第10話

  翌日も薬を飲んで大人しくしていたからか、ブルームの体調は悪くはなかった。

 こうしていると、ヒートが来ても服薬を続けていれば今まで通りに生活できるのではないか、などという考えが浮かんでくる。

 午前中は入れ替わり立ち替わり、具合はどうだ、必要なものはないかとご機嫌伺いに来ていた使用人たちも午後には見かけなくなった。

 暇を持て余したブルームが絨毯張りの床で腕立て伏せに励んでいると、またノックもなしにニコラが部屋の戸を開けた。

「あら? お兄様がいらっしゃらない?」

「いるよ、ここだ」

 思いもよらない低い位置からの返答に、妹は翠の目を丸くして硬直した。

「いやだわ、お兄様ったら! 今ね、お使いの方が来ておられるのよ。お手紙とこれをお届けにですって。そしてお兄様のお返事をいただくまでは帰りませんっておっしゃって、今階下(した)でお茶を飲んで待ってらっしゃるわ」

「誰のお使いだって?」

 床から立ち上がって訊いたブルームにニコラは生意気そうに目を細めた。

「これを見て、お分かりにならない?」

 ニコラの腕には大切そうに花束が抱えられていた。真っ赤な薔薇の花には緑の葉がついたまま、たっぷりとした金色のリボンでまとめられていた。

 綺麗だなと思うより先に、高そうだなあとブルームは思った。

「俺に薔薇の花? お前宛てじゃなくて?」

「バカねえ、お兄様ったら」

 とうとうクスクスと笑い声を立ててニコラは封のされたシンプルな封筒を手渡した。


 ブルーム・スカリーさま


 ブルームには逆立ちしたって書けそうにない流麗な文字で、しかしその筆跡には明らかに男性によるものだろうと思うような力強さを滲ませて、そう記されていた。

 封筒を引っくり返した兄の顔を、ニコラは満足げに見上げていた。

「……殿下からなの?」

「そ、う、よ。お兄様。この見事な薔薇も、ひょっとしたら王宮の温室のものかもしれなくってよ。だってホラ、香りに気品がありますもの」

 薔薇の花の香りを吸い込んで陶然と微笑む妹を気にする余裕もなく、ブルームは慌てて封を切って中身を確認した。


 祝福の子となられた貴殿にまずは、お手紙でのご挨拶となりました無礼をどうぞお許しください。

 早くお目にかかりたいと逸る気持ちはありますが、貴殿のお身体のためにも今はその時でないのだと、しきりに諫められております。

 本当は私とて、あなた様にお会いしたくてたまらないのです。

 貴殿は近衛兵団にいらしたと聞き及び、まさかこんな近くに私の運命がおられたのかと驚き呆れる気持ちです。

 驚きは貴殿のために。そして呆れは私の愚盲のために。

 どうか私の真心の一端として、この花をお受け取りいただけますよう。

 そしてお身体が安定なさいましたら、ぜひ一度王宮へいらしてください。

 私の方からそちらへ伺うべきだと強く主張したのですが、貴殿のお屋敷は本邸ではないとのこと、却ってそちらにご負担がかかるそうなので。

 お呼びだてして申し訳ない気持ちではありますが、送迎の馬車はこちらでご用意しますので、ご都合をお知らせください。

 龍神様のご加護が貴殿に絶え間なく降り注ぎますように。


 どうかどうかご自愛ください アデレード・パルティオン


 御手がどうやら本物らしいと判断したブルームは呆然とした顔でニコラに言った。

「どうしよう、俺、手紙とかだいぶ苦手なんだけど」

「拝見してよろしくて?」

 もとからそのつもりであったくせに、妹は花束をそっとサイドテーブルに置いて殿下の御手を恭しくいただいた。

「まあ素敵! お歌こそ詠じておられないけれど、エレガントで愛情深いラブ・レターだわ。殿下って本当に素晴らしいお方なのね!」

「お歌なんか作られちゃ、俺が困るんだよ。返歌なんかどこをどうしたって、一文字も出ないからな。っていうかこんなの返事できねえって。どうしよう。お前、なんかないの。なんかこういうの、本でいっぱい読んでんだろ!」

 すっかり狼狽える兄の姿がおかしいのか、ニコラは肩を震わせている。もう十九とはいえ、戦闘狂の武官に恋文は無理があるだろう。

「とりあえず、お花のお礼をおっしゃって、ヒートが終わりそうな頃合いをお伝えしたらよろしいのではなくって」

「そ、そうだな。そうだよな。花ね、花、花。……なに、その顔は」

「お兄様はお気づきでないのかしら」

 愛らしく首を傾げて、だがニコラの目はいたずらっぽくキラキラと輝いていた。

「このお花、お兄様のことよ」

「薔薇の花があ?」

 どう見てもこんなゴージャスな花、男に贈るもんじゃなかろう、とでも言いたげな無粋な兄にニコラは声をひそめてこう言った。

「薔薇を贈るのにわざわざ葉っぱをつけるなんて、カサ増しにしたっておかしいでしょう。殿下はお兄様の目の色をお知りになったんだと思うわ」

 そしてお兄様のその髪の色も。

 言われてみれば、赤と緑の取り合わせはよく見慣れたものだった。

「そしてそれを抱きしめるように、金色のリボンで結んでおかれるなんて。殿下って、とても情熱的な方だわ」

 殿下は確か金髪の、と思い出してブルームの顔は蒼白になった。

「あらやだ。赤くなるかと思ったら、青くなってらっしゃるの」

「俺、こういうオシャレなやりとりほんと無理なんだってば! どうしよう、返事できんぞ。お前代筆してくんない。字だってお前の方がだいぶ綺麗に書けるだろう」

「ダメよ、こんな熱烈なお手紙に代筆で返すなんて。殿下だって、わたくしの字なんかよりお兄様の直筆を喜ばれるはずだわ」

「いや無理、ほんっと、無理。っていうかすでにもうだいぶツラい」

 兄妹がごちゃごちゃと揉めているところへ、メイドが強めにドアを叩いて言った。

「ブルーム坊ちゃま。あちらのお使いの方がお茶をもう二杯もお飲みです。そろそろ返事をくださらないかと言われていますが、まだ書けないんですか」

「しかも急かすのっ? じゃあちょっと代筆してくんない。それか今すぐ代筆屋呼んで」

「代筆なんて、そんなの私無理です。パパッと書いちゃえばいいでしょうに、人、待たせてるんですから!」

「そうよ、お兄様、形式よりまずは気持ちよ。紙くらいはお持ちなんでしょう。ないならわたくしのを差し上げますけど」

 と左右から女たちにせっつかれて、ブルームはしぶしぶ素っ気ない白い紙にペンを走らせた。

 サインをする時以外にほとんどペンを握りもしないブルームは、やっとのことでこれだけを書き上げた。


 アデレード殿下へ


 お手紙とお花をありがとうございます。

 ヒートは来週には終わるだろうと医者が言っていました。

 それと、俺の髪は赤い赤いと皆言いますが、実際はオレンジというか茶色っぽい色なので、殿下ががっかりしないかとても心配です。

 馬車は助かります。よろしくお願いします。


 不慣れなものですみません ブルーム・スカリー


 綴りに間違いがないだけマシという出来映えの手紙がどうにか仕上がると、メイドはひったくるようにそれを持って足早に階下に降りて行った。

「お兄様って、お歳の割に子供っぽくていらっしゃるのよね。きっとそこも、いいところではあるんでしょうけど」

 こまっしゃくれた妹に恨めしげな目を向けてブルームは唸った。

「だから代筆してって、言ったのに」

「どうせしばらくは外出もできないんでしょう。よい機会だから、わたくしの本を貸して差し上げるわ。風雅な恋物語でもお読みになって少しはお勉強なさるべきよ。腕立て伏せなんてしている場合ではないと思うわ」

 もう何も言えずにベッドにパタンと倒れ込んだ翠眼に真っ赤な薔薇の花束が飛び込んで、ブルームは気絶するようにそのまま目を閉じてしまった。

 ヒートも辛いには辛いが、恋文の精神的ダメージもブルームにはなかなかにキツいものがあったようだ。

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