紫陽花

@ebimaru51

紫陽花

 夜、色鮮やかに花開く遊郭、客や遊女の賑やかな声が道をうめる。しかし、昼間の吉原は客の出入りは一切なく、あくせくと働く若手の姿がちらほらするのみ。姉さんたちはみな居室で静かな寝息を立てて昨夜の疲れを癒し、遣手婆は若い衆や新造、わちきら禿に次々と指示を飛ばして今晩の準備に勤しんでいる。こんな、華やかさのかけらもない吉原をわざわざ尋ねてくる男がおりんす。

 「お嬢ちゃん」常のことながら洗濯する手を止められ、振り返らずともあのみすぼらしい男の姿が眼に浮かぶ。若白髪を束ねた総髪に、ほつれの目立つ長着から覗く手脚は痩せ細っている。他の旦那やご常連とは違って、わちきを坊と呼ばない奇妙なお客。

 「はい、なんでありんしょう」

 「これを渡してくれないかい」墨だらけの掌には、対照的な真っ白な折り鶴が一羽、凛と置かれておりんす。

 「御桜花魁は裏の張見世で待っておりんす」桶をおいて、楼の裏へと案内する。誠ならば、部屋なし遊女すら買えぬ男に楼の看板とも呼べる花魁を会わせてはならない。されど、常日頃ようしてくれんす御桜花魁へのお礼といたして、この男との密会に立ち会っておりんす。

 「あぁ、主さんを待っておりんした」

 「こ、これ」姉さんの可憐な手に折り鶴がよく似合う。この男が姉さんにとって大切な人だということは知っておりんす。しかし、遣手婆に知られれば御桜花魁は楼での立場が危うくなる。正直、わちきは姉さんの身のためにも会うのをやめてほしい、だけどそれができぬのが姉さんたちの売る「恋心」のせいなんでありんしょうな。小半時程、格子越しに話す二人の背を眺めながら、新造や若い衆にこの事が漏れぬよう警戒し、見守った。

 「お嬢ちゃん、すまねぇな。これお駄賃」と渡されたのは一粒の飴玉だった。楼で働き始めてからは、よく食べれるようになったけれど、昔はそうではなかった。いつも甘味をお駄賃として置いていく、子供心はよく分かる男のようね。


 その晩、御桜姉さんの居室に呼ばれた。まさか、遣手婆に知られてしまったのだろうか、不安にかられながら駆けるようにして部屋へ向かった。

 「御桜姉さん、何かありんしたか?」

 「いいえ、違うの。お前さんとお話がしとうて呼んだのよ」と足元へと呼ばれる。姉さんの部屋からはいつも桜のお香の香りがする、御桜花魁の名に恥じぬ高貴な匂いでありんす。足元で正座し直すと、大きな袖の中から見たこともないひのきの櫛が出てきた。

 「梅の髪は綺麗だねぇ、櫛がよう通りんす」

 白魚のように白い指が優しく、優しくわちきの髪をすいてくれる。姉さんはお気づきでないかもしれませんが、気を落としている日はよく身の回りの世話をしたがりんす。昔言っていた、妹たちとわちきを重ねてるのね。髪をすかれるのは初めてではないけれど、この紫陽花柄の櫛は見たことがない。

 「姉さん、この櫛は?」見上げるように尋ねると、切なげな笑みを浮かべ、朱色の紅がよく似合う艶やかな唇を開いた。

「これはねぇ、故郷に住むおっかあがくれたのよ。女は髪が命と言うでありんしょう?」

 髪は女の命、吉原ではなおさら髪が大切になる。長さも大事だけれど、何よりも艶やかで美しい髪が好まれる。御桜姉さんはこの楼の中でも一際美しい黒髪で、皆その姿を一目見ようと、ここ稲本楼を訪れるほど。その最中、今朝新造らが話していたことを思い出した。別の楼で、あるお客人と駆け落ちをしようとした遊女が楼主によってその髪を切られてしまったとか。いくら御桜姉さんが花魁でありんしても、見せしめとして髪を切られてしまうかもしれん。吉原で働く身として、絶対にあってはならぬことです。

 「姉さん、もうあの男に会うのはやめておくんなし。わちき、姉さんの髪が切られるところなんて見とうない」

 「ふふっ、新造から脅かされたのよ。それにわっちならもう髪を切られても大丈夫でありんす」そう答えた姉さんの声は少し震えていて、見たこともないほど悲しげな顔をしておりました。はじめは何を言っているのかわからなかったけれど、瞬く間に意味がわかりんした。

 「...身請け先が見つかったのですね」

 「えぇ、ご常連のお大臣様がいるでしょう。あのお方のもとへ行くことになりんした」

 「いつなのです?」

 「ひと月後でありんす」

 そんな素振りなど一切見せなてこなかった。だから姉さんはあの男にしきりに会いたがったのだ。毎日は来ないが七日のうち三日は顔を出し、そして決まって折り鶴を折ってくる。姉さんを見る限り、あの折り鶴の中には何かしら墨で書かれているようで、いつも甲斐甲斐しく墨で返事をお書きになられていた。

 「あのお方は知らないのでしょう?」

 「えぇ、伝えません」

 吉原で生きている身として、身請けが決まってもお客人にそのことを伝えることなく、一晩にして姿を消すのが暗黙の了解。聡い姉さんのことだから、伝えることを視野にも入れず一人去る気なのね。

 「さあさ、もう日が昇るわ。共同居室に戻りんさい。もしあの人が訪れたら呼んでおくんなし」

 静かに襖を閉めて、他の禿のいる居室に戻る。姉さんに髪をすいてもらうと、髪がより艶やかになる気がする。歩くたびにさらさらと揺れる黒髪が楽しゅうて、姉さんの話を聞いても少しだけ足取りが軽いままだった。だけどあの優しく、暖かい仕草は故郷のおっかあを思い出すから少し、少しだけみんなに会いとうなりんす。


 月日は流れ、御桜花魁の身請けまでもう三日ばかり。昨晩は、身請け先のお大臣が楼主へ

最後の挨拶をしに訪れていた。お大臣様はあの男よりも裕福で余裕のある、本来ならば吉原では珍しい良き相手だと思う。座敷にお通しする際、少し話したらとても優しゅうござりんした。だけどお大臣様に寄り添う姉さんの笑みは、あの男とする他愛もない会話の際とは比べものにならない。姉さんの「恋心」は金も地位もない、あの男に向いているのでしょう。

 「お嬢ちゃん」常のことながら洗濯をする手を止められた。されど、姉さんの話を知ってしまった今、男の顔を直視できぬ。

 「御桜花魁は裏の張見世で待っておりんす」案内しようと思っても、足がすくんで動かず。他にかける言葉も見つからなくて、裏の張見世に続く道を指差し、一人で男を送り込む。常と違うのはわちきが案内しなかったことと、もう一つ、二人の密会が一刻ほどもかかったことでありんす。普段ならば小半時ほどしか話さぬ二人、おそらくは姉さん、あのお方に身請けの件をお伝えしなんしたのかもしれないわ。

「お嬢ちゃん、これお駄賃な。また明後日くるから」何やらご機嫌よう戻ってきなんして、飴玉を二つ置いてかれた。それが不思議で、つい張見世の姉さんに尋ねてしまった。

 「御桜花魁、何故明後日くるようにと?」

 「わっちは、身請けされんす。だから、梅。あなたに最後のお願いがありんす。頼まれておくれ。」柔らかい両手に頬を包まれて、姉さんの綺麗な顔が目の前いっぱいに広がる。このお顔が見れるのもあと二日。見世に戻り、姉さんの居室へと二人で向かう。その間もずっと手を引いてくれた。襖を開ければ、畳に色鮮やかな折り紙の紫陽花が一面中広がっていた。いつの間に折りなおしていたのやら。

 「これはあのお方がくれた恋文なんよ。あのお方はわっちが文字が読めるとは思っていんでしょうけどね。これをわっちの打掛の生地に包むから、わっちが吉原をさった翌朝、あのお方に渡しておくれ。」そう告げた姉さんの瞳に写ったわちきは揺れていて、作った笑みも震えていた。


 御桜花魁の稲本楼からの送り出しはお大臣様の意向もあって華やかに執り行われた。多くの旦那や遊女たちに見送られて姉さんはゆっくりと吉原を後にした。その日の朝方、常のことながらあの男が吉原を訪れた。今日も今日とて折り鶴を手にしている。

 「お待ちしておりんした」

 「お嬢ちゃんが出迎えてくれるなんて珍しいな」

 「御桜花魁は昨晩、身請けされんした。こちらは花魁からでありんす。」包みを渡し、男が恐る恐る袋を解くと中からあの時の紫陽花が溢れ出た。一輪開くと、男はその場に崩れ落ちて息を殺すように咽び泣いた。か細い肩をこれでもかと言うほど震わせて、大粒の涙が地面に染み込む。その姿を見て、初めて姉さんがもう戻ってこないこと、もう会えぬことがわかりんした。


 後日、他の姉さん方から聞いた話だと、あの男は鳴かず飛ばずの戯作者で、御桜花魁に一目惚れしていたそうでありんす。そういえば、とある浮世草子がこの頃吉原付近ではやりんした。連れ添うことできぬ二人が結ばれる物語、表紙は紫陽花で埋め尽くされているそうな。そして、紫陽花の花言葉は「ひたむきな愛」だとか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

紫陽花 @ebimaru51

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ