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 それから程もなく。 アステル・ヴァレリウスの部下、レノ・ファーブルは、扉の前で拳を握り締めたまま動けずにいた。その表情は、通りすがりの者が二度見するほど張り詰めていた。

 アステルに理不尽に怒られるかもしれない。そんな想像は、比較的穏やかに生きてきた彼には慣れないものだった。


「レノ・ファーブルです。会計監査部より書類をお預かりしております」


 普段より幾分かかしこまって声を上げると「入れ」くぐもった声が扉の向こうから飛んでくる。失礼がないように、と背筋を伸ばしたレノは丁寧に扉を開けた。


「失礼します」


 ちらりと視線をやったアステルの机上には、極力投げられたくない重厚な書物や文具が所狭しと並んでいる。そして奥に座すアステルの周りは、本来人間の目で見えないはずの黒い何かで覆われている。


「お忙しいところ大変恐れ入ります。こちら会計監査官のクストル卿より、本日中にお目通し頂きたいと」


 レノはできる限りはきはきと声を上げ、持ち込んだ書類を静かに机上に置いた。もちろんすでに置かれたものたちの邪魔にならないように気遣いながらだ。

 不機嫌を隠さないアステルの目がわずかにその書類上の文字を確認すると「分かった」と無感情に答え、すぐに手元の別の書類に視線を落とした。

 任務完了。思わず口笛を鳴らしたくなるのを堪え、レノが忍び足で後ずさりアステルに背を向けた、その時。

「待て」

 まるで首筋に刃を添えられたかのように空気が張り詰める。息を呑みか細い声で返事をしたレノが振り返ると、据わった目をしたアステルがまっすぐにレノを見ていた。

「お前の姉。──最近縁談は来ていないと聞いているが」

「……よくご存じで」

 それは過去にマキアへ持ち込まれた縁談が、男爵家にとっても、姉自身にとっても不利な条件ばかりだったためである。しかしそれだけが理由ではない。共に育ったレノの目から見ても、彼女には残念ながら貴族令嬢としての嗜みが一切身についていないせいだ。その結果、縁談はことごとく立ち消えていた。そんな彼女の長所を強いて挙げるならその竹を割ったような性格だろうか、とレノは毎日泥まみれになる義理の姉を思い返す。

 そんなレノがそのアステルの発言の意図に気づくよりも早く、アステルは「なら姉に連絡と使いを送る段取りをしろ」そう言いながら何やらさらさらと筆を走らせ始めた。

「何をです?」

「俺との婚約に問題がないか聞いておけ」

「え?」

 レノは自分の耳を疑った。

「なんだ。代わりに屋敷くらい建て直してやる」

 鬱陶しそうに顔を上げたアステルの目には、レノは映っていない。

 レノは眉間を押さえ、深く息を吐いた。──この人は本当に、かの王族と同じくらい厄介だ。

「恐れながら、アステル様。我がファーブル家はもとより姉マキアにおきましても、貴家ヴァレリウスの御威光に相応しき縁者とは言い難く……」

「気にしない」

 幼き日、畑のミミズを握りしめて走り回っていた姉の姿が瞼の裏に蘇る。特技は早寝早起きと紅茶を淹れることくらいではなかったか。

「もちろん、貴族としてはこの上なく光栄なお話ではございますが……アステル様、何かお悩みでしょうか」

 素知らぬ顔で応じながら、レノは先刻マニウスに聞いた話を思い返していた。

 どうやら貴族たちからの縁談の申し込みがレノの想像以上にアステルの頭を悩ませているようだった。しかし尚更、他の貴族たちを差し置いて問題児のマキアがヴァレリウス家に嫁ぐなど言語道断だ。男爵家が名実ともに失墜しかねない。

 レノが恐る恐る尋ねると、アステルは僅かな沈黙のあと目を閉じ半身をぐったりと背もたれに預け、そしてそのまま大きく仰け反った。これを見ろ、と言わんばかりに縁談の書類を乱雑に広げる。レノはそうっとそれを覗き込み、そしてあまりの数に思わず辟易とした。

「面倒臭い。何もかも」

 低くそう呟かれた一言に、彼の疲弊が全て集約されているようだった。

「心中お察しします。が、うちの姉とご婚約頂いてもそれはそれで面倒なことになるかと」

「お前がヘマしないように人質にできるだろ」

「だとしたらそれは面と向かって私におっしゃられないほうがいいですよ」

 本気なのか冗談なのか。レノは小さく溜息を吐いた。アステルの眉間に刻まれた苦労の皺は当分ほぐれそうにない。

「ちなみにその、……も同じようなことがあったんですか」

 以前、という言葉にレノはアステルが経験してきた三度の生を言い含めたつもりだった。そしてそれはどうやらアステルにも伝わったようで、整った眉がぴくりと跳ね上がる。

「いや」

 アステルの頭に浮かぶのは愉快そうに笑う第二王子の顔だった。

「今生に限って奴の教育係になった影響だろうな」

「殿下のご厚意ですか?」

「嫌がらせに決まってんだろ」

 レノはアステルの額に青筋が立ったのを見て思わず身を縮こまらせる。レノには過去の生の記憶がないが、アステルにはエメリクに対し積もりに積もったものが余程あるのだろう。

「となると、やはり今ご結婚の意思がないことをエメリク殿下にお伝えするしかないのでは……」

 もうすでにやっているだろうことは分かりきっていたがレノがそう口にすると、案の定「言った結果がこれだ」とアステルは忌々しげに吐き捨てる。なるほど、それが更に状況を悪化させてしまったのだろう。

 ふむ、とレノは顎に手を当てる。

「でしたらそもそも縁談を申し込まれないようにするしかありませんね」

「そんなことができればとっくにやってる」

「そうですね……」

 レノの頭には、己の失言によるリスクと姉マキアの嫁入りがかかった天秤が浮かんだ。その天秤は、一瞬で前者に傾いた。


「ではご無礼を承知の上で申し上げますが──例えば、アステル様が実はとんでもない性癖の持ち主だということにするとか」


 あっけらかんとそう宣ったレノの言葉に、アステルは一瞬、言葉の意味を測りかねたように目を瞬いた。

 貴族社会では政略結婚がほとんどだ。仮にヴァレリウス子爵家との結びつきを得たいにしても、その婿候補に問題があれば家の評判を落としかねない。しかも相手はやんごとなき格上の貴族令嬢だ。大切な娘をそんな男に嫁がせる親族だとは誰も思われたくないだろう。

「……お前、変わってるって言われるだろ」

「お恥ずかしながら評価を頂く機会に身を置いたことがなく……」

 一度引きつったアステルの唇の端が、わずかに持ち上がる。レノに悟られまいと目を伏せて下を向くが、堪えたはずの笑いが思わず肩を揺らした。

「なるほど、とんでもない性癖ね」

 仕事ぶりの評価については下げたくはないが、その方面であればアステルは誰に何を言われようが構わなかった。父親である子爵当主にはこってり絞られるだろうが、と、発案者であるレノの顔を見上げた。

「面白い。お前の案でいこう」

「……えっ」

「なんだ冗談のつもりだったのか?」

 いえ、と慌てて手を振るレノは分かりやすく狼狽していた。未だ笑いを堪えていたアステルはその瞬間、これまで何度も見ていたはずのレノの瞳の色に初めて意識が及んだ。

 鮮やかな瑠璃色の瞳。それがアステルの背に位置する窓から差し込んだ光を浴びて宝石のように瞬いている。

 過去三度の生の中でレノの瞳がどんな色だったかどうか、アステルの記憶には少しも残っていなかったのだ。エメリク達王族のアメジストのような強い輝きは嫌という程脳裏に染みついているのに。

 はっと我に返ったアステルは、先ほどまで書きかけていたファーブル男爵家宛の手紙をくしゃくしゃと丸めて屑籠くずかごに放り投げる。

「レノ・ファーブル。発起人としてしっかり責務を果たせよ」

「は、はあ」

 立ち上がったアステルはどこか楽しげに歩き出し、レノを置いて執務室を出ていってしまう。一体何の責務だ、と、レノはその背を追いながら慌てて執務室の鍵を閉めた。本を投げられずに済んだ額を無意識に撫でながら。

 レノはこの後己の提案を心の底から悔いることになろうとは、その時思いもしなかった。


 ◇ ◆ ◇


 食堂での夕食を終え寄宿舎の自室に戻ったレノは床に尻をつき、寝台にもたれながら思考を巡らせていた。

 アステルから聞かされた、過去三度の生。その中でも、レノにとって決して忘れてはならない情報がある。


 ──聖女イリスを殺し、そして自分が処刑された日。それが、いつに迫っているのかだ。

 『時間がない』と言ったアステルの焦りが、今ならよく分かる。


(あと一年半か)


 運命の日。あるいは終末の日と呼ぶべきかもしれない。

 今度こそ未来を変えようと奔走するアステルにとって、己の縁談など砂粒ほどの問題なのだろう。

 レノは目を閉じ、深く息を吐いた。

 そして思い返す。寿命が残り僅かだと告げたアステルの、言葉の淀みと、心苦しそうな顔を。

(あの人は、三度の生で俺のことをどう見ていたんだろう)

 今生ではまだ出会って間もないが、過去の記憶を持つアステルにはレノに対して何らか思うところがあるはずだった。

 単に聖女の命を奪った罪人だと思っているなら、ここまで丁寧にレノの面倒を見るはずがない。一方、レノのせいで生を繰り返しているのだとすれば、アステルにとっては相当に厄介な存在のはずだ。


 このままイリスが現れなければ、レノは天寿を全うできるのか。

 己を殺したエメリクではなく、セオリオが王となるのか。


 うとうととレノが睡魔に襲われはじめたその時、


「ちょっとレノ!?」


 爆音と共に、部屋の扉が吹き飛ばん勢いで開いた。けたたましい音と共に許可も得ずレノの部屋に転がり込んできたのは、息を切らしたマニウスだった。

「びっくりした。何かあったんですか」

「それ僕の台詞だけど!?」

 レノの肩を掴みがくがくと前後に揺さぶりながら「こっちは大騒ぎだよ!」マニウスは声を荒げる。その目は血走っていた。

「て、敵襲ですか?」

「そっちの方がよっぽどマシ!」

「でしたら一体、」

「だから、──レノが、アステル様のだって騒ぎになってるんだよ!」


 ぴん、とマニウスはレノの鼻先で小指を突き立てる。レノは思わず眉間に皺を寄せた。


「? なんですかそれ」

「とぼけやがって! だから、君が、あのアステル様の恋人だって!」

「……はぁ」

 レノの脳が一瞬フリーズする。呆けた声を漏らすと、マニウスは両手で頭を抱えた。

「何をどうしたら一日でこんなことになるんだ!」

「カト様申し訳ございません。今全く頭が追い付いておりません」

「僕もだよ!」

 あの人は時々ああいう奇行に走るんだ、と唸るマニウスを前に、レノはようやく事態を飲み込み始める。


 自分がアステルのになっている──と。


「……えっ、どういうことですかそれ」

「あのね、聞きたいのは僕の方だよ」

 顔を見合わせるレノとマニウス。脳がパンクし思わず催した吐き気に、レノは慌てて手で口を押えた。


──マニウス曰く。


 アステルとレノが執務室を出て別れた後、アステルは早々にエメリクの元を訪れ、こう宣ったそうだ。


 自分にはレノという決まった相手がいるので、この秘めたる愛を遠くから温かく見守ってほしいと。

 

「もしやアステル様は、……頭のご病気なのでは」

「命が惜しいならその疑問は胸に仕舞いな」

 そしてレノは己の理解力と失言に眩暈を覚えた。確かに、提案したのは自分だった。

 アステルはとんでもない性癖を持っている、そんな設定にすればいいのだと。

「ファーブル男爵家は取り潰しになるでしょうか……」

「うんうん、ヴァレリウス子爵家には早々にご挨拶に伺っておいた方がいいんじゃない」

「さては私の死を早めようとなさっている?」

 レノは男、アステルも男。

 お互い貴族に生まれた以上、伴侶を迎え子を為すのが当然だ。

 レノは天を仰ぎ、心の中で静かに叫んだ。

(そんな責務、聞いてませんよ……)

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