第三話 燃える掌
炎の粉が夜空に舞っていた。木造家屋が並ぶ路地は、赤い舌に呑まれていた。空の星は地上の明かりに照らされ、輝きを失っていた。
消防服に身を包んだ男は、煙を割って走り抜ける。背後で梁が崩れ落ち、火の粉が肩に降り注いだ。彼は構わず中へ進み、腕に小さな影を抱え込む。
「外へ!」
仲間の叫びに応えるように、彼は振り返らず駆け抜けた。黒煙の壁を割って飛び出した瞬間、群衆が声を上げた。
子どもを抱いたまま地面に膝をつく。子の小さな胸が上下しているのを確かめて、彼は静かに息を吐いた。
「よくやった!」
「さすがだ!」
歓声と拍手が重なった。
男はただ首を振り、短く答えた。
「当然のことをしたまでです」
報道陣が押し寄せ、カメラが眩い光を焚いた。
「英雄だ!」と誰かが叫ぶ。
子どもは泣きながら男の首に腕を回した。
その表情は淡々としていた。
町の人々は、その寡黙さを「真の英雄の証」と受け取った。
* * *
火事の翌日、焼け跡の灰の中で彼は膝をついていた。
黒く炭化した柱の根元に花束を置き、静かに両手を合わせる。
風が灰を巻き上げる。彼は目を閉じ、長い時間動かない。
「また来てるのか……」
背後で誰かが囁く。
「救えなかった人のために、いつも祈ってるんだ」
「心のある人だよ。あの人が町を守ってくれてるんだ」
彼は振り返らない。
ただ、灰に顔を伏せている。
この姿は何度も見られていた。火事のたびに、彼は焼け跡に立ち、沈黙のまま花を供える。
涙を浮かべる町人もいた。
「胸が痛むよな……英雄でありながら、あんなに人の死を背負って……」
男は何も言わなかった。
*
夜。夢の中で、炎はゆっくりと音を立てて燃えていた。
ぱちぱちと木が裂ける音。油がはぜる匂い。熱で皮膚がひりつく。
その赤い闇の中で、誰かの影が揺れている。
子どもの細い腕。女の髪が煤で張りついた顔。老人の曲がった背。
──誰か。
──おじさん。
──助けて。
呼び方はばらばらだが、響きは同じだった。
彼に縋る声。救いを乞う声。
炎の壁の向こうから、すすり泣きが重なる。
「待て……今、行く……」
夢の中の彼は叫ぶ。だが足は重く、膝まで灰に埋まって動かない。
火が近づく。煙が喉に入り込み、呼吸が裂ける。
腕を伸ばしても届かない。影は炎に呑まれ、口だけが大きく開く。
──どうして。
──置いていかないで。
「違う! 俺は……!」
叫びは熱に呑まれる。灰が雪のように降り、皮膚を焦がす。
耳の奥で子どもの泣き声が釘のように打ち込まれ、目を閉じても消えない。
彼は布団の中で喉を詰まらせ、汗で濡れたシーツを掴んで目を覚ました。
全身が強張り、呼吸は荒く、心臓は破裂しそうに鳴っていた。
部屋の闇の隅で、まだ赤い揺らめきが残っている気がした。
朝、同僚が顔を覗き込む。
「大丈夫か? すごい顔色だぞ」
「また眠れてないんじゃないか?」
「少し休めよ」
彼は小さく笑って答えた。
「大丈夫だ」
しかしその夜も、夢は繰り返された。
今度は煙の中で、焼け焦げた匂いに混じって皮膚の焦げる臭いが漂った。
火の粉の向こうに、伸ばした子どもの手が指先ごと崩れていく。
泣き声が空気を裂き、肺に入り込む。
彼は飛び起き、荒く息を吐き続けた。
汗は背中を伝い、シーツは湿っていた。
翌日も、彼は焼け跡に立ち、膝をついて手を合わせた。
町の人はその姿を見て涙を流し、口々に「死者の声を背負っている」と囁いた。
彼は何も言わなかった。
* * *
夜。
煙の中を歩く夢の中で、声が形を変えた。
──おまえは英雄なんかじゃない。
──悲しんでなどいない。
──祈りは嘘だ。
彼は頭を抱え、必死に首を振った。
「違う……俺は……俺は救おうと……」
声は重なり、耳を裂くほどに膨らんだ。
──嘘つき。
──おまえは人を見捨てた。
──焼け跡に立つのも芝居だ。
「やめろ……違う、俺は……!」
額を床に叩きつけ、耳を塞いでも声は骨の奥で反響する。
「俺は……みんなを助けた……!」
だが声は止まらない。
──英雄じゃない。
──燃やす者だ。
──悲しんだことなど一度もない。
「違う、違う……そうだ、違うんだ!」
胸の奥で何かが裏返った。
笑いが喉からせり上がる。
「悲しんでなんかいなかった!」
「俺が火をつけたんだよ!」
そこからは雪崩だった。
「もっと悲鳴が欲しかった! あの『助けて』って声! あれが俺の血を沸かせたんだ!」
「救った? あれは飾りだ! 声が聞きたくて燃やしたんだ! 火の中で泣き叫ぶ顔を俺が引きずり出した瞬間に拍手が爆発する! あれこそが蜜なんだ!」
「祈り? 弔い? あれは見世物だ! 俺が英雄だと皆に刻みつけるための舞台だった!」
「悲しいなんて一度もなかった! 俺は悦んでた! 焦げた匂いも、割れた声も、崩れ落ちる天井の音も、全部が俺を震わせた!」
「まだ足りない、もっと欲しい! 死者の声も、生者の拍手も、全部俺の腹に詰め込みたかった!」
涙と唾液を垂らしながら、笑いと嗚咽が入り混じって噴き出した。
「もっと声を聞かせろ! 助けを! 感謝を! 俺を神にする声を!」
声は止まらなかった。
幻聴と笑いが渦を巻き、部屋の空気そのものが燃えるように熱を帯びていった。
* * *
最後の火災。
炎は予想以上に広がり、男は瓦礫の下敷きになった。
仲間が駆けつけたときには、すでに息はなかった。
遺体は瓦礫から引き出された。
肺から喉にかけて、焼けただれた声帯が幾重にも詰め込まれていた。
呼気がかすかに漏れるたび、その声帯が震え、断続的に声を響かせた。
「助けて」
「ありがとう」
「助けて」
「ありがとう」
子どもの声、女の声、老人の声。焼け焦げた声が交互に紡がれた。
町の人は泣いた。
「最後まで人を救った英雄だった」
「彼のおかげでどれほどの命が助かったか」
葬儀は盛大に行われ、花が山のように積まれた。
彼の遺影には、炎の前に立つ真剣な横顔が選ばれた。
誰も、その笑い声を知らなかった。
* * *
ここで話は終わったはずだ。
だが——あなたに問おう。
もしあなたが誰かを讃え、祈りを捧げるとき、その姿は本当に清らかだと信じ切れるだろうか。
その沈黙、その弔いの仕草は、誰かの承認欲求を満たすための演技にすぎないかもしれない。
次に炎が上がったとき、あなたは何を聞くだろう。
「助けて」と叫ぶ声か。
「ありがとう」と泣く声か。
それとも——燃やす者の笑い声か。
——————
次話は 毎日18:00更新。
「喉を濡らす蜜」──寄り添うふりをして、蜜を啜る女の話。
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