第2章 辺境への旅立ち

【王暦424年・三日後/西門】


 朝もまだ浅い時刻。

 王都の西門は霧に覆われ、石畳は冷えきっていた。


 門前には幌付きの馬車が一台。

 傍らに並ぶ黒衣の騎士たちは、狼の紋章を肩章に刻んでいる。

 辺境伯カディス・グレイの配下──「灰狼騎士団」。


「……こちらへ」


 隊長らしき男が無愛想に顎をしゃくった。

 私は小さな荷袋を抱え、馬車へと足を運ぶ。

 護衛の一人が荷物を検める仕草をしたが、祖母の手帳に視線を落とした途端、無言で手を引いた。


 車内は質素だった。革張りの座席が向かい合わせに二つ。

 すでに一人が腰を下ろしていた。


「……」


 漆黒の軍衣、銀狼の肩章。

 辺境伯グレイ。

 真っ直ぐに組んだ腕と閉じた瞳が、石像のように動かない。


「ご厚意に感謝します、辺境伯」


 頭を下げると、彼は瞼を開いた。

 暗い茶色の瞳が、氷のように射抜く。


「礼は不要だ。法の執行だ」


「……はい」


 会話はそこで途切れ、馬車が揺れ始める。

 城壁を抜ける音が響き、石畳が土道に変わる。

 王都は背後へ遠ざかっていった。



 しばらく沈黙が続いたのち、グレイが口を開いた。


「お前、追放の場で“綴じ糸の匂い”を指摘したな」


「……はい」


「気付く者は少ない。だが、証拠を挙げたところで裁きは覆らん。……それでも口にしたのはなぜだ」


「私が無実だからです」


 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。

 彼はしばし無言で私を見つめ、それから短く吐き出した。


「愚かだ。だが──嫌いではない」


 それが褒め言葉なのか侮蔑なのか、私には分からなかった。



 正午を過ぎると、馬車は街道を外れ、荒れ地を進み始めた。

 窓の外にはひび割れた大地と、骨のように枯れた樹木。

 王都の肥沃な畑とは比べるべくもない。


「……これが、辺境」

 思わず漏れた呟きに、グレイが答えた。


「これでもまだ入口だ。ここから先は獣と飢えが支配する。王都の法も、掟も、何の意味もない」


 彼の声は乾いた風のようだった。


「忘れるな。生き残りたければ──王都の常識を捨てろ」


 胸に重く突き刺さる言葉。

 私はぎゅっと祖母の手帳を抱きしめた。


(王都の常識を捨てる……それが生き残る唯一の道なら)


 そう心に刻みながら、私は幌越しに灰色の空を見上げた。

 新しい人生の始まりは、荒涼とした景色の中にあった。

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