第4話 すれ違う視線 — Misread Glances

 月曜の夕方、講義がはねる鐘の音が、キャンパスの並木の上でほどけた。

 桐谷湊と朝倉陽真は、いつものように並んで歩く。手はつながない。けれど、歩幅は自然と揃う。


「じゃあ、俺はこのあと家庭教師」

「僕は早番。20時には上がれるはず」

「終わったらLINEする」

「うん。忙しかったら無理しないで」


 そんな短い言葉の往復だけで、十分に満たされる。

 校門を出る前、二人は足を止めて、ほんの短いキスを交わした。誰にも気づかれない距離と時間。昨日までなかった習慣が、たった数日で“いつものこと”になりつつあるのが、少しくすぐったい。


「行ってらっしゃい」

「行ってきます」


 別れて数歩、振り返れば相手も同時に振り返っていて、目だけで笑い合う。幼なじみの長い時間と、恋人としての新しい空気が、同じ道の上で重なっていた。



 コンビニの扉についた鈴が、一定のリズムで鳴る。湊はエプロンのポケットに手を入れ、レジ横の温度表示をちらと確認した。

 夕方の混雑を越えて、夜の繁華街へ流れていく客足。ハンドドリップのカップと、甘い匂いの焼き菓子、夜食の弁当。人の手が選ぶものに、その人の時間がにじむ。

 レジに並んだ高校生カップルが、揃って新発売のドリンクを取って笑い合った。湊はバーコードを読み取りながら、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。


(20時に終わったら、駅で少しだけ会えるかな)


 頭の隅でそんなことを考えている自分に気づいて、湊は苦笑した。数日前まで、そんな想像はしたことがなかったのに。


「いらっしゃいませ——ありがとうございました」


 声を出し、手を動かし、時間はきれいに流れる。

 交代のスタッフが来て、更衣室でエプロンを外す。ロッカーの扉を閉める音が、いつもより少し大きく響いた。


(終わった。……駅まで歩こう)


 店を出ると、夜風が首筋を撫でた。街路樹に飾られた小さなライトが、風に合わせて微かに揺れる。

 ここは夜でも人通りが途切れない、若者向けの通りだ。カラフルな看板、ガラス越しのケーキのショーケース、通りに漏れるギターのリフ。竹下通りのように賑やかだが、どこか洗練されている。



 その頃、陽真は玄関でスニーカーの紐を結び直していた。

「今日はここまで。二次関数、復習忘れないこと」

「はーい。先生、今日もありがとう」

「いいよ。焦らなくていいから、丁寧にね。彩香ちゃん」


 テキストを鞄にしまいながら声をかけると、彩香はぱっと顔を上げた。


「ねえ先生、最近オープンしたケーキ屋さん、知ってます? 帰り道、ちょっと寄り道しませんか。頭使ったら甘いもの必要!」


 陽真は壁の時計を見て、小さく息を吐いた。


「……ちょっとだけだよ。遅くなるとお母さん心配するから」

「やった! 先生、優しい〜」


 彩香は嬉しそうに玄関の灯りを背に、外へ出た。



 湊は、ショーウィンドウに並んだケーキの名前を追いながら、足を止めたり進めたりしていた。

 店先のガラスに、自分の顔が淡く映る。そこに、もうひとつの映り込みが重なった。

 ——見慣れた横顔。陽真だった。

 隣には、ショートカットの女の子。制服の上に薄いカーディガン。年の頃は高校生くらい。


 胸の奥で、何かが音もなく落ちた。

 立ち止まるでも走るでもなく、湊は足を一歩引いた。視界が、必要なものだけを切り取っていく。


 女の子が、陽真の腕に手を伸ばす。

 笑いながら、ぐい、と絡めるように。

 陽真は、驚いた顔で彼女を見た。


(……誰?)


 喉が乾く。

 脳が一瞬でいくつもの仮説を立てては、次の瞬間に壊していく。

 家庭教師の“子”だろうか。そんな想像はすぐに浮かんだ。けれど——並んで歩く距離、触れる手、弾む声。目の前の光景は、湊の想像を軽々と飛び越えた。


 視線が合ったわけではない。店先の照明に、周囲の雑踏に、すべてが薄く曇って見える。

 湊は、スマホを取り出して画面を点けた。メッセージの入力欄に、指先がわずかに触れる。「今どこ?」——そう打ちかけて、消す。打ち直して、また消す。

 心臓のリズムが、通りの音に紛れてうるさい。


 女の子がもう一度、陽真の腕にからむ。


(僕たちは…人前で手をつなぐこともしないのに…)


 「……だめだよ、彩香ちゃん。誤解されることはしたくない」

 そう言った陽真の声は、雑踏にすぐ飲み込まれた。


 湊は、反射的に視線を切った。

 何も見なかったように、何もなかったように、通りを背にして歩き出す。

 ショーケースのケーキの名前は、もうどれも読めなかった。



「彩香ちゃん」


 陽真は、彼女の手をそっと外しながら、できるだけ柔らかい声を選んだ。


「俺、付き合ってる人がいるから——その人に見られて誤解されるようなことは、したくない」


 彩香は、すぐには手を離さなかった。けれど、数秒後には小さく舌打ちのように息をもらして、指を解く。


「……先生のそういうとこ、真面目すぎ」

「真面目でいい」

「誰と付き合ってるの?」


 問われて、陽真は視線を少し落とした。


「言わない。言っていいのは、向こうがいいって言ってから」

「ふーん」


 彩香は前髪を指で払って、ショーケースを覗き込んだ。


「じゃあ、ケーキは“お友達として”。ね、先生」

「……うん」


 その“うん”には、境界線の色が混じっていた。



 湊の足音は、繁華街の音に溶けていく。

 光はいつも通りきらめいて、通りはいつも通り賑やかで、さっきまでその全部がやさしい背景のように感じられていたのに、今は輪郭が鋭い。

 通り過ぎる人の笑い声が、遠くで割れる。自分の靴音だけが異様に近い。


(見間違い、……じゃないよね)


 スマホが震えた。


〈今終わった。どう?そっちは〉


 陽真からだ。

 湊は立ち止まり、親指の先で文字を打つ。


〈上がった。人多いね〉

〈だよな。少し寄り道してから帰る〉


 寄り道——の文字が、胸のどこかに刺さる。

 湊は一度だけ深く息を吸い、吐いたあとで、簡単な文を返した。


〈おつかれさま〉


 それ以上の言葉は、どれも重たすぎて、今は持てなかった。


 寄り道——その二文字が、飲み込めないまま喉にひっかかる。



 信号が青に変わる。人の波が押し出される。湊はその流れに身を任せ、歩幅を一定に保つことだけを考えた。

 視界の端で、ショーケースに映ったふたりの横顔が、遠ざかる。見ないと決めることでしか、立ち止まらずにいられなかった。



 帰り道、湊は遠回りを選んだ。

 小さな公園の脇を抜け、住宅街へ入る。夜風は涼しく、どこかの庭先で風鈴が鳴る。

 家の門扉の前で立ち止まり、ポケットから鍵を出す。鍵穴に差し込むだけの動作が、今日は少しだけ難しい。


 玄関で靴を脱ぎ、静かな廊下を抜けて、自分の部屋へ。

 机の上には、今日のノートと問題集が開きっぱなしになっていた。

 椅子に腰を下ろして、ペンを持つ。さっきの光景が、薄いフィルムになって視界の上に重なる。


(信じたい)


 湊は、心の中でそう言った。

 その一方で、胸の深いところに、わずかな痛みが残っているのも確かだった。

 信じることと、痛まないことは、同じ意味じゃない。

 それでも、信じるほうを選ぶのが、自分だと思う。


 湊の部屋の窓は、カーテンの端だけを留めて開けてある。風が入り、紙の端をめくる。

 スマホが、短く震えた。


〈今、家の前。ちょっと寄っていい?〉

〈ごめん、今日、疲れてるから…〉

〈大丈夫?〉

〈寝たらなおると思う。今日は早く寝る〉

〈うん、お大事に。また明日。おやすみ〉

〈おやすみ〉


 メッセージのやりとりが終わって、湊は大きく息を吐き出した。

 本当は、ちゃんと話をするべきだったのかもしれない。

 でも、今夜は言葉にしない勇気を選んだ。


*************


今回のお話は、YouTubeで配信中の楽曲「すれ違う視線 — Misread Glances」とリンクしています。良かったら、楽曲の方も聴いてみてくださいね♫


「すれ違う視線 — Misread Glances」はこちら⇒ https://youtu.be/VpSo66PcDYo

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