第11話 正しい街
一九九五年一月の、二十歳の誕生日を迎えてから安達工業を退職した。
どう考えても、僕は直子を愛していたから、もう大阪にいる意味がなくなってしまったのだ。給料の相場も大阪と熊本でそう変わらないのなら熊本で仕事を探そう、そしてできるだけ直子の近くで生きたいと思った。
社長に退職の意向を話すのはとても緊張した。遠山さんに初めて電話したときよりもはるかに緊張した。よく考えると保育所から一緒だった安達ともこれでお別れだった。従兄弟だから盆正月や冠婚葬祭では会うだろうけど、兄弟よりも長い時間を一緒に過ごしていたので、想像以上にさみしい気持ちになった。でも安達はドライな性格だから全く気にしてなさそうだった。
僕は二月の頭に、熊本市内の寝具販売の会社に転職した……はずだった。入社が決まって熊本支店に出社すると、そのまま大分支店に配属された。
「今は大分支店が勢いがあるから宮本くんはラッキーばい。大分にはうまか食べ物が多かし、温泉もあるけんね」
と、人事の人が言った。大分支店から事務の社員が営業車で迎えにきていて、僕は拉致されるかのように大分支店に向かった。まぁ、いいか。大阪から大分まで移動できたんだ。直子に少し近づけただけも今は良しとしよう。今は仕事を頑張ってお金を稼ぐんだ。と、そのときは前向きに考えていた。
大分では社宅が用意されていた。2DKのわりと新しい二階建てのアパートの二階だった。大阪ではゴキブリだらけの長屋だったので、住まいの満足度は高かった。
少し生活が落ち着いてから電話加入権をローンで購入した。同時に留守番電話機能付きの電話機も買った。これでもう、電話ボックスを探してさ迷うことも、夏の暑さも冬の寒さも苦痛ではなくなった。自分の部屋に電話機があるだけでとても心強かった。電話機は僕の唯一の味方だった。早速直子に電話番号を教えた。
「え、これでいつでも、夜中でも電話してもいいってこと?」
「仕事でいないときは仕方ないけど、いつでも電話して大丈夫だよ」
「……もっと早くこうなったらよかったのに。でも、いつでもって嬉しい! 本当に夜中でもいいの?」
「ああ、夜中でも早朝でも君が望むなら俺を叩き起こしてくれよ」僕は不敵な笑みを浮かべた。
「誠が留守のときに鳴らすだけ鳴らすのもいいね。私が誠の部屋に音を届けるだけ」
「それはなんのために?」
「いいのよ、今はまだわからなくて。それにしても今日は寒いね」
「寒いね。来週までコタツがないから本当に寒い」
「ふふふ、いつ気づくかしらね。このおまじないに」
「何が? どういう意味?」
「いいの。いつかきっと気づくときがくるわ。私にはわかるの。ね、いつか遊びに行ってもいい? 行きたい!」
「もちろんいいよ。でもその、彼氏は大丈夫なん?」
「大丈夫よ、鈍感だし、優しい人だし、もともと誠の存在は知っているし、別にわざわざ誠の家に遊びに行くなんて言うわけないし」
直子には少し前に恋人ができていた。福岡大学に在籍している兵庫県出身のひとつ歳上の人だ。名字は「瀬戸」といった。サークルに直子が入ってきてすぐ、一目惚れしていたそうだった。二年近くの片想い期間を経て、彼がバイクでのツーリングデートに誘い、そこから交際が始まった。それを聞いて僕はバイクさえも嫌いになった。
バイクの二人乗りって絶対に直子の胸が背中にあたるからだ。それを期待してバイクでのツーリングに誘うなんて本心はスケベな男やで、と思った。
「それにしてもなんで俺大分にいるんだろ? せっかく熊本に帰ってきたと思ったら、大分にいるなんて。まるでアキレスと亀みたいだ。なかなか直子に近づけないよ」
「いい出会いがあることを祈ってるわ。私も四月からついに就職だし今までのような連絡も取りづらいかもね。あ、でももし大事な用事があったら、総務の遠山さんお願いしますって言ったら電話に出れるからね。覚えておいて」
直子は早々に八代の水道局へ就職が決まっていた。
「わかった。覚えておく。じゃ、すみおや」
「すみおや? おやすみってこと?」
「なんとなくそう言いたくなった、すみおやって」
「ふふ、わかった。すみおや、たまどんこ」
仕事の内容は寝具の販売なので、みんなでのんびりと布団を売る仕事だと思っていたが大きな間違いだった。世間の嫌われ者、訪問販売の会社だった。
朝七時に会社に出勤した瞬間から、気合をばちばちに入れてドアを開け「おおおはよおおおごおざああいますうう!」と絶叫することから始まる。応援団のような絶叫が標準だった。少しでも声が小さいと、
「聞こえねーなー」と大声で上司から言われた。
単純に超ブラック企業だった。僕はまた失敗したと嘆いた。なんでこんな罠にほいほいと引っかかるようなバカなんだろうと自分を恥じた。
大分での新生活は絶望からスタートしたけれど、会社の先輩二人に恵まれた。僕のひとつ歳上の臼杵さんと、ふたつ歳上の岩尾さんにはお世話になった。臼杵さんは僕が憧れていた深緑のユーノスロードスターに乗っていた。僕と同じで小柄だったけれど、顔が小さく、顎がシャープで力強い眼差しをしていた。岩尾さんはA70型スープラに乗っていって、見た目は強面だったが、明るくて社交的で度胸もある人だった。彼らは僕を大分のいろんなところに連れ出してくれた。
大分は海岸線をドライブしても気持ちがいいし、竹田方面から阿蘇までのワインディングロードを走るのも景色がきれいで気持ちがよかった。高崎山の走り屋のコースを走るのも楽しかった。
二人ともすぐに彼女を紹介してくれた。臼杵さんの彼女は会社のイベントで夜釣りをしたときに初めて会った。色白の綺麗な人で名前を絵里と言った。ヤナセで受付をしているそうだから、それはきれいだった。
「臼杵さん、こんなきれいな彼女いたんですね」思わずそう言った。
「きゃー、今日来てよかった!」と言って絵里さんは顔を赤らめた。
岩尾さんは結婚していた。僕の社宅から近いところに住んでいたので、よく岩尾さんの自宅で夕飯をごちそうになった。岩尾さんの奥さんも色白の美人タイプだった。
僕は臼杵さんと岩尾さんがいなかったら、あっという間に会社を辞めていたと思う。それほど、二人は僕の大分での生活に大きな影響を与えてくれた。今まで歳の近い兄貴的な存在もいなかったので、僕は心地がよくて救われた。
僕は車を買った。三菱のFTOというスポーツカーだ。中古で百六十万円だった。五年のローンだ。「気が付いたら車の中にいるようになるっちゃ」と臼杵さんが言っていたが、その通りだった。駐車場で大人しく待機しているFTOの運転席に、僕はいつの間にか座っていた。そして夜な夜な大分市内をドライブした。海岸線をあてもなく別府方面にもよくドライブした。
臼杵さんと絵里さんと三人でFTOに乗っておおがファームにドライブに行った。そこまでの道のりも素敵な景色だった。直子と一緒に来たいなと思った。
「宮本もこれでいつでも熊本の元カノに会いに行けるやん」
おおがファームからの帰り道に、僕のFTOを運転しながら臼杵さんが言った。
「あ! 確かに! そんなこともできるんだ!」僕はその発想が全くなかったので驚いた。
「はーっ、お前、男が車買う理由なんて、それしかないやん。FTOちゃんに乗って熊本まで会いに行ってこいっちゃ!」と臼杵さんが呆れながら言った。
「うちらも熊本行きたーい!」助手席の絵里さんが明るく言った。
「この前なんかよ、広島のお好み焼きが食べたいって絵里が言うから、広島まで食べに行ったで。車があればどこへでも行けるっちゃ」臼杵さんはタバコに火を点けた。
「美味しかったねー。宮本くんも誘えばよかった」と絵里さんが言った。
「俺のロードスターでどうやって三人乗るん?」臼杵さんが言った。
「あ、そっか」
「とにかくよ、宮本、お前熊本まで行ってこいっちゃ。そして攫っちまえよ。夜逃げして大分で一緒に住んだらいいがね。俺はお前が行動しないことがしんけん不思議でなんねーっちゃ」
「言うわねー、同棲してからその先に進めない人がどの口で言ってんの?」絵里さんが言った。
「とにかく、すぐ熊本行けっちゃ」臼杵さんが気まずそうに言った。
それからすぐの九月の終わりごろ、ノルマ達成者は平日の休みを一日貰える社内キャンペーンがあった。僕はその制度を利用して九月三十日の平日に、FTOを運転して直子に会いに行った。
とくに連絡は入れてない。とにかく、大分から国道57号線を走り、阿蘇を抜け、3号線に入り、八代まで向かった。阿蘇の雄大な草千里を眺めながら、サザンオールスターズの「希望の轍」を聴いた。
そして何気ない普通の道路と景色なのに、その先のゴールに直子がいるということにふと気がついた。その瞬間、涙があふれて止まらなかった。どうせ誰も見ていないので窓を開けて風を受け、涙は風に拭いてもらった。景色が金色に輝いて見えた。天獄のような多幸感が湧いてきた。このまま美しく死んでもいいなと少し思った。でも、この国道57号線の先に直子がいる。どうか蜃気楼ではありませんように。早く、直子、きみに会いたい。そんなことを考えながらアクセルを踏んだ。
八代水道局の駐車場にFTOを駐車し、公衆電話から直子の職場に電話した。
「宮本と申します。総務の遠山さんをお願いします」
「お待ちくださーい」
しばらくすると「はい、遠山ですが……」と直子が電話に出た。
「あ、俺」
「もしかして……」と言って直子は息を飲んだ。
「もしかして?」と僕が言った。
「来てるの?」と直子が囁くように訊いた。
「来てるんだ」
「嘘! 仕事は?」これは結構大きな声だった。
「たまたま一日だけ休みもらったから勢いで来た」
「え! まだ午後一時よ。私は五時十五分までは仕事だし、待っててくれる?」
直子はまた囁くような声で言った。
「もちろん! 勝手に来たんだし駐車場で昼寝して待ってるよ」
「わかった。勝手に来たんだから勝手に帰らないでよね」
「大丈夫、じゃ、あとで」
僕は周辺を歩いて探索した。すぐ近くに八代城跡があった。そのお濠を眺め、パズルのような石垣とそこに張り付いた苔を眺めた。後ろを振り返るとそこの建物の中で今、直子が働いているのだ。その姿を見てみたいと思ったけれど、僕の視線に気づいた直子がパニックになりそうだったのでやめておいた。
自動販売機でジョージアのテイスティを買い、FTOに戻ってエンジンをかけ、アイドリングして、エアコンを入れて目を閉じて少し眠った。
こんこんと窓がノックされた。ぱちりと目を開けると直子がのぞき込んでいた。
直子は白いブラウスの上にざっくりとした黒いサマーカーディガンを羽織り、白いパンツスタイルで、髪はポニーテールにしていた。直子はするりと助手席に乗って来た。
「すぐに戻らなきゃ。適当に嘘ついて出てきたから」少し緊張した顔で直子が言った。
僕は直子に見惚れていた。
「もっときれいになったね。見惚れてしまった」
「ばかね。ね、私が仕事してる姿を絶対に見に来ないでね。もしかして誠がどっかで見てるかもと思うと、緊張しちゃって、もうパニックになってるの」
「鶴の恩返しみたいだな。一瞬見に行こうと思ったけど、やめておいたよ。仕事の邪魔だってわかってるし。大丈夫。気にしないでお仕事しておいで」
「よかった。それを伝えたかったのと、ワンクッション置いて誠に会いたかったの。かっこいい車ね。あとが楽しみ!」
直子は乗り込んだときと同じようにするりとFTOから降りて、小走りで職場に戻って行った。
午後五時二十分に直子が仕事を終えてFTOに乗り込んできた。
「はー、なんか今日は疲れたー」直子が言った。
「お疲れ様」と僕は言った。そして用意していたペットボトルのお茶を直子に渡した。直子はそれごくごくと半分ほど飲んで、「ね、なんで私がすぐに誠が来ているってわかったと思う?」と言って口を手で拭いて、僕の目をじっと見つめた。
「え、そういえばなんでだろ? よくわかったね」
「私ね、ちょーど誠のことを考えていたの、だって誠ってね、天草から水俣でしょ、そこから大阪に行って、熊本に帰って、そこから今の大分でしょ。住民票の附票が一枚じゃ足りないなって仕事しながらふと、考えていたの。それから長いこと会ってないなって、抱いてほしいなって、ぴゅうっと天国まで連れてってほしいなって思っていたの。そこで遠山さん、宮本さんて人から電話よって言われて、私、頭のてっぺんがちりちりって痺れたのよ。なんだかんだで私たちって切っても切れない関係なんだって」
「へー、通じ合っていたのなら嬉しいね。今日来たのもね、大分でお世話になっている人から、せっかく車買ったんだから熊本まで会いに行けよって発破かけられたんだ。その人に言われるまでそんな発想なかったから、目からうろこが落ちたよ。そしたらちょうど休みも貰えたから思い立って黙ってきてみたんだ」
「繋がっているわね。これも導かれているのよ。それはそうと話の続きはベッドでしない? 道案内するから早く車出してくれる?」
直子の案内でモーテルに入った。そしていつものように時間をかけてセックスした。さっきまで真面目に働いていた美しい直子が、もうベッドでは乱れていた。僕は直子を何度も天国まで連れて行った。
「はー、なんか抜かれた気がする。体の中のもやもやした気持ちが竹輪のつるつるの穴みたいにすっかりなくなったわ。本当に気持ちがよかった。いまだに誠のセックスがナンバーワンよ」
「あまり比べられて嬉しくないけど」僕はその言葉の裏を察して素直には喜べなかった。
「どっちにしても竹輪の穴の例えはなかったわね。八代の近くに日奈久があるからつい名物の竹輪が連想されたの。でも女の子的にはドーナツにしておくべきだったわ」と言って直子はコンドームの中の精液の量を入念にチェックした。
「ふふ、でも本当に不思議よね。私たちの関係って。結構長くなったよね? 高二から? ちょうど四年くらいか。誠は一途よね。私は……結構奔放だわ。こんなはずじゃなかったのに。ね、知ってる? 愛って四年しか続かないんだって。結婚した後、四年で離婚する夫婦って多いらしいよ。愛情を持って結婚しても四年経ったら愛がなくなって情だけが残るの。誠はもう四年経過したけど、いつまで続くんだろうね!」
直子は左の薬指を擦りながら言った。
「いつまでなんだろう? 想像もつかないな。ただ、俺はもう直子以上に誰かを愛することはできないと思う。これは確信している。だから、他の誰かを好きになったとしても、長く続ける自信はないな。俺の心のど真ん中に直子のスペースがあるんだよ。これはね、変に思われるかもしれないけれど、可視化してる。俺には視える。一回り小さいラグビーボールみたいな形だよ。その中に直子が常にいる。誰も浸食できない聖域なんだ」
「わかる。信じる。私ね、もうずっと前から誠のことを信じるって決めているの。百パーセント信じている。一度は誠の嘘で傷ついたこともあったけれど、正直に告白してくれたし、全体的に全面的に誠を信用しているの。誠ほど、縁を感じる人は誰もいないもの。今の彼よりも」と言って直子は僕の右の耳たぶを噛んだ。
「そうだよね。俺も直子との縁を強く感じるよ。引き寄せ合う感覚もある。だけど、結婚はできないと思う。俺は直子を本当に愛しているのに、直子と結婚している未来は視えないんだ。それが不可解に思う。将来俺も誰かと結婚するだろうけど、ずっとこの心のど真ん中に直子がいて、遠くから直子のことを想っている未来が視える」
「きっとそうなるのね。でも私って誰と結婚するのかしら?」
「今の彼とはどうなの?」
「優しいし、頭もいいし、なんの不満もないわ。でも直子ちゃんはモテるから今も他に二人に言い寄られているの」
直子はずっと僕の右の耳たぶを甘噛みしながら話した。
「へー、やっぱりすごいね」
「でもね、私の物語の登場人物ではないってわかっているから。その二人は選ばないと思う」
「俺は直子の物語の重要人物になっているのかな?」
「当たり前じゃない! 少なくとも今までなら物語の主人公よ、誠は。直子ちゃんとのダブルキャスト」
直子はそう言って僕の下唇を噛んだ。
「その言葉だけで生きていけそうだよ」
直子は僕に覆いかぶさって真顔で僕の目をじっと見つめた。十秒ほどだったと思う。僕も直子の目を見つめ返した。
「ねぇ、誠。いつも夜中の二時とか三時とかに私って電話するでしょ。それって本当に迷惑じゃない? 本当は眠いのに無理していない? しかも一時間も二時間の私の悩みや愚痴ばかり聞かされて嫌じゃない? そんなの彼氏に電話しろよって思っていない?」
「まさか! 俺は直子からの電話が本当に嬉しいんだ。枕元に電話機を置いていつも寝てるよ。どんな夜中でもすぐに電話にでるでしょ?」
「それはいつも本当にびっくりする」
「待ちに待った電話だし、直子の声を聞いてそのあと眠りにつけるんだから最高に幸せだよ」
「私って本当に愛されているのね」
「本当に愛しているよ」
「ありがとうとしか言えないけど、ずっとそのままの誠でいてほしい。極めてわがままな願いだけど」
直子は極めての言葉を強く言った。
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