る伝説と関係しているのではないか――そんな考えが頭をよぎったからだ。


検索を進めるうちに、オオカミに関する様々な事実が浮かび上がってきた。


ニホンオオカミが絶滅したのは、明治以降のことだった。西洋犬の導入によって広まった狂犬病やジステンパーが原因で、急激に個体数が減少したという。


それだけでなく、オオカミが家畜に被害を及ぼすとみなされ、政府主導で毒殺や猟銃による駆除が行われ、個体数の減少にトドメを刺した、との事だった。


だが、江戸時代以前はまったく異なる存在として捉えられていたらしい。畑の農作物を荒らす猪や鹿を捕食するオオカミは、「山の守り神」として崇められていた地域もあったというのだ。


調べていくとこの山王村にも、そのような伝説が残っているらしい事がわかってきた。


オオカミを祀る祠(ほこら)が山中深くにひっそりと建てられ、そこに生贄を捧げていたとか——。



         * * *



翌日、リエは買い物の帰り道に村人のお爺さんにさりげなく尋ねてみた。


「この辺りにオオカミを祀った祠(ほこら)があるって聞いたんですけど、知っていますか?」


その瞬間、お爺さんの表情が一変した。


まるで何かを隠すかのように硬直し、言葉少なにこう答えた。


「そんなものは昔の話だ。今はもう誰も行かない場所だよ。行く必要もないしね」


それ以上は聞き出せなかった。



         * * *



「ワオーーーー!!!」


満月の夜、ついにその叫び声は家の玄関先から聞こえてきた。


「ワオーーーー!!!」


「ワオーーーー!!!」


「ワオーーーー!!!」


しかも、1匹ではない、群れで数匹いるようだ。


布団の中で身を縮めながら、リエは心臓がドクドクと鳴るのを感じた。


勇気を振り絞り、ドアスコープを覗いた瞬間、リエは驚愕した。


そこにいたのは、オオカミではなかった。


玄関先に立ち尽くしていたのは、村人たちだった。


数人の大人が、四つん這いになり、月に向かって遠吠えのような声を上げていたのだ。


「どうして村の人たちが…?もしかして、私を生贄に…?」


恐怖で足がすくみ、リエはその場から動けなくなった。


スコープ越しに見える村人たちの姿は、次第に異様さを増していく。


「ワオーー!!!!!」


彼らの動きは徐々にエスカレートし、地面を這い回ったかと思えば、歯を剥き出しにして低く唸り声を上げる者もいた。


声が一際大きくなり、リエは思わず後ずさった。


玄関の外からは「ガリッ…ガリッ…」とドアを引っ掻く音が聞こえた。


「ガチャ…ガチャ…」誰かがノブを回そうとする音も聞こえる。


「誰か!助けて…!」


震える声で叫んだが、助けを求める相手などいなかった。


隣の村までは十数キロもあるのだ。


逃げる術もないまま、リエはドアに背をつけて必死に鍵を押さえた。


すると、外の声が急に静かになった。


その時、リエは異変に気づいた。


「…窓から…見られている…?」


恐る恐るカーテンを開けると、そこには血走った瞳が浮かんでいた。


村人の1人が外から彼女をじっと見つめていたのだ。


その表情には笑みとも怒りとも取れない、奇妙な感情が浮かんでいた。


リエは見なかった事にして、そっとカーテンを閉めた。



         数分後



ガッシャーン!!!!!


バリッ……バリバリッ……!


鋭い音を立てて、窓ガラスが粉々に砕け散った。


そして、村人たちは一斉に部屋へと雪崩れ込んだ。


しかし、そこにリエの姿はなかった。


村人達はトイレやバスルーム、クローゼットも探すが、どこにもいない。


しんと静まり返る室内。


夜風が吹き込み、カーテンが静かに揺れる。


ふと、ダイニングテーブルの上に何かが置かれているのが目に入った。


それは、1つの「狐面」だった。


赤と白に彩られた仮面が、かすかに月明かりを反射しながら、彼らを嘲笑うかのように静かに佇んでいた。


「……狐に……つままれた?」


「くそっ、あの女狐め!」


次の瞬間、彼らの身体が静かに震え始めた。


やがて段々と小さくなり、茶色い毛並みが浮かび上がる。


長く伸びる鼻先、丸い耳、ふさふさと揺れる尻尾——。


彼らは本来の姿、「狸」へと戻っていった。

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