第2話 村を救う

エリアスが領地の村を訪れていたその日、空は澄み渡り、穏やかな陽気が広がっていた。彼は隠居同然の静かな生活を望み、普段は目立たぬよう地味に過ごしている。

しかし、そんな彼の願いも虚しく、運命は静寂を長くは許してはくれなかった。


 「ゴブリンだ! ゴブリンの群れが山から降りてきたぞ!」

 突如村外れから響いた悲鳴混じりの叫び声に、村人たちは色めき立った。穏やかな日常が一変し、子どもを抱えた母親が慌てて走り、老人は戸口を塞ごうと杖を引きずった。普段は平和なこの村にも、魔物の恐怖が否応なく押し寄せる。


 エリアスは咄嗟に広場の真ん中で立ち尽くした。心臓が高鳴り、手にはじっとりと汗が滲む。本来なら、こうした騒ぎに関わるのは彼の望むところではない。

静かに隠居生活を送りたい――それが彼の信条であり、この異世界に転生してから一貫して守ってきたスタンスだった。

 「……しかし」

エリアスは小さく息を呑む。目の前では、農具を手にした壮年の男性が震える手でゴブリンに立ち向かおうとしていた。小柄とはいえ醜悪な緑色の肌を持つゴブリンが数匹、ぎらぎらと赤い目を光らせて村へ迫っている。牙を剥き出しにしたその顔は、悪意と飢えに満ちていた。


 エリアスの脳裏に、前世の記憶がよぎる。助けを求める声を無視することなど、彼にはできなかった。転生して得た第二の人生でも、自分の正義感までは捨てられない。たとえ目立つ結果になろうとも、目の前の人々を見殺しには――できない。


 彼は素早く周囲を見渡した。幸い誰もエリアスに注目していない。村人たちは各々避難するのに精一杯で、彼の存在など気にも留めていない様子だ。これは好都合だった。

 「よし…やるか」

 エリアスは覚悟を決め、静かに呟いた。普段の地味貴族の仮面を脱ぎ捨て、彼はその身に宿る魔力を密かに呼び覚ます。


 ゴブリンたちが村の柵を乗り越え、一番近くの納屋に押し寄せた。醜い笑い声とともに、一匹が錆びた短剣を振り上げる。納屋の戸口では、幼い少女が泣きじゃくりながら立ちすくんでいた。

「誰か、助けて!」

少女の悲痛な叫びが木霊する。

 エリアスは躊躇しなかった。彼は自身の手を軽く前方に突き出す。

実戦で魔法を使うのはこれが初めてだったが、もはや考えるより先に体が動いていた。

――本来なら呪文を詠唱しなければ発動しないはずの魔法。

しかしエリアスにはそれが不要だった。彼は無詠唱で魔法を発動できる、稀有な力を持っている。


 彼の掌にわずかに力が込められた瞬間、小さな火花が弾けた。それは瞬く間に眩い炎の球となり、彼の指先から音もなく飛び出していく。

 「ファイアボルト…!」

 エリアスが心の中で呟くと同時に、炎の弾丸は空気を切り裂きゴブリンへ一直線に飛んだ。


 次の瞬間、少女に迫っていたゴブリンの背中で火球が炸裂した。

ドンッ!

鈍い爆発音とともに火の粉が散り、ゴブリンは悲鳴を上げる間もなく吹き飛んだ。

 「ギャギャッ!?」断末魔の叫びすらか細く、黒焦げになった魔物の亡骸が地面に転がる。

その突然の出来事に、少女は泣くのも忘れて目を見開いた。

 エリアス自身も、一瞬自分の放った魔法の威力に驚いたほどだった。しかし、安堵している暇はない。残りのゴブリンたちが仲間を焼かれてざわめき立ち、こちらに気づいたらしく鋭い視線をエリアスに向けたからだ。


 「まずい、見つかったか」

エリアスは苦い顔でつぶやく。計算違いだった。

火球の炸裂は派手すぎて、隠密どころではない。ゴブリンのみならず、何人かの村人たちも今の一撃に気づいてこちらを見ていた。

煙が風に流れ、エリアスの姿があらわになる。

「……くっ」

彼は咄嗟に隣の茂みへ身を隠した。


 ギィエエエッ!!

怒り狂ったような金切り声を上げて、残った四匹のゴブリンが一斉にエリアスの潜んだ茂み目がけて突進してくる。

中には先ほどより一回り大きな個体も混じっていた。リーダー格だろうか、手にした棍棒を振り回し、木立をなぎ倒す勢いで迫ってくる。


 「仕方ない…次はこれだ。」

 エリアスは茂みの中で静かに息を整え、再び魔力を練り上げた。

今度は片手ではなく両手を地面に当てる。

彼の頭の中で明確なイメージが描かれた。――大地の力を借りる魔法、土属性の術式が瞬時に編み上げられる。無詠唱での多重属性行使は、本来常識外れの芸当だが、今の彼には可能だった。


 「来い、ストーンブレット!」心の中で叫ぶ。

 直後、エリアスの足元の地面がぼこりと盛り上がり、小石大の土塊が無数に浮かび上がった。

それらは彼の指先の動きに呼応するように宙を舞い、一気に弾丸となって飛散する。ヒュンヒュンヒュンッ! 空を裂く音とともに土の弾丸がゴブリンたちに降り注いだ。


 先頭を走っていた小柄なゴブリン二匹は、額や胸に穴を穿たれ、そのまま前のめりに地面へ崩れ落ちた。

「ギギャァ!」

悲鳴をあげたのはリーダー格の大きなゴブリンだ。肩口に深々と土の砲弾が突き刺さり、赤黒い血が噴き出している。

しかしそれでも怯まず、ゴブリンのリーダーは狂ったようにエリアスへ突進を続けてきた。


 「なんてタフさだ…」エリアスは舌打ちした。残るもう一匹も石礫を受けて足を引きずりながら、彼を狙って来る。二匹同時相手でも、怯むわけにはいかない。

ここで自分が倒れれば、村人たちが危ない。エリアスは右手に青白い光を集めた。


 ピリリ…と空気が焦げるような音がする。

エリアスの周囲に淡い光の粒子が集まり、やがて彼の掌に小さな雷の槍が形成された。

雷属性の魔法もまた、彼の得意とするところだった。

 「これで終わりだ。」

エリアスが低く宣言するように呟いた刹那、雷の槍は一直線に飛翔した。

標的は目の前まで迫ったゴブリンのリーダー。

 

ズガァンッ!!


稲妻が炸裂し、眩い閃光が辺りを焼いた。雷撃をまともに受けたリーダーの巨体は、そのまま反転するように地面に叩きつけられる。

「ギィ……」

絞り出すような唸り声を最後に、動かなくなった。


 残った最後の一匹は、その光景を見て明らかに怯んでいた。先ほどまでの殺気立った様子は鳴りを潜め、後ずさりに逃げ腰になる。

「キ、キシャァ…」

明らかに動揺している。エリアスはわずかに眉を上げた。自分でも予想以上の戦果だった。この程度のゴブリンなら脅せば逃げ出すかもしれない――そう考え、彼は一計を案じた。


 エリアスはあえてゆっくりと茂みから姿を現した。フード付きのマントを身につけ、顔半分を影に隠しながら、あたかも“どこかの冒険者”を装ってみせる。右手には先ほどよりさらに大きな火球を生み出し、ゴブリンに向けて見せつけた。

 「……」

何も言わず、しかし明確な殺気を込めて睨みつける。殺られる前に逃げろ――そう言わんばかりに。


 「ギィイッ!」案の定、最後のゴブリンは悲鳴をあげると、踵を返して森の中へと逃げていった。慌ただしい足音が遠ざかり、やがて静寂が戻ってくる。エリアスは大きく息を吐いた。


 広場には、信じられないものを見るような表情の村人たちがぽつぽつと顔を出し始めていた。

恐る恐る物陰から身を乗り出し、今起きた出来事の余韻に浸っている。

あの惨劇がほんの数十秒の間に終わりを告げたのだ。誰もが耳を疑った。ゴブリンたちは一体どうやって倒されたのか? 目撃した者も、何が起きたのか理解できずにいた。


 やがて、先ほど泣いていた少女が我に返ったようにしゃべりだした。

「…さっき私の前にいたゴブリンが、急に燃えて……」

少女は涙の乾いた目を瞬かせながら必死に説明しようとする。

しかし幼い彼女には状況をうまく言葉にできない。

「火の玉が飛んできて、ゴブリンが倒れて……」

 「誰かが助けてくれたのかい?」

傍らで彼女を抱きしめている母親が問う。少女は小さく頷いた。

「うん…多分…魔法使いのお兄ちゃんが…」

 その発言に、周囲の村人たちがざわりとどよめいた。「魔法使いだって?」「こんな村にそんな人がいるのか?」「いや、聞いたことがないぞ…」大人たちは口々に憶測を飛ばす。

無理もない、この辺境の小さな村に、高度な魔法を使える人物などいるはずがないのだ。


 その人々のざわめきを余所に、エリアスはそっと背を向けてその場を離れようとしていた。役目は果たした、あとは静かに立ち去るだけだ。できれば誰にも気づかれずに――。

 しかし世の中そううまくはいかない。「あ、あの…エリアス様?」震えるような声が背後からかけられた。エリアスはびくりと肩を震わせる。振り返ると、そこには一人の若い女性が立っていた。村長の娘であるマリアだった。エリアスが村を訪れると世話を焼いてくれる、気立ての良い娘だ。


 「今…エリアス様が、助けてくださったんですか?」

 マリアは戸惑いと期待の入り混じった表情で尋ねてきた。その視線はエリアスの手元、今まさに魔法を放ったであろう手に向けられている。彼女は勘が鋭い。まさか隠密行動を見られていたのかと、エリアスは内心冷や汗をかいた。


 「ぼ、僕が? いやいや、まさか」

エリアスは慌てて両手を振り、乾いた笑みを浮かべる。

「僕は何もしていないよ。物陰に隠れていただけで…」

 「でも…」

マリアはエリアスの足元に目を落とした。

見ると、その裾には土埃と草の葉がこびりついていた。森の茂みに飛び込んだ痕跡が如実に残っている。

さらによく見ると、肩のあたりの服も焦げたように黒ずんでいた。先程の雷撃の際にできた焼け焦げだ。マリアの表情にハッと理解の色が浮かぶ。

「エリアス様…やっぱり…!」

「これは、その…」

まずい、とエリアスは喉元まで出かかった言い訳を飲み込んだ。


 マリアに追及され、返答に窮するエリアス。しかし幸か不幸か、そこへ村長が駆け寄ってきてマリアを遮った。


「マリア! 無事だったか!」

「お父さん…!」マリアははっとして振り向いた。エリアスはその隙に一歩後ずさる。


「マリア、けがはないか? まったく、危ないところだった…」

村長は娘の体を抱きしめ、安堵に肩を震わせている。その背越しに、マリアは再度エリアスの方を見た。エリアスは苦笑いを浮かべ、小さく首を横に振って見せる。どうか黙っていてほしい――彼は目でそう訴えた。


 マリアは一瞬戸惑ったが、父に抱きしめられながらもコクリと頷いた。その頬は赤く上気し、興奮と安堵、それに秘密を共有したことへの高揚が混ざったような複雑な表情だった。

エリアスは安堵しつつも、胸の内がざわつくのを感じた。彼の正体が一人の少女に知られてしまったかもしれない…そう思うと、早くも静かな隠居生活の雲行きが怪しくなってきた気がする。


 「今のは一体誰の仕業だったのだ?」

村長は周囲の村人たちに向き直り、大声で問いかけた。他の大人たちも首をかしげている。「強力な魔法が使われたようだが…この村にそんなことのできる者はおらんはずじゃが…」

 エリアスは息を殺して成り行きを見守る。マリアが余計なことを言わないかと気が気ではなかった。

 しかしマリアは上目遣いにエリアスを一瞥し、小さく息を吸うと、

「……きっと通りすがりの冒険者の方ですよ!」と思い切った声で叫んだ。

 「冒険者…?」

村長が怪訝な顔をする。マリアは一度頷き、それからあどけない笑みを浮かべて父に言った。


「ええ。きっとどこかへ行く途中で立ち寄った、腕利きの冒険者さんが助けてくださったんです。ほら、昔お父さんが話してくれたじゃない。旅の勇者様の武勇伝…もしかしたらその人だったのかも!」

 無理のある説明だったが、周囲の村人たちも「なるほど…」と妙に感心したように頷き始めた。

「確かに、見知らぬ人影が見えた気がした」「ああ、あれは冒険者だったのかもしれん」

根拠のない噂話がまたたく間に広がっていく。人々の恐怖と緊張が解けた反動で、都合の良い物語が必要だったのだろう。


 村長は「そうか…わしらはなんと幸運なんじゃ」と何度も頷き、安堵の表情を浮かべた。「恩人には礼を尽くさねばな…しかしもう行ってしまわれたのかのう?」

などと呑気に言っている。エリアスは肩の力が抜けるのを感じた。どうやらこの場はマリアの機転で収まりそうだ、と胸を撫で下ろす。


 その後、村人たちはぞろぞろと惨劇の跡を確認し始めた。黒焦げのゴブリンの死骸、石礫に穿たれた柵の跡、焦げた地面。そのたびに「おお…」と驚きの声が上がる。「すごい魔法だ…」「きっと高位の魔術師だったに違いない」誰もが興奮気味に語り合い、見えない恩人への感謝と賞賛の声が次々と飛び交った。

エリアスは居心地が悪くなり、そっとその輪から離れる。


 ふと視線を感じて横を見ると、マリアが少し離れた場所からこちらを見ていた。彼女はにっこりと微笑み、小さく口の形で「ありがとう」と伝えてくる。エリアスはドキリとしつつもうなずき返した。彼女に気付かれたのは予想外だったが、どうやら協力して隠してくれるらしい。とはいえ、一人でも自分の秘密を知る者ができてしまったことに変わりはない。隠居志望の地味貴族ライフは早くも暗雲が立ち込めてきたかもしれない、とエリアスは頭を抱えたい気分だった。


 それでも――エリアスは胸の内に温かなものが満ちていくのを感じていた。村が救われ、人々の笑顔が戻った。それを見届けることができただけでも、行動した甲斐があったというものだ。

 「はあ…しばらくは静かに過ごせますように」エリアスは空を仰ぎ、小さくそう呟いた。


 しかし彼が知らないところで、既に“隠された英雄”の噂は村の内外へ広まり始めていた――エリアスの穏やかな隠居生活は、どうやらもう少し先延ばしになりそうである。

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地味貴族に転生したら、実は俺TUEEE?~隠居志望の勘違い英雄譚~ @blueholic

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