第7話 8月31日 深夜②

「……っと、家に着いたな」

 石垣が途切れてスロープになっている箇所を登ると、俺の家が見えた。

『おお、随分立派な屋敷じゃのう』

 ナリがそう言うのも無理はない。そこにあるのは古めかしい塀に囲われた、いかにもな日本家屋だからだ。ただし――

「ああ、違う違う、俺の家はこっち」

 俺の家ではないので、特に何の感傷もないが。

 一応俺の家――志藤家は、件の桐谷氏の遠縁に当たるらしく。家の事情でここに移り住んだ時、頼りにさせて貰ったのがこの家だった。

 塀に囲われた日本家屋ではなく、その脇に立てられたプレハブ小屋のような家、そこが俺の家である。

『なんというか、貧相じゃのう』

「住めば都ではあるんだけどな」

 誰もいないだろうから、ナリと普通に会話しながら家の鍵を開ける。ドアノブをひねると、昼の間からずっと閉じ込められていた熱気が感じられた。

「狭いけど――一国一城の主って奴だ」

 半分皮肉で、半分自慢でそう言うと、俺は家の中に入ってドアの鍵を閉めた。盗まれるようなものもないが、この血まみれでボロボロになった服を誰かに見られるのはマズい。

「ほうほう、ここがソーマの家か、見て回って良いか?」

 ナリが俺の身体から抜け出して、興味深そうに周囲を探っている。俺が許可する前に見て回ってるじゃねえか。

「ああ――俺の身体も随分慣れたみたいだし、シャワー浴びてくるよ」

 まあ見て回ると言っても、キッチンと寝室、あとは風呂トイレしかない家なんだがな……まだじいさんが居た頃は窮屈で賑やかだったが、今はもう随分と静かになってしまった。

 俺は血まみれのワイシャツとズボンを脱いで、自分の姿を改めて確認する。血まみれでドロドロにはなっているが、傷口のあった部分は何の痕跡も残っていなかった。

 服は……もう着れないだろうな、丸めてゴミ箱に突っ込もう。ズボンの方はクリーニングに出せないこともないが、こんな状態で店舗に持って行っては、何かしらの事件性を疑われかねない。

 シャワーの蛇口をひねり、生ぬるいお湯が身体を撫でていく。

「ソーマぁ、ここにある饅頭食べてよいかー?」

「人んちのものを勝手に食うんじゃねー」

 ナリが部屋の方から声を掛けてきたので、俺も大きめの声を出して答える。恐らく神棚に供えているお菓子だろう。あいつは神霊ではあるが、流石にそこまでの無体は許されないだろう。

 しかし、この家で大声を出すなんて、本当に久しぶりだ。

――どんな血筋でも、お前はお前だ。

 ふと、二人で生活していた頃によく言われた言葉を思い出す。

 居なくなった両親の代わりに俺を引き取ったのがじいさんだった。実の祖父というわけではないが、年齢は八十にさしかかろうかと言うくらいだったから、じいさんと言って差し支えはないだろう。

 桐谷の一族は、昔からの家柄と言うこともあり、それなりに家系図は膨大だ。その隅に居た俺と、俺から一番近くに居て独り身だったじいさんが引き合わされて、ここで暮らしていた。

 そんな爪弾き者同士の共同生活だったが、じいさんはことあるごとに俺にそう言い聞かせていた。まるで、自分に言い聞かせているようにも聞こえたが、俺はその辺りを深く追求しなかった。

「ふぅ……」

 俺はシャワーのお湯を止めて、タオルで身体を拭いて下着を着る。正直一人暮らしだったからパジャマのない生活が長かったのだが、ナリが居る手前、体操着のハーフパンツくらいは着ておくべきだろう。ほら、神様って不浄を嫌うし。

「おお、上がったか。先にいただいておるぞ」

「お前……」

 俺が学校指定のハーフパンツをはいて居間兼寝室に戻ると、ナリは神棚に供えられた饅頭の包みを乱暴に剥がしてかぶりついていた。

 ため息が出るが、それ以上に気になることがあった。シャワーを浴びている時に気づいても良さそうな物だが、やはり実際に目にすると違和感がある

「飲み食い出来るのかよ」

「うむ、ソーマと同化したおかげでな」

 いや物質的にどうなってんだ? とかいろんな疑問が浮かぶが、もう目の前で実際に「ある」ので、気にしたら負けなのだろう。というか俺、食べるなって言ったよな?

「で、ソーマよ。夕食はどうする?」

「明日起きてから食うよ。ナリの分の布団も敷いて置いてやるから、とにかく寝るぞ」

 ナリにツッコミを入れることを諦めて、俺は押し入れから布団を引っ張り出す。明日は始業式しかないが、曲がりなりにも登校日なのだ。十二時を回っている今、睡眠以上に優先することなどなかった。

「むう、食べねば大きくなれぬぞ」

「もう充分デカくなってんだよ」

 じいさんが暮らしていた時からのしつけで、掃除だけはきっちりやっていたのが功を奏したな、布団を二つ敷けるスペースが充分に確保されていた。

「なーソーマぁー、儂もうちょっとお主と話したいんじゃがー」

「今は寝るのが先だ。朝起きたら好きなこと話して良いから」

 友達の家に泊まりに来たかのようなナリのかまってムーブをシャットアウトするように、俺は深く布団をかぶった。


――


 しくじった。単純に私はそう思った。

 剣祓と天津鉾鉄の刀は人を傷つけるための道具ではない。一度使えば穢れにより神霊を着る力を失い、それどころか使用者に霊障をもたらす存在となってしまう。

「貴様……!!」

 狐火の数が一気に数倍に膨れ上がると同時に、稲荷神が使う刀から青白い光が迸る。現状どうあっても倒す方法の見つからない相手が、更に力を増している。既に私がどうにか出来る範囲を逸脱していた。

「くっ――!!」

 だが、相手は稲荷神、神霊である。だとすれば、まだどうにか逃げる方法は存在した。

 私は地面を蹴り、鳥居から外へ飛び出した。そのまま鞘を拾って刀を納めると同時に、全速力でその場から逃げ出す。

 殺してしまった。任務は失敗した。遺族への謝罪をしなければ。様々な思考が浮かぶ中、私はこの件をどう報告するべきか、分からなくなっていた。すぐに本部へ連絡をするべきか、それとも定期連絡である明日を待つべきか、人を殺めた罪悪感が、正常な判断を邪魔していた。

周囲の景色は黒々とした闇に包まれており、人の気配は感じられない。

私は誰一人居ない闇の中を、セーフハウスまで足を緩めずに走り抜ける。

人気の無い寂れた町並みを抜けて、国道にほど近いアパートの一階に鍵をさしてドアを開ける。そこが鎮守特務庁に与えられたセーフハウスだった。

入居者は私以外いないことを確認しているので、誰に憚ることもない。靴を脱ぎ捨てると、殺風景な部屋に唯一置かれたベッドに倒れ込んだ。

 このまま、今起こったことが夢であればと思う。しかし、夢ではない。手の感触は未だに残っているし、制服に飛び散った返り血も、鞘に収まった刀につく血糊も、全てが私を責めるように存在を脳にこびりつかせていた。

 どうすればいい、どうすればいい。

 私の脳は、興奮により、正常な判断を出来なくなっていた。そして、幸いなことにそのことを自覚も出来ていた。だから、私はスマホを取り出して本部へ連絡をする。

 しばらくのコール音。そのあと聞こえてきたのは、無機質で聞き慣れた声だった。

『どうした。任務は完遂したのか?』

「父上!? いえ、その……っ」

 まさか、電話をこの人に取られるとは思わなかった。それを知っていれば、連絡をしなかったかもしれない。

『歯切れが悪いな、牡丹。はっきりと言え』

 苛立ちを感じ取って、萎縮しそうになる身体をなんとか抑え、なるべく声に震えが伝わらないように気を遣って話す。

「……人を……殺しました」

『なっ――』

 なんとか、その言葉だけを絞り出して、私は通話を切った。

 慰めて貰いたかったわけではない。これは任務の報告であって、家族の会話ではない。だが、それでも、自分の罪の重さを誰かと共有したかった。

 私はそのまま意識が途切れるまで、漠然とした不安に身体を押さえつけられて動けずにいた。

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