神祓
奥州寛
第1話 8月31日 昼間
夕闇に沈みかけた長い石段を、息を切らして上る人影があった。
年の頃は二十代半ばといった頃だろうか、一つに纏めた髪を団子にして、汗のにじむうなじを露わにしている。和服の色は柔らかな薄桃色で、長い石段を登る途中で下に着ている襦袢がはみ出していた。昼間の刺すような日差しを避けてこの時間に外出したのだろうが、それでもこの長い石段を登り切るには、彼女の身体ではかなりの重労働だった。
彼女は石段の頂上まで到着すると、いたわるように下腹部を撫でた。傍目には見分けがつかないが、そこには新たな命が芽生えているはずだった。
身籠もったと教えられたのは、三日前のことである。
長い間子宝に恵まれず。ようやく授かった命だった。彼女は呼吸を整えると、頭を上げてその先にあるものを見る。
それは古めかしい鳥居と、こぢんまりとした社だった。社は生い茂る木々に遮られ、闇に溶けるようにその亡霊のような影を残していた。そして鳥居は、血のような夕日を浴びて、より深い色になっている。
異様な雰囲気に息をのむ。しかし、それでも彼女はこの社に参らずには居られなかった。
何を祀っているかのいわれも分からず。ただこの地に移り住んだ時からそこにあり続けていた。その社に安産祈願をしてはじめての赤子を授かったのだ。お礼参りをせずには居られないだろう。
彼女は作法に則り鳥居をくぐり、社の前で手を叩く、周囲は薄暗く、虫たちの声に混ざって何か不吉な息づかいが聞こえるような気がした。
それを振り払うように強く目を閉じると、彼女は心の内で感謝を伝える。その感謝が誰に対してのものか、本当は良くないものではないか、そんな考えが唐突に湧いてきて、彼女はかぶりを振って合掌を解いた。
目を開くと、夕陽が雲に隠れて周囲は暗くなっており、振り返ると赤々としていた鳥居は、黒く闇に染まり、本来の姿からは想像出来ないほどに、威圧的な姿をしていた。
彼女はその鳥居を視界に入れないよううつむいて、石段を目指して足を進める。
――かごめ、かごめ
どこからか童歌が聞こえてきて、彼女は顔を上げた。周囲を見渡すと、既に沈みきった夕日が、雲の間から不吉な光をにじませている。
しかし声の出処は分からない。左右に広がる木々の隙間からも、背後の社からも聞こえているような気がした。
思わず息をのみ、彼女は石段を急いで降りはじめる。童歌はその間もずっと聞こえていた。
――籠の中の鳥は、いついつ出やる
登ってきたとき以上に、早い調子で石段を下る。着崩れていく和服もいとわず、荒くなっていく息を整えることも出来ず、ただこの不気味な空間から逃げ出すべく石段を降り続ける。
――夜明けの晩に、鶴と亀が滑った
石段を半ばまで下ったところで声は聞こえなくなった。それに安堵して彼女は足を止め、胸をなで下ろす。危機を脱したのだという確認が胸に広がっていた。
しかし、息を整えている彼女の背中を、強い力で何かが突き飛ばした。力が抜けていた彼女は、それだけで体勢を崩し、手すりも何もない石段の上で宙を舞う。
驚きと恐怖の中、彼女は手をつくことすら忘れていた。ただ、押された感触だけは確かなものだった。たとえ不意を突かれていなかったとしても、階段から突き落とされていたであろうほどに。
地面に激突する寸前、彼女は身をよじって自分を突き飛ばした何かを確認しようとした。
――後ろの正面だあれ
――
人生には変化は不要である。
それが今まで一七年生きてきて感じた事であり、俺の中での真実だった。
「だからぁ! かごめ歌には隠された意味があるんだよ!」
その声は図書室全体に響き渡り、利用している生徒全員の顰蹙を買った。図書館という静かな場所で、騒がしくするのも変化と言えるのなら、まあこの叫びも不要な物であると言えるだろう。
八月三十一日、夏休みの宿題を終わらせられない無計画な学生と、受験に向けてスパートを掛ける計画的な学生の二つが同居しているこの場所で、そんな素っ頓狂なことを言い出したのは、残念ながら俺の友人である嶋田雄輝だった。
センターパートに分けた髪を揺らして、目の前にある原稿用紙から目をそらすように放たれたその言葉は、明らかにこの辛い現実から目をそらすための物だった。
「分かった。分かったから静かに……」
「この本を読めば分かる! 宗真! お前も――」
「図書室ではお静かにお願いします」
熱のこもった調子で怪しげなオカルト本を突き出してくる雄輝だったが、それは近づきつつあった司書の先生に遮られてしまった。
「あ、す、すいません……」
「他の利用者のことも考えてくださいね」
そう言って眼鏡の位置を直した司書の先生は、図書室入り口のカウンターへ戻っていく。いつも何を考えているか分からない柔和な表情をしているが、言葉の中に微かな怒気があったことを俺は見逃さなかった。
「言われちまったな」
「熱くなりすぎたか……」
まあこんな馬鹿なやりとりをしてるってことは、俺たちは受験に向けて勉強する計画性のある優等生では無いってことで、つまりは宿題を終わらせていない。すこぶる要領の悪い生徒の一人というわけだ。
「で、読書感想文の内容が『それ』なわけか」
俺は雄輝が手にしている本を指さして問いかける。彼は数学問題集も残っていたはずだが、どうやら数学Ⅱの授業よりも現国の授業の方が先にあるため、こっちを先に終わらせる作戦らしい。
俺も目の前にある真っ白なノートから意識をそらすように、雄輝に問いかけた。
「そうそう、課題図書が無かったじゃん? なんか尾野センは村上春樹を読ませようとしてたけど、こういうのがダメって事は無いもんな」
先ほどよりも幾分か抑えた声で雄輝は話す。確かに、なんか夏休み前のホームルームで延々「村上春樹」の良さを語っていた先生だったが、その熱意は雄輝に届くことは無かったらしい。
「そんでな、この歌には古代日本から綿々と続いている神道観があってな」
「神道って、お前の家お寺だろ、そんなこと言ってて良いのかよ」
こう見えて、嶋田雄輝は寺の息子である。しかも明治維新の辺りから続く由緒正しい家系だ。ゆくゆくは継ぐことになるのだろうが、この調子の人間がそんな寺の住職になると思うと、非常に不安をおぼえる。
「いいんだよ、別に出家してねえし、この髪見りゃわかんだろ。じいさんと親父が健在な間は俺にお鉢は回ってこねえよ」
そう言って雄輝は自慢のセンターパートを見せつけてくる。実は軽く染めているのだが、生活指導に引っかからないギリギリの色調整をしているらしい。涙ぐましい努力だが、その熱意はどうか夏休みの宿題にも向けてほしかった。
「それよりな、この本によると、かごめ歌に込められた怨念が――って、聞いてるか?」
「ああ、聞いてる聞いてる。そのまま続けて良いぞ」
黒地に目玉が描かれた表紙なんて、明らかに「それ」である。だから俺は、雄輝の話を聞き流しつつ、自分の宿題を進めることにした。
俺が残っているのは数Ⅱ問題集が五ページほどで、今日頑張ればなんとか九月一日には何の後ろめたさもない二学期を迎えられるはずだった。
真っ白いノートに向かい、設問を教科書と突き合わせて解きつつ、そして雄輝の話を聞き流しつつ、確実に俺の宿題は残りを減らしていく。
「――って訳なんだが、宗真はどう思う?」
「そうだなお前の考えてるとおりだよ」
適当に相づちを打ってやりながら、俺は問題集のページをめくる。こいつ陰謀論とかにハマりそうだな、とちょっとだけ失礼なことを考えた。
「おーい、話聞いてねえだろ宗真サンよぉー」
「いや、だって俺も課題残ってるし……」
「なんだよ話聞くくらい良いじゃねえか、まだ日は高いぞ?」
雄輝はまた大きくなってきた声でそうまくし立てるが、俺が静かにするようジェスチャーをすると、まずいと気づいたようで言葉を切った。
「――っと、悪い」
「とりあえず手を動かそうぜ、俺は夕方には帰りたい」
そう言って雄輝の前に置かれた原稿用紙を指さす。そこにはタイトルと名前しか記入されていなかった。
「うーい……あーめんどくせぇ」
雄輝の頭を掻く姿を横目に、俺も問題集に向き直る。こいつの心配ばかりしていたが、俺の方も安心というわけでは無いのだ。
カリカリと、シャーペンを走らせて数式を描いていく。適当に式を変形させるだけでは解けなそうなので、しっかりと方向性を立てて……
「……」
ダメだ、完全に行き詰まった。
少なくとも今の俺に思いつく解法では解けない。答えを見るのも手だが、この徒労感はいかんともしがたい。
と言うわけで、俺は問題集から目を離して天を仰ぎ見る。やる気が挫けそうなので回復するまでの小休止という奴だ。休憩が終わったら回答編を見ながら、正しい答えを写していこう。
そもそも最初から回答編を見ればいいというのはごもっともだが、俺はそこまで不真面目でも要領が良いわけでもないので、ご勘弁いただきたい。
隣をちらっと見ると、雄輝が文字埋めに四苦八苦している姿が映る。女っ気の無い夏休み最終日だが、これはこれで趣がある。このまま流されるように平穏無事に暮らしていけたら、それだけで人生は成功と言えるだろう。たとえ小さな不満があろうとも――
「宗真先輩、お疲れ様です」
静かな、花が揺らぐような声と共に、そんなことを考えていた俺の前にペットボトルのお茶が置かれる。声のした方向を振り返ると、黒く艶のある長髪が目に入った。そうか、彼女が来てくれているなら、女っ気がないなんて間違っても言えないな。
「ああ、ありがとう。澄玲ちゃん」
嶋田澄玲。
街を歩けば誰もが振り返るような美人で、その性格も淑やかで、同級生はもちろん上級生や他校生からの注目も噂に聞くことがある。そういう高嶺の花とも言える。
当然そんな人気がある彼女ならば、彼氏の一人や二人は居そうなものだが、意外にも男性からのアプローチは少ないらしい。
「澄玲ーおにいちゃんにはー?」
「はい、買ってきていますよ」
その理由としては、雄輝の妹というのが最も大きなものだ。
……いや、雄輝の義弟になりたくないという話では無く、嶋田家の令嬢と言う意味である。
高校生と言っても、世間体は理解しているつもりだ。寺なんて言う厳格も厳格な家のお嬢様に手を出そうなどと言う恐れ知らずはそうそう居ないし、恐れを知らないような輩は澄玲ちゃんの眼鏡に適うわけが無い。
「はぁ、よく気がつく妹をもっておにいちゃんはうれしいよ」
しみじみと話す雄輝に調子を合わせて俺も続く。
「いやあほんとほんと、俺も嫁に欲しいくらいですわ」
「おっ、良いねえ、義兄が俺になるけど良いのかい?」
「あー……」
「なんだよその反応!」
雄輝とのお決まりのやりとりをする。これをやると澄玲ちゃんは恐縮して顔を真っ赤にするので、それが面白くて俺と雄輝は度々こういう事をしていた。
「あ、あの、先輩っ」
だが、いつもは顔を真っ赤にして黙り込む澄玲が、珍しく俺たちの会話に入ってきた。
「ん?」
「お兄ちゃんが義兄になるの、そんなに嫌ですか?」
「あ、えっと……」
不安げで、真剣な表情の彼女に、俺は気圧されてしまう。
「いや、別に雄輝のことを馬鹿にしてるわけじゃ無くてだな……」
「そ、そうそう、ただのじゃれ合いって言うか、付き合い長いからこういうことも言えるわけで、な?」
時々、澄玲ちゃんはこういう冗談の通じない時がある。俺たちは既に慣れっこだが、あんまり親しくない間柄でこれをやられると、確かに距離を測りづらいな、と思えてしまう。
「あ、そ、そうなんですか……」
「ていうか、そもそもそんな嫌な奴だったら友達続けてないしね。安心しなって」
俺と雄輝は小学校からの付き合いである。
家庭の事情で引っ越してきた俺の最初の友人が彼で、彼と遊んでいるといつも後ろをついてきていたのが澄玲ちゃんである。
土地勘も何もない俺にとって、地元で盤石とも言える基盤を持った嶋田家の兄妹には、お世話になりっぱなしだった。大人な言葉を言えば後ろ盾、と言うものだろうか。
実際雄輝は、クラスの中でも中心的な存在だし、こう見えて生徒会副会長でもある。本人がどう思っているかは知らないが、親父さんの後を継いでいく素養はあるらしい。まあ、坊主としての素養は別だが。
「じゃ、じゃあ……―ー」
「え、ごめん、なんて?」
静かな図書館で、これほどまでに近くに居たのに、澄玲ちゃんの言葉は全く聞き取れなかった。時々めちゃくちゃ小声になるんだよな、この子。
「な、何でも無いです!」
真っ赤な顔のまま、首を横に振る。なんか面白いことを言ったけど聞き取ってもらえなくて滑った的な事は俺もよくあるので、それ以上は追求しないことにする。
……さて、そんなことをしているうちにやる気が戻ってきたぞ、回答編を見ながら宿題を終わらせてしまおう。
「えっと……あ、そうだ。そういえば、宗真先輩ってこの間誕生日でしたよね」
「うん? ああ、そうだけど」
シャーペンを握ってさあ書くぞ。と言うところでまた澄玲ちゃんが口を開いた。俺の誕生日は八月の二十八日、夏休み中ということで、友人から祝われるということはそうそう無いのが悲しいところだったりもする。
「プレゼント、何か考えておきますね」
「え、いいよ。そんな気を遣わなくて……そうだ、このお茶が誕プレでもいいよ」
俺は澄玲ちゃんに渡されたペットボトルを持ち上げて揺らす。まだまだ中身は十分入っていて、パッケージフィルムの裏で水面が揺れていた。
「駄目ですよ。こういうのはきちんと祝うべきです」
気を遣わなくていい。そう言っても澄玲ちゃんは聞かなかった。一度言い出したら聞かないんだよなぁ。この子。
「そっか……ありがとう。待ってるわ」
「はい。期待しておいてください」
こういう根比べでは、先に折れてしまうのが円滑に人間関係を続ける秘訣である。そういうわけで俺は、満足げな澄玲ちゃんを横目に見つつ、問題集に取りかかるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます