君と見る夜明け

色葉充音

君と見る夜明け

 僕たちは変化を知らない。

 知っているのは、時の止まった幸せなここと、お互いの存在だけ。あまりにも、何も知らないんだ。


 今日も隣にいるのは、僕とそっくりな見た目の弟。いつしか空を突き刺すほどに大きくなった木をぼんやりと眺めている。


「ねえ、弟。僕たちは何をしているんだろうね」


 それはほんの興味からの言葉だった。だって、弟は幸せを映していなかったから。


 ここには暖かな寝床がある。空腹を知らずに済む食べ物がある。誰にも脅かされない安心がある。時間と自然ですら僕たちの味方だ。

 ただ、「変化」というものがないだけで、何の不足もない。


 そんな幸せなここで、幸せを映さない君に興味が引かれた。


「それは俺も知りたいよ」


 ぶっきらぼうなその言葉に、小さく笑みを返す。


 確かにここは幸せだ。だけどそれは、今を生きる者にとっての話。睡眠も食事も、肉体の時が過ぎることすらない僕たち——今を過ごす者にとっては何の関係もない。


 ふと、視界の端でふわふわと尻尾が動く。寄り添いあって歩き出した彼らが向かう先は、ここの外だろう。


「ねえ、弟。今を生きる者はいつかここから離れていくね」


 外は……、変化というのは、そんなにも魅力的なものなのか。幸せなここから抜け出してまで知りたいものなのか。


 時が動いて変化が起こると、いつか必ず死が訪れる。愛する者を失うかもしれない。愛する者を遺すかもしれない。


 失うのは何も、死が別つ時だけではない。寝床が欲しいから、食べ物が欲しいから……そんな些細にも思える仲違いで、愛する人を自ら突き放すことだってあるはずだ。


 それでも彼らはここから出ていく。


 僕たちはきっと、今を生きる者にはなれない。だけど、楽しそうで幸せそうな彼らの気持ちを知りたいと思った。


「ねえ、弟。僕たちもここから離れてみない?」

「……なぜ?」

「ここから離れてみたら、今を生きる者の気持ちがわかるかもしれないよ」


 弟は数秒考えた後に、こくりと頷く。


「では、行こう」


 僕たちは飛び立った。

 気持ちの良い風に乗って、ここの外へと向かって。目的地なんてものはない。ただ、真っ直ぐと、変化の世界へ向かって。


 ここから出た瞬間、世界は動き出した。


 同じ景色のはずなのに、毎日、毎時間、毎分……瞬きをするたびに世界は変わる。目には見えない風が歌う。ふわりひらりと雲が踊る。僕たちはその隙間を飛ぶ。


 山は話し上手だ。冷たく歌う風に合わせて、あか白銀しろがねと話題を変える。

 海は聞き上手だ。明るくわらう山に合わせて、嬉しそうに微笑み、大きく頷いて、自身の青の深みを変える。

 風はやっぱり歌が上手だ。色を変える海に合わせて、時に柔らかく、時に刺々しく、時に穏やかで、時に無機質……。同じ歌は一度も聞いたことがない。


 空は、僕の心を映しているかのようだ。弟と笑った時は、果てまで届くような紺碧こんぺき。弟と泣いた時は、飛ぶのすら億劫になるすず色。弟と喧嘩した時は、落ち着けと言わんばかりのあかね色。弟と仲直りした時は、包み込むような薄藤うすふじ色と紅藤べにふじ色。


 今、弟と見ているのは、夜から朝へとつながる瑠璃るり色。


「なあ、兄」

「何かな?」

「今を生きる者は、これを自分の眼で見たかったのかな」


 そう言った弟の瞳は、瑠璃色に染まっている。


 ねえ、弟。君はこの夜明けを通して何を見ているの?

 過去? 未来? ……それとも、今を生きる者の気持ちが分かったのかな?


 僕はね、よく分かったよ。


 この変化のある世界を君と一緒に見ていきたい。確かに魅力的で、不足のないあそこよりも美しい世界を。……ただ、君を失うのが怖い。それでも、もうあそこに帰りたいとは思わない。


 正しく矛盾だ。弟を失いたくないのなら、あそこに帰ればいいだけの話なのだから。だけど、僕たちは変化の美しさを知ってしまった。時の止まったところになんて、もういられない。


「そうかもしれないね」


 そうやって弟に返した。


 僕はそっと、瑠璃色の夜明けに視線を戻す。

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君と見る夜明け 色葉充音 @mitohano

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