3
◇ ◆ ◇
時を同じくして、当のアステルは軽い足取りで王宮の回廊を闊歩していた。
嘘八百を吹き込んだ瞬間のエメリクの顔、あれは当分忘れられそうにない。アステルは満月を仰ぎ、口元をほころばせた。明日浴びるであろう身内からの非難は覚悟の上だ。それでも、今日の一手は痛快だった。
レノ・ファーブルを思わぬ形で手元に置けたことについて、好材料だと今のアステルは見ている。今回は厄介な連中を遠ざける妙案まで授かった。次に顔を合わせる時のレノの反応を思い浮かべ、アステルは喉の奥で笑った。
世間知らずのご令嬢たちや欲にまみれた貴族たちの相手をしている暇はない。
アステルは夜空に浮かぶ月を見上げながら、三度目の生を思い返していた──昨日のことのように鮮明に残る、あの対話を。
『──イリス様』
イリスはアステルとの初対面の場では怯えたように、自信なさげに俯いていた。修道院で静かに暮らしていたところ突然エメリクに連れ出されたのだから、当然と言えば当然だった。
イリスが王宮に召し上げられてからアステルは毎日のように彼女の前で教鞭を取ったが、その深い緑色の瞳はいつも静けさをたたえていた。
聖女として持ち上げられ、毎日のように宝石や服飾品を贈られても決して流されることなく、彼女はいつも決まった時間に祈りを捧げていた。
(俺の弟と同じくらいの年だと聞いたが)
そうは思えないほど、彼女は随分と落ち着いていた。
『ヴァレリウス様は、婚約などはされているのですか』
一年ほど経った頃、アステルが教育係を退いた後も王宮の図書室で幾度となく顔を合わせることがあった。
その日もやはりいつものように感情を乗せず、そして何の
『いえ。お恥ずかしながら縁がなく』
『では、誰かを好きになったことは?』
『……私の職務上、あまり異性とは接点がないので』
面食らったアステルをよそに、イリスの視線は高窓へと向けられた。 遥か頭上に、誰も通れぬ細い窓が並んでいる。
『では、こんなことを言われても貴方は困るでしょうけど』
イリスはアステルを振り返り、寂しそうに笑みを浮かべた。
『私は──』
「──アステルかな? そこにいるのは」
背後から響いた声に、アステルは小さく息を呑んだ。振り返ることなく静かに姿勢を正し、深々と頭を垂れる。
「セオリオ王子殿下。今宵の月の美しさのもと、御前にて言葉を交わせること光栄に存じます」
「いいよ、堅苦しい。それよりちょうどよかった。面白い話を聞いたものだから」
セオリオはエメリクと同じアメジストの瞳を持つが、兄弟の面影を残しつつも、纏う空気も顔立ちもどこか柔らかく穏やかだった。
王子でありながら護衛もつけずに王宮を歩く姿は珍しくなかった。それも今生では継承権争いがそこまで激しくないからこそだが──と、アステルは目を伏せる。
「面白い話、ですか」
「エメリクの側近から聞いたよ。アステル、……男の恋人ができたんだって?」
セオリオは堪えきれず、肩を震わせて笑った。
「よっぽど縁談に困ってたんだね」
「……やはり殿下の目は誤魔化せませんか」
「なんだ。やっぱり嘘だったか」
「王族に嘘を吐いたとなれば我が家が取り壊されてしまいます。どうかご内密に」
セオリオは安心しろと言いたげにアステルの肩を叩くと、目尻に浮かんだ涙を拭った。
「随分忙しそうにしていると聞いたよ。弟のせいで手を焼かせてすまないね」
「とんでもございません。身に余る光栄でございます」
「あいつも根は悪い奴じゃないんだ。きっと優秀な君に嫉妬しているんだろう」
セオリオは先ほどまでアステルが見上げていた月に目をやり、ほうっと息を吐いた。
その横顔を前に、アステルはイリスの言葉を思い出す。
『──私は、セオリオ殿下をお慕いしているのです』
彼女は三度の生すべてで、この
イリスを連れてきたエメリクではなく、彼女が心を寄せたのはその兄、セオリオ。彼らの間にどんな物語があったのか、一介の高官だったアステルには知るすべもない。
当時何故自分にそのようなことを打ち明けたのかと聞けば『あなたは私に興味がなさそうだから』と、まるで花が開くように笑った。それから度々アステルは彼女の恋心を聞かされるはめになる。
(そうだ。本来ならすでにこの王宮にいるはずのイリス様がいない……)
改めてアステルは、一歩踏み出せば底なしの谷間に落ちてしまうような言い知れぬ恐怖を覚えた。このまま聖女イリスが現れなければ大団円を迎えられるのか、レノの死を回避するだけで世界は変わるのか。
何か見落としてはいないか。今この瞬間にも新たな歯車が回りだしているのではないか──
「アステル」
王族を前にして気を逸らしていたことに気づき、アステルは慌てて顔を上げた。
「よく見ると目の下の隈が酷いね。今日は早く休みなさい」
「……自己管理ができておらず、申し訳ございません」
「恋人とやらの件、ヴァレリウス家には私からうまく伝えておくから安心して。噂の……ファーブル家にも危害が加えられないように手を回しておく」
「ご配慮いただき、痛み入ります」
もう一度頭を深く下げると、セオリオは楽しそうにひらひらと手を振りアステルに背を向け歩き出した。
アステルはその姿に幻を見た。
セオリオの隣を幸せそうに歩くイリスの姿──今は存在しないはずの、彼女の面影を。
◇ ◆ ◇
騒動の翌朝、食堂に向かったレノは深く後悔していた。
失礼を承知でマニウスに同行を頼むべきだった。それ以前に、王宮内でもっと人脈を作っておくべきだったのだ。
人が少ないだろうと朝日が昇りきる前の時間を狙ったのも、無知ゆえの失策だった。
早朝の食堂は訓練前の騎士団や夜勤明けの侍従たちで賑わう時間帯。レノはそんなことすら知らなかった。
(俺は空気、俺は埃……)
噂がどこまで広まっているかは分からない。だが、王宮でほとんど誰とも接点を持たずに過ごしてきたレノの顔を、レノ・ファーブルだと認識できる者がどれほどいるだろうか。
むしろこの混雑の中なら、紛れてしまえる──そう思って窓際の一人席に腰を下ろした、その瞬間。
「ねえ、あなた……もしかしてレノ・ファーブル?」
悲鳴を上げなかっただけでも上出来だった。レノは小さく跳ねるように身を起こす。無遠慮にレノの顔を覗きこんできたのは、レノの見知らぬ侍女だった。
「やっぱり。あなたずっと噂になってたのよ」
「……な、なにがでしょう」
「すんごい綺麗な銀髪碧眼の子が王宮に入ってきたって」
侍女は頭の上から爪先までレノをじろじろと眺め回す。どうやら彼女も一人で食事を摂っているようだった。
「他所の国の王族の隠し子だって噂聞いたけど本当?」
「い、いえ。元を辿れば商家の息子でして……」
「なぁんだ。みんな随分あなたのことを隠すから、妙に信憑性増しちゃってさ」
そう言って平民のようにパンをかじる姿は、どこかマキアを彷彿とさせた。親近感を覚えたレノは、椅子をわずかに侍女の方に寄せる。
「失礼ですが、お名前を伺っても?」
「あたし? パウラ」
「パウラ嬢、お聞きしたいことが」
「やめて。あたし貴族じゃないし、ここじゃ一番下っ端だし。それにあなた男爵家の出でしょ」
煙たそうに溜息を吐くと、パウラは小さなトマトを摘まんで「これ嫌いなの。それで何が聞きたいって?」などと言いながら勝手にレノの皿に乗せた。
レノは思わず苦笑する。それがまるで本当にマキアのような振る舞いだったからだ。
「ああ、もしかしてあなたがヴァレリウス様の情夫だって話のこと?」
「じょっ──」
情夫という言葉のインパクトにレノは目を剥いたが、当のパウラは素知らぬ顔で朝食を食べ進める。
「ま、ドン引きはしたけど正直下っ端からしたらどうでもいいわ」
「……そうですか」
ちらりとパウラはレノの瞳に目をやった。どこか正体を探るような視線に、レノは居たたまれなくなりちぎったパンを口に放り込む。
「大体鬱陶しかったのよ。ヴァレリウス様宛に訪ねてくるご令嬢の相手は私たちの役目だから。それがなくなるなら喜ばしいわ」
「王宮に訪ねてくるんですか?」
「そーよ。適当な用件つけてね。追い払うにも、まぁ大変うざくていらっしゃったわ」
よほど鬱憤が溜まっていたのだろう。パウラは目玉焼きを丸ごと口に放り込んだ。まるで憎き仇を噛み潰すような勇ましい横顔に、レノは思わず身を引いた。
「ごちそうさま。また見かけたら挨拶くらいしてもいい?」
「も、もちろんです。……それと、あの、」
「なに」
「……できればこのまま、パウラさんと一緒に食堂出てもよろしいでしょうか」
そうっと申し出たレノの言葉に一瞬パウラは呆気にとられたような顔をして、すぐにぷっと噴き出した。
「かわいいとこあるじゃん」
胸を張ってまっすぐに前を向き先を行くパウラの後ろに続き、レノはなんとか居心地の悪い空間から脱出に成功したのだった。
パウラと別れたあと、レノは何かを振り払うように髪をかき上げた。
下っ端の侍女にまであの噂が届いている。しかもパウラの反応はまだ穏やかな方だろう。アステルにとっては煩わしい縁談を一掃できて痛快だったかもしれないが──自分の身にもなってほしい、と、レノは思わず顔をしかめた。
(護身術を習わせていただけないだろうか)
刺客にでも襲われたらたまったものではない。
アステルに会ったら一言文句でも言ってやろうと意気込んでいたレノだったが、その日を含めしばらくの間、直属の上司であるアステルと顔を合わせる機会がなかった。
縁談地獄から解放された記念に休みでもとったのだろうか。
そんな平和な想像をしていたレノだったが、その理由を知ったのは恋人騒動から十日ほど経ってからのことだった。
「──国王陛下が?」
レノは眉を顰めた。密談のためにレノの部屋に忍び込んだマニウスが「この情報、上で止められてるからね」と、胡坐を組みなおし体を縮める。
マニウスの情報、それは嵐の被害が深刻だった北方の領地への巡察に向かった国王陛下が、その道中で大怪我をしたらしい──というものだった。
「事故でしょうか」
「さあ。いずれにせよ、アステル様含め高官たちが血相変えて現地に行ったって話だ」
実は僕も直接アステル様とは話せてないんだよね、とマニウスはレノの寝台にもたれかかった。
「やっと休めるはずだったのに、アステル様もついてないよ」
国王の怪我や病は国政を揺るがす。曖昧な情報が広まれば無用な混乱を招くだけだ。本当にただの事故なら、いずれ正式な発表があるはずだ。
本来北方までは馬を走らせれば片道三日もかからない。となると、現地での調査に随分かかっていることが推察される。
もし今、国王がその玉座を降りるようなことがあったら。
思わず浮かんだ嫌な想像を追い払うように、レノは頭を振った。
むしろアステルならば、過去の三度の生で今回の国王の怪我についても予見できていたのではないか。
だが、そうでなかったとしたら。
「いやー、僕としては早くレノとアステル様のひと悶着をこの目で見たかったから残念だけど。まあきっと大丈夫だよ」
考え込むレノの膝をポンと叩き、マニウスは立ち上がる。
「カト様」
「うん?」
「……いえ。……なんでもありません」
レノは以前、アステルとの会話の中で自分が表現した歪みという言葉を思い返していた。
四度目の生。聖女イリスの不在。そして記憶を取り戻したアステル。当然それに伴って周囲の動きも、大きく変わっていく。
このまま進めばレノは過去の生で犯したという罪を、犯さずに済む。
ならば、その先は?
(全てがアステル様の、長い長い悪夢の話であればいいのに……)
『──だって、私を聖女に仕立てあげたのは貴方じゃない!』
泣き叫ぶ声が頭の奥で反響し、レノは跳ね起きた。
窓の外にはまだ夜の帳が降りている。寝間着は汗でぐっしょりと濡れ、肌に張りついていた。
嫌な夢。それだけは確かだった。
夢の内容はほとんど霧の中に消えていたが、あの声だけは、まるで現実のもののように鮮明だった。責めるような、痛みを孕んだ声。
レノは寝台の脇に置いてあった水を一気に飲み干し、窓辺に手をかける。わずかに開いた窓から入り込んだ冷たい空気が肌を撫でるが、胸のざわつきは収まらない。
(……あの言葉は、俺に言ったのか)
そしてこれは罰なのだろうか。何もかもアステルの夢であればいい──そう願った自分への、ささやかな報い。
そう思った瞬間、レノの頭に鋭い痛みが走った。記憶の奥に踏み込もうとした意識を、何かが拒むように。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます