その家に帰るなら

波多野ほこり@ミステリー

雨と赤いシャツの家

 こんにちは。休憩中かい? ……ああ、商売をしているのか。この公園で? お、あのキッチンカーで惣菜を売っているのか。実に興味深いけれど、こんな雨では売れるものも売れないんじゃないか?


 僕? 今は休職中さ。病気でね。……まあ、ホームシックのようなものと思ってくれればいいさ。


 このへんも開発が進んできたね。あのあたりなんか、昔は古い煙草屋だったし、その隣は確かまだ駄菓子屋があった。いの一番に潰れてしまったのは駄菓子屋だったね。今じゃコンビニやしゃれたバーなんか建てられちゃって、風情もなにもあったもんじゃない。


 ねえ、君。

 僕にはね、こんなふうに雨の降る日、思い出すことがあるんだ。

 休憩の間——そのコーヒーを飲み終えるまででいいよ、聞いてくれるかい?


 僕はね、二十年前、作家を目指す苦学生だった。大学を留年してまで原稿と向き合っていたんだ。


 そんなんだから、とても古いアパートに住んでいた。ルームナンバーは201。駅からは徒歩で四十分以上。不便だろう? けど、家賃が三万円くらいで安かったんだ。実家からの仕送りだけでやりくりしなければいけなかった当時の僕にとっちゃあ、こんなに有難いことはなかったよ。

 大家さんがとてもいい人でね。自分だって七十近い身だってのに、僕の食事の心配をして毎日おかずを作って届けてくれた。「自分のためだけに台所に立つのが億劫だから」ってね。同じアパートの、101号室に住んでいた。


 大家さん——佐伯さんは、旦那さんを亡くしたばかりの女性だった。一人娘も遠方に嫁いでしまって一人ぼっちだった。一人きりで旦那さんの遺したアパート——佐伯荘を守っていたんだ。

 世話好きだけど、過度に人のプライバシーに踏み込んだりしない、そういう大家さんだった。僕が小説を書いていることすら知らなかったんじゃあないかって気がするよ。なんだか勉強熱心な学生さん、くらいに思っていたんじゃないかな。


 ……僕は吸わないからわからないのだけど、やっぱり雨の日は煙草に火が点きにくかったりするのかい? へえ、そうなんだ。ごめん、ふと君の胸ポケットの煙草を見て訊いてみたくなったんだ。無駄に歳はとったけど、探究心はなかなか枯れないものだね。


 ああ、佐伯さんも煙草が好きだったな。僕は詳しくないからわからないけど、日本じゃめずらしい煙草らしかった。確かに、ちょっと変わった匂いがしたな。ほかの煙草より甘いような、少しベタッとする感じの匂いで……。すまない、匂いの描写は昔から得意じゃないんだ。僕はどうやら匂いには鈍感な体質らしくてね。


 よく煮物を届けてくれたんだ。僕の実家の煮物はだしのきいた味付けだけれど、佐伯さんのは違ってた。甘いんだ。甘じょっぱくて、これが本当に煮物? なんて始めは驚いたもんさ。けれどあれはあれで美味しくてね、僕にとっては第二のお袋の味だよ。


 それに——あの頃、僕は実家の両親と折り合いが悪かったんだ。連絡なんかろくに取ってなくて、やりとりといえば毎月記帳される十万円の印字だけだった。そんなんだから、無意識に佐伯さんに母親の影を求めていたところもある。佐伯さんは、きっとそれを見抜いていたんだろうな。今思えば佐伯さんも佐伯さんで、僕のことをなかなか会えない自身の子供の代わりとして世話していたんだろう。


 佐伯さんには不思議な習慣があった。毎日、着てもいない赤いシャツをベランダに干すんだ。もしかしたら部屋着だったのかもしれないけれど、毎日おかずを届けてくれる佐伯さんがあんな派手な色の服を着ているのは見たことがない。それに、干されているのは男性ものだったんだよ。

 不可解だろう? ……探究心の塊だった僕は理由が知りたくなった。その日から、勝手に佐伯さんのベランダを観察するようになった。


 まず、毎朝八時ごろに洗濯物、佐伯さんの普段身につけている服やタオルなんかを干しに出てくる。その中に赤いシャツは無い。夕方、四時過ぎにそれらを取り込む。そしてそのときに、あの赤いシャツを干すのさ。そして翌朝、洗濯物を干すときにシャツを片付ける。僕が目にした限りでは、あのシャツが濡れていたことはなかった。つまり、着てもいない、洗ってもいないシャツを佐伯さんはわざわざ干していたんだ。ちなみに、雨が降っていても関係なく、あのシャツを干していた。


 余計に理由が気になった僕は、台所の換気扇の修理を依頼するふりをして佐伯さんの部屋を訪れた。ムワッと、あの煙草の匂いがして、少しばかり顔を顰めてしまった。佐伯さんに招かれるまま部屋へ上がると、玄関先に飾られていた一枚の写真が目についた。


「こいつはねえ、旦那だよ。まだ元気だった頃のね。遊んでばっかりの阿呆の旦那だったよ」


 旦那さんは釣りが趣味だったのだそうだ。スズキだかなんだか、僕にはわからないけど大きな魚を片手にピースサインで写っていて、あの赤いシャツを着ていた。旦那さんが釣った魚を佐伯さんが捌いてやるのも恒例だったらしい。


「この写真を撮ってすぐにね。脳梗塞で倒れたんだ。以来、ボケちまって」


 佐伯さんは頭を指差して「クルクル・パー」のジェスチャーをしながらそう教えてくれたよ。クルクル・パー、……こんなふうにね。


「釣り仲間に会ってくるなんて言って出かけて、帰って来られなくなることが何度もあったんだ。苦労したよ。警察のご厄介になることもあったしね」


 佐伯さんはおもむろに写真立てを手に取って僕に見せながらこう言った。


「このシャツ、くたくただろう。新しいのを買えって、今時は安くていい品がたくさんあるからって言うのに、聞きゃしないんだ」


 思いがけずシャツの話題になって、僕は内心固唾を飲み込んだ。あのシャツの真実が聞けるかもしれないってね。

 ——けれど、シャツの話題はそれきりで、話は聞けなかった。

 僕は、結局大学を卒業してから小さな出版社で働き始めた。そんなんだから、あのアパートは引き払ってしまった。


 引越しの日、思い切って佐伯さんに尋ねたんだ。「あの赤いシャツは佐伯さんが着ているのか?」とね。


「ありゃあ、旦那のもんだよ。気に入って着ていたんだ。若い頃にあたしからもらったプレゼントだからってね」


 まあ、まじないでやってんだ。——それ以上詳しくは聞けなかったけれど、まじないや何かの儀式のつもりでやっているみたいだった。たぶん、亡くなった旦那さんとまだ一緒に暮らしているような気持ちになれるとか、旦那さんが空の上からでもあのアパートを見つけられるようにとか、そういう意味があったのだろうね。


 あの日——引越しの日、雨が降っていたんだ。引越しの軽トラックに荷物を運び込み終えて運転席からアパートを振り返ると、あの赤いシャツが雨ざらしになりながらベランダで揺れていた。

 不思議だった。僕がアパートを発ったのは昼前だったから。なぜあの日だけ、昼にシャツを出したんだろうか?


 佐伯さんは順当にいけば今頃九十歳くらいだけど——どうかな。どこかで元気に暮らしているだろうか。最近、実母を亡くしてね。ふと、第二の母のことを思い出したってワケさ。

 ——あのあたりに、あったんだ。佐伯荘は。今、ちょうどコンビニが建っているあたり。


 ……知っているのかい? 二十年も昔のことなのに。見たところ君はずいぶん若そうだけど……。


 …………それは、本当かい?

 君が佐伯さんのお孫さんだってのは。……そうか。亡くなったのか。半年前に。


 …………。

 ………………。そう、だったんだね。


 認知症の旦那さんが迷子になった日も、こんな雨だったのか。警察に連絡したり、遠方の娘さん——つまり君のお母さんにも電話をして、不安で不安でたまらない中、あっけらかんとして旦那さんは帰ってきた。——あの日、佐伯さんがベランダから取り込み損ねた、赤いシャツを目印に。

 そうか。あの赤いシャツはいつでも旦那さんが帰ってこられるように、という祈りに近い儀式だったのだな。


 では、僕の引越しの日、昼間にシャツが干されていたのは……、もしかすると旦那さんではなく僕への目印だったのだろうか?

 僕がいつか、佐伯荘に帰ってくるように。佐伯さんは僕にも帰ってきてほしいと祈っていたのだろうか。……なんて、思い上がりすぎだね。


 けれど——あの赤いシャツのことを思い出したからこそ、僕はここへ帰って来た。紛れもなく僕の帰る場所を示す目印だったわけだ。


 そうか。棺に入れてあげたのか。最期まであのシャツを大切にしていたんだね。……今頃、旦那さんも空の上で喜んでいるだろう、お気に入りのシャツが手元に戻ってきて。


 望まれていたかはわからないけど、時間は経ってしまったけど——ここへ帰ってこられてよかった。


 …………え? 君のキッチンカーで売っている惣菜?

 譲ってくれるのかい? 売れ残っても仕方がないからって?


 ありがたくいただくよ。


 ……煮物にしちゃあ、甘いな。

 けれど美味しいよ。ありがとう。今度は客として会いにくるから。それじゃ、……また。

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