第二話 鏡に映る呼吸

 夕暮れの教室は赤に沈み、机の列が長く影を落としていた。彼女は最後まで残った子の席に腰をかけ、鉛筆を握る小さな手に自分の指をそっと添えた。


「ここは間違ってないよ。数字が怖いだけ。いっしょにゆっくりやれば大丈夫」


 子どもは下唇を噛んで、こくりと頷く。ノートの罫線に涙が落ちないように、おでこを寄せて計算をなぞる。彼女は背を丸め、時々頭を撫でる。汗と石鹸の混じった匂いが髪から立っていた。


 職員室に戻れば、同僚が紙コップの湯気越しに囁いた。


「最近あの子、笑うようになったって。あなたのおかげよ」

「保護者が言ってたわ。『厳しいけど、ちゃんと見てくれる先生』だって」


 彼女は控えめに笑い、首を振る。


「いえ、皆さんのおかげです。私ひとりじゃ何も」


 言葉の角は磨かれていた。ひとつひとつが、相手の胸に刺さらない丸さで出来ている。


 保護者会では父兄が列を作った。


「先生、家でも宿題するようになりました」

「叱るときも優しくて、ありがたいです」


 彼女は名札を押さえ、何度も揺れるように頭を下げる。笑顔は長く留まらず、すぐ薄れる。誰も彼女の疲労の色を見つけようとはしない。



 * * *



 夜の教室。黒板のチョークを拭き取り、配布物を仕分け、戸締まりの札を確認したとき、黒板脇の姿見に小さな影が映った。肩を震わせ、声もなく泣いている生徒の姿。

 彼女は椅子をきしませて立ち上がり、振り返る。机は整然と並び、廊下は静まり返っていた。誰もいない。


「……どこ? どこにいるの?」


 返事はない。だが鏡の中の泣き顔に向かって、声が零れた。


「泣かないで。先生がいるから。大丈夫だから」


 翌日、廊下の窓ガラスに嗚咽する影が映った。


「待って。今すぐ行くから」


 水飲み場のステンレスの面にも、涙で濡れた頬が浮かぶ。


「先生が守るから。こっちを見て」


 職員室へ駆け込む彼女を見て、若い講師が声をかけた。


「どうしたの?」

「子どもが泣いてるの。鏡の中で。助けてあげなきゃ」

「誰もいないよ?」

「いるの。私が行かないと」


 短く、迷いのない調子だった。



 * * *



 日が経つほど、鏡の中の子どもたちは声を持ち始めた。


 ――どうして。

 ――先生は守ってくれるんじゃなかったの。


 彼女は耳を塞ぎ、首を振る。


「やめて。そんなこと言わないで」


 ――先生の手、痛かった。

 ――怒鳴る声が、こわかった。


「違う。私は守ろうとしたの。守らなきゃいけないの」


 彼女は胸の前で自分の手を固く握った。


「私が盾にならないと。私が——」


 鏡は別の誰かを映した。泣く子の肩を掴み、揺さぶる人影。机を叩き、睨みつける人影。怯える目を見下ろし、唇の端を冷たく持ち上げる人影。


 ――先生、たすけて。

 ――痛いよ。

 ――こわい。


 涙が滲み、声が途切れた。


「待って、今行く。先生が行くからね」



 * * *



 保健室の白は乾いた匂いがした。養護教諭が椅子を引く。


「最近、眠れてる?」

「眠れてるわ。問題ない」

「鏡の件、気にかかってるの。疲れだと思うけど」

「違うの。助けを求める声よ。私が行かなきゃ」

「誰かと分担しても——」

「私が行くの」


 即答だった。彼女の舌には「私が」が馴染んでいた。

 校長は朝礼の壇上で彼女に会釈し、終わると近寄って言った。


「無理は禁物だよ。君は十分頑張っている」

「子どもたちが待っていますから」

「他にも先生はいる」

「私が行きます」


 校長は押し黙り、片眼鏡を上げた。


 その夜、彼女は台所で蛍光灯を点けた。電子レンジの曇った黒い扉、冷蔵庫の扉の銀色、スマートフォンの黒い画面。どれも小さな鏡になって彼女を返す。


「見えてる」


 彼女は自分に告げるように言い、コートを椅子にかけ直した。蛇口から落ちる水滴が、泣き声に似ていた。


「守るから」


 手を合わせるように胸の前で指を組み、ぎゅっと握った。



 * * *



 朝礼の日、教卓に立つ彼女はいつもより少し早口だった。チョークが板書で擦れて音を立てる。


「ここは大事。できなくても、先生といっしょにやる」


 最前列の子が手を挙げる。


「先生、鏡、どうしたの?」


 教卓の上の小さな手鏡は、伏せたり起こしたりを繰り返していた。起こすたびに、教室の隅に別の泣き顔が映り、伏せれば消える。


「なんでもないよ。じゃあ次の問題」


 彼女は笑ってみせたが、頬が引きつっていた。


 休み時間、廊下の窓の前。


「どこ」

 ――ここ。


「大丈夫。こっちにおいで」

 ――行けない。


「じゃあ、私が行く」

 ――痛いの、まだ。


「ごめん……いや、ごめんじゃない。守る。守るから」


 言葉がもつれ、呼吸が浅くなる。教室の隅で、小さな手鏡がかちりと音を立てて倒れた。



 * * *



 夕方の職員室。缶コーヒーのプルタブが鳴り、湯気が白い。


「土曜のボランティアも行くの?」

「行きます」

「家庭訪問も重なってるよ」

「行きます。あの子の家は、先生が行った方がいいから」


 スケジュール帳は青いインクで埋まっている。補習、巡回、面談。


「あなたばっかり頑張らなくていいのに」


 年配の教師が言った。


「私が行くと決めたので」


 口調は静かで、揺れなかった。



 * * *



 夜。教室の扉が重く閉まる。電灯の白は冷たい。

 黒板脇の姿見は、昼間よりも深い黒だった。彼女はその前に立ち、ゆっくりと手を伸ばす。冷たく硬い表面が指先に触れる。鏡は無数の泣き顔を映した。列になり、こちらを見ている。


 ――どうして。

 ――守ってくれるんじゃなかったの。

 ――先生、あのとき——


「やめて」


 彼女は耳を塞ぎ、首を振る。


「私は守った。守ろうとした。守らなきゃ。私が、盾にならなきゃ」


 鏡の中の彼女が、子どもの肩を掴む。力は強すぎる。


 ――いたい。

「違う。私は正しい叱り方を——」


 ――こわい。

「違う。私は、私が——」


 言葉が崩れ、舌が乾いた。胸がつかえる。


 その次の呼吸で、声の色が変わった。吐息が湿りを増す。鏡面の手形が増え、表面が白く曇る。


「……そうよ」


 笑いが混じった。


「そう。私は——泣かせたかったの」


 膝が床に触れ、ワックスがきゅっと鳴る。


「怯える顔を見ると、胸の奥が甘く痺れた」

「涙の光で、私が生きてるって分かる。『先生』って呼ばれるより、泣く声の方がずっと響いた」


 彼女は胸の中央を指で押し、鼓動を確かめる。


「助けたんじゃない。守ったんじゃない。支配したかったの」

「弱い声は、手のひらで形を変えられる。小さな肩は、指で震えさせられる。怯える目を見下ろすと、血が熱くなった。あれは喜び。あれだけが、私のごはん」


 呼吸は荒く、吐いた息は白く濁って鏡に吸い込まれていく。鏡の裏側で、細かな泡が弾けるように見えた。


「『ありがとう』って言わせたかった。何度でも。枯れるまで。私が必要だって、証明してほしかった」


 無数の手形が鏡の内側から浮かび、彼女の頬、肩、鎖骨へと触れる。冷たさはない。ただ、やわらかく、離れない。


「ごめんね。ずっと、欲しかったの。泣き顔と、お礼。あなたたちが私を必要とする瞬間だけが、本当の私だから」


 彼女は額を鏡に押し当て、目を閉じた。吐息は濃く、部屋の温度が下がっていく。



 * * *



 朝、階段を駆け上がる足音が響いた。扉が開き、短い悲鳴が切れる。


「先生が——!」


 机の列の間に、彼女は仰向けに倒れていた。顔は上を向き、口元がわずかに開いている。

 両目は破裂していた。眼窩いっぱいに小さな乳歯が詰め込まれ、白い粒がぎちぎちと擦れ合っていた。血はほとんど流れていない。歯は乾ききらず、ところどころ薄い赤で繋がったままだ。

 喉には白い泡の塊が固まってはみ出し、頬を汚していた。指先は教卓の縁を掻き、爪の間にはチョークの粉が詰まっている。


「救急! 早く!」

「脈、なし……」

「眼が……これ、どうなって……」


 医師が灯を持って近づく。


「……眼球破裂。眼窩内に硬組織様異物こうそしきよういぶつ……乳歯……? これは……」


 言葉はここで途切れた。


「……脳の、異常かもしれない」


 それらしい言い方をして、誰かが曖昧に締めた。

 同僚は口を覆い、肩を震わせた。


「いい先生だったのに」

「子どもたちのために、いつも」


 廊下には保護者が集まった。


「惜しい人を亡くした」

「うちの子、先生に救われたのに」


 花が届き、教室の前はしだいに色で埋まった。教室の隅の姿見は布で覆われ、画鋲で留められた。布越しに、ぎちぎちという小さな音がしたが、誰も耳を寄せなかった。



 * * *



 葬儀の日、白い花の匂いが会場を満たした。写真の中の彼女は柔らかい目で微笑んでいる。


「守ってくれる先生でした」

「どの子にも公平に厳しく、最後には必ず抱きしめてくれた」


 校長は深く頭を下げて、弔辞を読んだ。


「彼女は、最後まで生徒のために尽くした先生です。私たちは、その志を忘れません」


 拍手は起きず、静かなうなずきだけが波のように広がった。

 彼女のデスクには小さな花束が置かれ、スケジュール帳は閉じられた。青いインクで埋まった予定は、もう誰もなぞらない。

 教室では代替の先生が授業を続け、窓の桟は丁寧に拭かれ、黒板には新しい字が並ぶ。姿見の布は、いつの間にか二重になっていた。画鋲は増え、端はテープで目張りされた。誰かが近づくと、その布はかすかに呼吸するように膨らみ、しぼむ。


 夜の学校は、音を吸う。廊下の蛍光灯がひとつ、またひとつ落ち、教室の鍵が回される。教壇のチョーク受けに残った粉だけが、微かな白で夜を縁取る。

 布の下の鏡は黙っていた。いや、正確には黙ってはいない。内側で、極小の噛み合わせの音が続いていた。ぎち、ぎち、と。小さく、しかし終わらないリズムで。



 * * *



 ここから先は、あなたの番だ。


 この物語の外に立っていても、教室の空気を吸ったことがあるなら、鏡の前に立つ感覚は思い出せるはずだ。

 目を合わせないようにしても、視界の端に、列が見えるだろう。泣き顔の子どもたちが、こちらを見ている列。


 そのいちばん端に、あなた自身の顔が、紛れていないか。

 もし見つけてしまったら、耳を澄ませてはいけない。歯の音は、ありがとうと同じ形で鳴る。甘く、明るく、食べやすい音だ。


 そして、それは癖になる。

「守らなきゃ」という言葉の裏で、あなたの呼吸がどんな形をしているのか、鏡はよく知っている。


 だから、近づかないで。

 どうしても近づくなら、目を閉じて。

 どうしても目を閉じられないなら——そのときは覚悟を。


 あなたの眼窩が、何で満たされるのかを。

 あなたの喉の奥で固まる白いものの、味を。


 この話はもう終わった。

 終わってほしいと願うなら、鏡から離れて。

 離れられないなら、せめて声は出さないで。


 声は、すぐ形になる。

 そして形は、いつまでも残る。



 ——————


次話は 毎日18:00更新。

「燃える掌」──その熱は、誰のために燃えているのか。

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