2、橋の下に
高野山には、誰もが一度は名を聞く“奥の院”という場所がある。
幾千もの供養塔が並び、空気そのものが静まり返ったような、昼でも薄暗い場所だ。
その奥の院の手前には、水かけ地蔵がある。
地蔵のそばには、いまも弘法大師・空海が瞑想を続けているとされる御廟があり、その御廟へと渡る小さな橋がある。
不思議な出来事は、その橋の下で起きた。
私の父は今でこそ寺の住職をしているが、もとはごく普通の会社員だった。
私が小学生の頃、突然、高野山での修行を志したのだ。
父が修行に出ている間、私たち家族は夏休みだけ高野山で過ごしていた。
父の修行には、仏の教えの勉強だけではなく、宿坊に来る客人の世話も含まれていた。
夏休みになると、小学生の団体が泊まりにくることがあり、その子どもたちのために「肝試し」が行われるのが習わしだった。
その夜も、肝試しはごく普通に始まるはずだった。
私と弟、同い年くらいの少年が二人、そして父の五人だけの小さな一組。
水かけ地蔵のわきを抜け、御廟橋の下へ続く石段を降りていく。
橋の下には小さな小川があり、川の端には細いろうそくが二本、立てられていた。
父は何も言わず、そのろうそくに火を灯した。
辺りの闇が揺れ、川面がぼんやり赤く照らされた。
「それじゃあ、川に足を付けてみましょうか」
父がそう言い、一人の少年がそろそろと川へ近づいた。
その瞬間だった。
ボウッ──
音がして、ろうそくの炎が一気に伸び上がった。
風もないのに、炎は空気を押しのけるように真上へ。
まるで何かが怒りに任せて、火をつかみ上げたかのように。
炎は十センチほどにまで膨れ、川面を赤黒く染めた。
私たちは一斉に後ずさった。
誰も声を出さない。出せなかった。
やがて、静まり返った闇の中で、父が小さく息を吸った。
その声は震えていた。
「……帰りましょう」
私たちは一言も話さずに、来た道を引き返した。
あの夜のことを、父はほとんど語らない。
ただ私は、あの場所が“修行の場”であると後から聞いた。
修行の場──つまり、何ものかが常にそこにある場所だ。
あの伸び上がった炎は、近づこうとした私たちを
「ここから先へ踏み込むな」
と、静かに、しかし確かに、怒っていたのではないか──
今でも、そう思えてならない。
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