第18話

 俺がこのアパートの一室を自分だけの城として、あるいは外界から隔絶された静謐な実験室として手に入れてから、しばらくが経った。今や、ここはもはや俺一人のものではなくなっている。

 当初、俺がこの場所に求めたのは孤独だった。誰の目も気にすることなく、この世界で手に入れた未知の力を心ゆくまで探求し、その本質を解析するための絶対的な私的空間。だが、その俺のささやかで利己的な望みは、セレスティアという嵐の夜に舞い込んできた一羽の傷ついた鳥の存在によって、あまりにもあっさりと、そして根本的にその形を変えられてしまった。


 今や、この部屋は俺一人の城ではない。それはアリシア、セルフィ、セレスティア――それぞれの傷を癒やし、そして新しい明日を迎えるための、ささやかな、しかし、かけがえのない『家』とでも言うべき場所へと、その役割を変貌させていた。その変化は部屋の空気そのものに、目には見えないが確かな手触りをもって刻み込まれている。


 朝、目を覚ましてリビングへ出ると、俺が眠る前に整然と片付けたはずのテーブルの上には、アリシアが昨夜の飲み比べで使ったであろう空のエールの瓶が、無造作に転がっていることがある。窓際の陽光が最も美しく差し込む一角はいつの間にかセルフィの指定席となり、そこには彼女が森で集めてきた、まだ名前も知らない薬草や奇妙な形をした木の根が、まるで神聖な供物のように丁寧に並べられていた。そして部屋の隅に置かれた洗濯籠には、俺とアリシアの泥に汚れた冒険者としての衣服に混じって、セレスティアの古びてはいるが清潔に保たれた小さなワンピースがそっと重ねられている。


 それらの光景は、俺が当初思い描いていた禁欲的で研究者の書斎のような空間とは、あまりにもかけ離れたものだった。そこにあるのは、生活の雑然とした、しかし温かい手触りそのものだ。アリシアはギルドの仲間との飲み会から戻ると、酔いに任せて俺の寝台のすぐ脇の床でいびきをかいて眠りこけてしまうことも珍しくなかった。セルフィは夜、俺が地下の工房で何かの作業に没頭していると、いつの間にかリビングの椅子に腰掛け、分厚い革表紙の本を読みながら俺が戻ってくるのをただ静かに待っている。そしてセレスティアは、俺たちが朝目を覚ます頃には既に部屋の隅々まで古い布切れで丁寧に拭き清め、暖炉には新しい薪をくべて柔らかな火を熾してくれているのだ。


 当初の目的であった一人きりでの研究。そのためのアパート暮らし。その記憶はもはや遠い昔の、どこか他人事のような出来事として俺の意識の片隅へと追いやられていた。俺の日常は今や、この三人の女性たちの存在によって完全に再定義されてしまっていた。


 アリシアは、このなし崩し的な同居生活を冗談めかしてこう嘯いている。


「あたしがしっかり見張っててやらねえとな! ケント、お前さんはどうも見てて危なっかしい。いつかセレスティアに変な気を起こさねえとも限らねえからな!」


 その言葉は彼女なりの不器用な照れ隠しであり、そして俺たち全員を自分の庇護下に置こうとする、姉御肌の彼女らしい温かい配慮の表れであることを俺は知っていた。

 セルフィは何も言わない。だが、彼女がこのアパートで過ごす時間、その深い森の湖面を思わせる翠の瞳には、かつて俺に向けられていた探るような鋭い光はもはやどこにもなく、ただ穏やかで満ち足りた静けさだけが湛えられている。この、騒がしくて少しだけ厄介で、そしてかけがえのない日常。彼女もまた、その心地よさを心の深い部分で受け入れているのだろう。


 そしてセレスティア。当初はただ部屋の隅で小さな影のように縮こまっているだけだった彼女もまた、この新しい環境の中で自分自身の存在意義を見つけ出そうと必死にもがいていた。そのささやかで切実な努力の表れが、彼女が自らに課した家事という役割だった。


 彼女は決して無理強いされているわけではない。むしろ俺やアリシアは、彼女にもっとゆっくり休んでいるように何度も言った。だが彼女は、そのたびに、か細い声で、しかし決して譲らないという強い意志を込めてこう答えるのだ。


「…私にできることをさせてください。…ここにいてもいいのだと、自分で思えるように…」


 それは彼女なりの存在証明の形だった。自分がただ一方的に施しを受けるだけの無力な存在ではない。自分もまたこの共同体の一員として何かを貢献できるのだと。そのささやかな誇りが彼女の心を少しずつ、しかし確実に癒やしている。その事実を理解しているからこそ、俺たちはもうそれ以上彼女の申し出を断ることはできなかった。


 彼女の仕事ぶりは驚くほどに丁寧で、そして完璧だった。床の拭き掃除一つをとっても隅々まで塵一つ残さない。俺たちが脱ぎ捨てた衣服はいつの間にか綺麗に洗濯され、陽光の匂いをさせてそれぞれの箪笥へと戻されている。俺が厨房で使った調理器具は、次に使う時には新品のように磨き上げられていた。その、どこか自己犠牲的でさえある献身ぶりを見るたびに、俺の胸には複雑な感情が込み上げてくる。彼女がかつて『聖女』として人々に尽くすことにその存在の全てを捧げてきたであろう過去。その断片が、こんな何気ない日常の営みの中に痛々しいほどに垣間見えるようだった。


 だが俺にできることは、ただ彼女のその行為を静かに受け入れることだけだった。そしてその見返りとして俺は、俺にしかできない方法で彼女に、そしてアリシアとセルフィに報いることを心に決めていた。

 それは、この食卓をこの世界で最も温かく、そして心安らぐ場所にすること。



 その日の夕食の準備は、いつもよりも少しだけ時間をかけて行われた。メインディッシュは先日、アリシアが討伐依頼の報酬として手に入れてきたワイバーンの亜種とされる飛竜の、希少な腿肉を使ったローストだ。市場では金貨数枚で取引されるほどの高級食材。その硬い筋繊維を俺は、数種類のハーブと森で採れた酸味の強い果実から作った特製のマリネ液に丸一日漬け込むことで、驚くほどに柔らかく、そして風味豊かに変化させていた。


 俺がその巨大な肉の塊に、自ら作り出した隕鉄の包丁で切り込みを入れていると、背後から小さな足音が近づいてくるのを感じた。振り返ると、そこにはセレスティアが両手で、洗い終えたばかりの野菜が入った籠を大切そうに抱えて立っていた。


「…あの…お野菜、洗っておきました」

「…ああ、助かる」


 俺は素っ気なく、しかし感謝の念を込めてそう答えた。彼女は籠の中から、泥を綺麗に洗い落とされた人参や瑞々しい輝きを放つカブを一本ずつ、俺の前の調理台にそっと並べていく。その、どこかおずおずとした、しかし役に立てることを喜んでいるかのような健気な仕草。それを見ているだけで、俺のどこか乾いていた心の部分が、じんわりと温かいもので満たされていくような感覚があった。


 俺がその野菜を、トントントン、という軽快なリズムで均等な大きさに切り分けていく。その無駄のない正確な包丁さばきを、セレスティアは少し離れた場所から、感心したような、そしてどこか憧れるような眼差しでじっと見つめていた。その視線に気づかないふりをしながら俺は作業を続ける。この、言葉を交わさずとも互いの存在をごく自然に感じられる穏やかな時間。それもまた俺が手に入れた、新しい日常の一コマだった。


 やがて部屋の扉が、いつものように何の遠慮もなく、けたたましい音を立てて開かれた。


「ただいまー! 腹減ったぞー、ケント! 今日の飯はまだかー!」


 アリシアの、腹の底から響き渡る声がアパート全体を揺るがした。彼女はその日の依頼で付着したであろう泥とわずかな血の匂いを身にまとわせながら、リビングの中央にどかりと腰を下ろす。彼女のすぐ後ろからはセルフィも静かに入ってきて、いつものように窓際の定位置へと向かい、その手に持っていた白木の杖を壁にそっと立てかけた。


「…おかえり」


 セレスティアが小さな声で二人を迎えた。その一言にアリシアは一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに満面の笑みを浮かべると、セレスティアの頭を大きな手でわしわしと愛情を込めて撫で回した。


「おう、ただいま、セレスティア! 良い子で留守番してたみてえだな!」


 その光景はもはや、このアパートではすっかりお馴染みのものとなっていた。



 やがて全ての準備が整い、俺たちの食卓にはこの世界に来てから最も豪華と言える料理の数々が並べられた。


 テーブルの中央にはこんがりと焼き上げられた飛竜のローストが、大皿の上で圧倒的な存在感を放っている。その表面は飴色に輝き、ナイフを入れれば中から透明な肉汁がじわりと溢れ出してくるだろう。その周りには色とりどりの温野菜が、まるで宝石のように散りばめられている。バターと俺が調合したハーブソルトでシンプルにソテーされただけだが、野菜本来の甘みと香りを最大限に引き出しているはずだ。


 さらにセルフィが今日の昼間に森で摘んできたという、数種類のキノコをふんだんに使ったクリームスープ。これも俺が隠し味としてほんの少しだけ乾燥させた魚介の粉末を『融合』させることで、ただのクリームスープにはない複雑で深い旨味を加えている。


 そして俺が今朝、市場のパン屋で特別に頼んで焼いてもらった、外はカリカリで中は驚くほどにふっくらとした白パン。


 それらの料理から立ち上る温かい湯気。食欲を刺激する芳醇な香り。そして暖炉の炎が落とす穏やかで温かい光。それら全てがこの食卓を、この世のいかなる高級レストランにも劣らない特別な空間へと変えていた。


 俺たちはそれぞれの席に着くと、誰が言うでもなく、ほんの少しの間、目の前の光景を感慨深げに眺めていた。


「…すっげえ…。なんだこりゃ、毎日が王様の誕生日みてえじゃねえか…」


 アリシアが感嘆の声を漏らす。その目は子供のようにきらきらと輝いていた。


 俺たちはそれぞれのグラスを軽く掲げた。中に入っているのはエールではなく、セルフィがエルフの秘伝の方法で作ったという甘酸っぱい果実水だ。


「それじゃあ、今日の依頼の成功とこの美味そうな飯に!」


 アリシアの威勢のいい音頭で、俺たちはグラスを軽くこつんと打ち合わせた。そのささやかな音が、俺たちの新しい『家族』の始まりを告げる祝砲のようにも聞こえた。


 食事は賑やかに、そして和やかに進んでいった。


 アリシアは口いっぱいにロースト肉を頬張りながら、その日の依頼であったオークの集落の偵察任務について、身振り手振りを交えて大声で語っていた。


「…それでな、あたしがそーっと岩陰から様子を窺ってたらよ、いきなり見張りのオークがこっちに気づきやがったんだ! 鼻が利くとは聞いてたが、まさかあそこまでとはな! で、そいつが『ブヒイイイッ!』て仲間に知らせようとするもんだから、あたしはもう考えるより先に飛び出して…!」


 彼女の話はいつも通り多少の脚色が加えられているのだろうが、その語り口はまるで吟遊詩人の英雄譚を聞いているかのように生き生きとしていて、人を惹きつける力があった。


 そのアリシアの話に、セルフィが時折ぽつりと相槌を打つ。


「…あれは、アリシアが風下を取っていなかったから」

「うっせえな! ちょっとしたミスだ、ミス!」

「…でも、その後の剣の速さ。見事だった」

「へへん、まあな! あたしにかかればオークの一匹や二匹、朝飯前よ!」


 その短いやり取り。だがその中には、互いの実力を認め合い、その上で軽口を叩き合える深い信頼関係が確かに見て取れた。


 俺はそんな二人の様子を微笑ましく思いながら、自分の皿の上のロースト肉をナイフで切り分けていた。その時、ふと向かいの席に座るセレスティアへと視線を向けた。


 彼女は黙って食事を進めていた。その食べる速さはまだ俺たちに比べればずっとゆっくりだ。だがその表情には、もはやかつてのような虚ろな絶望の色はどこにもなかった。彼女はアリシアとセルフィの賑やかなやり取りを、まるで眩しいものを見るかのようにじっと見つめていた。その悲しいほどに澄み切った空色の瞳には、まだ拭いきれない不安の色が薄い膜のように残ってはいる。だがその奥深くには、確かに温かく柔らかな光が灯り始めていた。それはこの、騒がしくて少しだけ変わっているけれど心優しい人々と、同じ食卓を囲んでいる。そのささやかな、しかし、かけがえのない事実に対する静かな喜びの光だった。


 そして彼女は時折、ちらりと俺の方へと視線を向ける。その視線に俺が気づくと、彼女ははっとしたように慌てて目を伏せてしまう。だが、その伏せられた長い睫毛の下で、彼女の頬がほんのりと桜色に染まっていた。


 俺は、その光景をただ黙って、自分の記憶の中に深く、そして大切に刻み込んでいた。


 血の繋がりなどない。種族も生まれ育った環境も、何もかもが違う。俺たちは社会から少しだけはみ出してしまった者たちの、寄せ集まりなのかもしれない。家を捨てた元貴族の女騎士。森の理の中でしか生きられない不器用なエルフの魔法使い。全てを失い追われる身となった元聖女。そして全く別の世界から、何の脈絡もなくこの場所に放り出された異邦人の俺。


 だが今、この食卓を囲んでいる俺たちは、紛れもなく一つの温かい共同体を形成していた。それは世間一般で言うところの『家族』というありふれた言葉では到底表現しきれない、もっと深く、そしてかけがえのない魂の繋がりだったのかもしれない。


 俺は、この何気ない、しかし奇跡のような時間を守りたいと、心の底から思った。

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最強のオカルティストは禁忌を喰らう ~万物を解析する俺は、のんびり異世界ライフをめざす~ 速水静香 @fdtwete45

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